ラヌルフ・ド・グランヴィル(” Ranulf de Glanville”,?-11901原語では” Glanvill”” Glanvil”などの表記ゆれがある。また日本語でもラーヌルフ、レイナルフ、ルヌルフなどの表記ゆれがあり、また”de”を入れずラヌルフ(またはレイナルフ)・グランヴィルとする表記も多い。)はイングランド王ヘンリ2世に仕えた政治家・法律家で、宰相にあたる行政長官(Chief Justiciar)を務めた。法制史上重要なコモン・ロー成立初期の裁判手引書「イングランド王国の法と慣習(Tractatus de legibus et consuetudinibus regni Angliae)」の著者と見られていたが、現在では疑問視されている。
前半のキャリアとアニックの戦い
ラヌルフ・ド・グランヴィルはサフォーク州サクスマンダム近くのストラトフォード・セント・アンドリューで生まれた。生年は不明だが1112年頃あるいは1120頃とも言われる(2英語版wikipedia(Wikipedia contributors, ‘Ranulf de Glanvill’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 9 January 2022, at 21:42 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Ranulf_de_Glanvill&oldid=1064720857 [accessed 10 January 2022])は1112年頃、GENI”Sir Ranulph “Crusader” de Glanville, Chief Justiciar of England“は1120年頃とするがいずれも出典不明。その他上記のいくつかの参考文献では生年の表記は見当たらない。)。1163年から73年にかけて、ヨークシャー、ウォーリックシャー、レスターシャー、ランカシャーなどの州長官(Sheriff)を歴任。1174年、ウェストモランドの州長官のときにアニックの戦い(Battle of Alnwick)でスコットランド王ウィリアム1世(獅子王)を捕えるという殊勲を挙げた。
1173年に勃発したヘンリ若王らヘンリ2世の子供たちの反乱に呼応して、スコットランド王ウィリアム1世(獅子王)は軍を率いて南下し、イングランドとスコットランド国境のノーサンブリア地方へ侵攻し支配地域を拡大しようと試みた。
1174年夏、ウィリアム獅子王はフランドル傭兵を含む大規模な軍勢でノーサンバランドのプルドー城(Prudhoe Castle)を包囲したが堅守に阻まれ、アニックへ転進した。このときウィリアム獅子王は軍を三分割して周辺地域の破壊と掠奪にあたらせた。7月11日、グランヴィルは騎士400名を率いてアニックへ向かい、7月13日早朝、60名ほどと少数の護衛のみのウィリアム1世の野営地を発見し、奇襲を加えた。虚を突かれた少数のスコットランド軍は悉く討ち取られるか捕虜となり、王自身も捕虜となった。
翌1175年、虜囚のウィリアム獅子王はノルマンディーのファレーズ城でヘンリ2世に対する忠誠誓約や居城エディンバラ城を含むスコットランド南部諸城へのイングランド軍進駐などが定められた屈辱的なファレーズ条約を結ばされる。グランヴィルの勝利によってアンジュー帝国はスコットランドを臣従させることになった。
行政長官としての業績
1180年、前任のリチャード・ド・ルーシーに代わって行政機構の長である行政長官に就任した。グランヴィルは軍功だけではなく、裁判官としての手腕を持っており、ヨークシャーの州長官時代に裁判を通じて多額の動産を没収し、これが高く評価されて昇進した(3キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会95頁)。ヘンリ若王の反乱鎮圧後、1176年からヘンリ2世は行政長官の下に各部門の長を据えるなど、行政機構の再編を進め行政長官職は事実上王に次ぐ権限を持った。ルーシー同様、グランヴィルも『副王の権威をもって』(4ルゴエレル、アンリ(2000)『プランタジネット家の人びと』白水社、文庫クセジュ60頁)その任にあたった。このころ彼の補佐役として頭角を現したのが名宰相として知られる後の行政長官・尚書部長官(大法官)ヒューバート・ウォルターである。
ヘンリ2世治世下でリチャード・ド・ルーシー、ラヌルフ・ド・グランヴィル両行政長官主導で進められたのが司法制度の整備である。ヘンリ1世時代に始められた、領主裁判所と王や中央政府の重臣らによる巡回裁判をさらに進めて、領主裁判所の遅延の場合や土地所有権の問題に関して王の裁判所が裁判を行うという上訴権を確立した。また『国王裁判所に上訴されたこれらの訴訟や審問における立証方法として神判、決闘、雪冤宣誓などの非合理的方法にかえて事件発生地住民代表による事実認定』(5青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社235頁)すなわち、陪審制が導入・運用された点において、法制史上の画期といえる。
コモン・ローの萌芽
こうして司法・裁判制度の整備が行われたことで十二世紀から十三世紀にかけて現在の慣習法の萌芽が見られる。
『十二世紀後半からできあがってくる国土のどこにも適用される法は、特殊な地域慣習法にたいし全国的に共通な法の意味でコモン・ローとよばれるが、初期にはその主要な部分は封建制に立脚した、人の土地にたいする権利にかんする諸規範からなっていた。いいかえれば初期のイギリス法は国王の裁判所で運用され、全国土をつうじて適用可能な封建法だった。このようなかたちでイングランドにおいて早熟な法の統一可能になったのは、ひとえに強大なアンジュー家の王権の力による』(6青山吉信(1991)276頁)
1187~89年ごろに著された初期コモン・ローの解説書である「イングランド王国の法と慣習(Tractatus de legibus et consuetudinibus regni Angliae)」をラヌルフ・ド・グランヴィルを著者とする見方が信じられて「グランヴィル」の別名で広がっていたが、近年では別の著者によるものとする説が有力で、著者について確実なものではない(7直江眞一(1995)によればグランヴィルの他、ともに行政長官を務めたヒューバート・ウォルター(在任1194-98)、エセックス伯ジェフリー・フィッツピーター(在任1198-1213)の三人が著者の可能性があり、ジェフリー・フィッツピーターが有力視されている(直江眞一(1995)「代襲相続法とジョン王の即位 : 「国王の事例」をめぐって」(九州大学法政学会『法政研究』61巻, 3/4上号)DOI: 10.15017/2009.555-556頁))。同著は十二世紀の裁判の運用の実例が多く記述されており、ローマ法と地域慣習法に代わるコモン・ローの拡大をもたらしたとして。英国法研究史上、特にこの時代を「グランヴィル時代(Age of Glanville)」(8”Ranulf de Glanville | English politician and legal scholar | Britanica”)と呼んで非常に重要視されている。
失脚と死
1189年、息子リチャードの反乱によって追い詰められたヘンリ2世が病死し、リチャードが王位につくと、同9月17日、リチャード1世は突然グランヴィルを解任の上で逮捕・監禁して身代金の支払いを要求した。目前に迫っていた十字軍遠征の戦費のためだと思われる。グランヴィルは15,000ポンドと多額の身代金の支払いによってようやく解放された。
その後、高齢をおしてリチャード1世の十字軍遠征に従軍し、1190年10月頃、アッコ包囲戦(Siege of Acre)中に陣没した。
彼の失脚後、行政長官職は第三代エセックス伯ウィリアム・ド・マンデヴィル(William de Mandeville, 3rd Earl of Essex)とダラム司教ヒュー・ド・ピュイセット(Hugh de Puiset, Bishop of Durham)の二人体制となるが、就任直後にエセックス伯が急死し、90年にはダラム司教も失脚、イーリー司教ウィリアム・ロンシャン(William Longchamp, Bishop of Ely)が継ぎ、リチャード1世の不在をいいことにロンシャンが専横政治を行ったことから、諸侯の反発を呼び、王弟ジョンとの政争が始まるなど、内政は著しく混乱して、アンジュー帝国の弱体化を招くことになった。1194年にグランヴィルの補佐役だったヒューバート・ウォルターが行政長官となってようやく内政が安定する。
参考文献
- 青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社
- 森護(1994)『英国王室史事典』大修館書店
- キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会
- ハーヴェー、バーバラ(2012)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(4) 12・13世紀 1066年~1280年頃』慶應義塾大学出版会
- ルゴエレル、アンリ(2000)『プランタジネット家の人びと』白水社、文庫クセジュ
- 直江眞一(1995)「代襲相続法とジョン王の即位 : 「国王の事例」をめぐって」(九州大学法政学会『法政研究』61巻, 3/4上号, )DOI: 10.15017/2009.
- Wikipedia contributors, ‘Ranulf de Glanvill’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 9 January 2022, at 21:42 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Ranulf_de_Glanvill&oldid=1064720857 [accessed 10 January 2022]
- ”Ranulf de Glanville | English politician and legal scholar | Britanica”