アトレバテス族(Atrebates)は紀元前一世紀頃フランス・アルトワ地方にいたベルガエ人部族。紀元前50年代、コンミウス王がユリウス・カエサルのガリア戦争に協力して勢力を拡大したが、紀元前52年、ウェルキンゲトリクスの反乱に際してローマ軍と戦い敗北、ブリテン島へ逃れてブリテン島南部に勢力を確立した。西暦40年代、カトゥウェッラウニ族の圧迫を受けたウェリカ王がクラウディウス帝の下へ亡命したことがローマ帝国によるブリテン島征服の契機となった(1二世紀頃のローマの歴史家カッシウス・ディオによれば「反乱によってブリテン島を追われたベリコス(ウェリカ王のこと)がクラウディウス帝を説得して軍を派遣させた」という(Dio Cassius, Roman History,Book 60:19.1))。
大陸のアトレバテス族
アトレバテスという名称はカエサルの「ガリア戦記” De Bello Gallico”」に初めて登場する。紀元前57年、ベルガエ人が連合してユリウス・カエサル率いるローマ遠征軍に対抗した。このときアトレバテス族一万五千名がベルガエ人連合に参加したという(2Julius Caesar, De Bello Gallico, 2.4)。五万名ずつ参戦したスエッシオネス族とネルウィイ族に次ぐ勢力であった。同年、ベルガエ人連合軍はサビス川の戦いでカエサル率いるローマ軍に敗れ(3アトレバテス族は第九・十軍団と対峙して壊滅した(Julius Caesar, De Bello Gallico, 4.23))、他の部族同様アトレバテス族もローマに服従するになった。
服従後カエサルによってアトレバテス族の王とされたコンミウスはカエサルの忠実な協力者として活躍(4Julius Caesar, De Bello Gallico, 4.21)、紀元前55年と54年に行われた二度のカエサルのブリテン島遠征では現地のブリトン人との折衝の窓口となってカエサルに抵抗したブリトン人連合軍の指導者カッシウェッラウヌス降伏の仲介を行い(5Julius Caesar, De Bello Gallico, 5.22)、前53年のベルガエ人反乱でも反乱を起こしたメナピイ族の領土に軍を率いて駐留するなど貢献した(6Julius Caesar, De Bello Gallico, 6.6)。これらの働きに報いてカエサルはアトレバテス族の免税や隣接するモリニ族の宗主権を与え厚遇し(7Julius Caesar, De Bello Gallico, 7.76)、アトレバテス族は親ローマ派の有力部族として台頭した。
紀元前52年、ローマの支配に対しウェルキンゲトリクスが反乱を起こすとアトレバテス族も反乱軍に参加した。アレシアの戦いがガリア側の敗北に終わるとコンミウスは戦場から離脱して各地を転戦しつつ抵抗を続けたが(8Julius Caesar, De Bello Gallico, 8.47)、前51年頃、ローマ軍との戦いに敗れ、コンミウス以下アトレバテス族の一部がブリテン島へ逃れていった(9Julius Caesar, De Bello Gallico, 8.48 / Sextus Julius Frontinus, Stratagemata 2:13.11)。
ブリテン島のアトレバテス族
コンミウス王時代
ブリテン島へ渡ったアトレバテス族は紀元前30年頃までにテムズ川の南側、現在のハンプシャー州からサセックス州にかけての一帯に支配を確立した。コンミウスの名が刻まれた貨幣が前20年頃まで発行されている。
ブリテン島におけるアトレバテス族の首邑としてコンミウスが創建した集落(オッピドゥム)がカッレウァ・アトレバトゥム(現在のシルチェスター市)である。ポターによれば『コンミウスがブリテン島にやってきてから二〇年ほどのあいだに、直交する街路を持つ規則的な都市デザインが設計され始めていたことが、発掘から明らかになっている』(10ポター、ティモシー・ウィリアム「第一章 ブリテン島の変容――カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、27頁)という。ブリテン島における最初期のギリシア・ローマ的な都市設計の導入例として評価されている(11ポター(2011)27頁)。
コンミウス王以後
コンミウス死後、アトレバテス族の王となったティンコマルス(前20年頃-後7年頃)、エッピルス(後8年頃-15年頃)、ウェリカ(15年頃-41/42年頃)は三人ともコンミウスの息子として自らの名を刻んだ貨幣を発行したが、最後のウェリカ王に至っては王位を追われたのがコンミウス王死後60年以上経っており年齢差がかなり開いているため、実際に彼らがコンミウスの子であったかは定かではない。ポターによれば、彼らは三人とも親ローマ派の指導者であったから、ローマでも名の知られたコンミウスの名を使うことでの政治的宣伝効果を目的として血縁関係の有無に関わらず名乗ったという(12ポター(2011)28-29頁)。また、出土した貨幣の特徴から、コンミウスの子に同名のコンミウス王がおり、三人は二代目のコンミウス王の子ではないかとする見解もある(13Atrebates(Roman Britain))。いずれにしろ確実な証拠は無く、コンミウスの子とされてはいるものの、関係性は不明である。
ティンコマルス(またはティンコンミウス)はコンミウスとの共同統治を経て紀元前20年頃に王位を継承した。兄弟のエッピルスと分割統治していたとみられティンコマルス王はカッレウァにあって北部領土を、エッピルスはノウィオマグス(現在のチチェスター)を拠点に南部領土を支配したとみられる。
西暦8年頃エッピルスはREX(王)を称する貨幣を発行しており、また、ローマ皇帝アウグストゥスの治世を記録した「神君アウグストゥス業績録” Res Gestae Divi Augusti”」にアウグストゥス帝の元を請願に訪れたブリタニアの王ティンコンミウスの名があり(14Res Gestae Divi Augusti 32)、この時期にティンコマルスはエッピルスによって王位を追われアウグストゥス帝に助けを求めて亡命したと考えられている。
弱体化とローマの支配
西暦15年頃、エッピルスにかわりウェリカが王位を継承したが、同時期、アトレバテス族の北東部カトゥウェッラウニ族のクノベリヌス王が勢力を拡大し始めていた。西暦20年代前半、クノベリヌス王の兄弟とみられるエパティクスがアトレバテス族の領土に勢力を拡大し、25年頃、カッレウァ・アトレバトゥムを支配下に置き貨幣を発行した。エパティクスは35年頃に亡くなるまでアトレバテス領を支配していたとみられる。
エパティクス死後、アトレバテス族は旧領を一時回復するが、エパティクスの後任となったクノベリヌス王の子カラタクスによって再びカッレウァを占領されるなど強く圧迫された。クノベリヌス王死後の41-42年頃、アトレバテス族はカラタクスの圧迫によって自らの王ウェリカを追放する。王位を追われたウェリカ王はローマ帝国に逃れてクラウディウス帝に助けを求めた。カッシウス・ディオは「ローマ史」でクラウディウス帝の下を訪れた王の名をベリコス(Bericus)としている(15Dio Cassius, Roman History,Book 60:19.1)が、これがウェリカ王と同一人物とみられる。
43年、ウェリカ王の請願を契機としてローマ軍がブリテン島へ侵攻し、カトゥウェッラウニ族を中心としたブリトン人連合軍が撃破されてブリテン島の諸部族が服従し、ブリテン島南部にローマ属州ブリタンニアが成立した。アトレバテス族は親ローマ派の人物でレグニ族やベルガエ族なども束ねる広域支配者となったティベリウス・クラウディウス・コギドゥブヌス支配下に入れられて被護王国(Client Kingdom)の一つとして再編成された。チチェスター近郊にあったローマン・ブリテン時代の代表的な邸宅フィッシュボーン・ローマ式宮殿はコギドゥブヌス王のものだといわれることがある(16ポター(2011)39頁)。コギドゥブヌス王死後、その支配領域は分割され旧アトレバテス領もローマ帝国の直轄地に再編成された。
参考文献
- 南川高志(2015)『海のかなたのローマ帝国 古代ローマとブリテン島 増補新版』岩波書店、世界歴史選書
- カエサル(1994)『ガリア戦記』講談社、講談社学術文庫
- サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会
- Dio Cassius, Roman History at LacusCurtius
- Atrebates(Roman Britain)
- Atrebates (Britons)(The History Files)
- Translated by Thomas Bushnell, BSG(1998).The Deeds of the Divine Augustus. The Internet Classics Archive(“Res Gestae Divi Augusti”.English Translation)