ロジャー・オブ・ソールズベリー(Roger of Salisbury,?-1139)はヘンリ1世(在位1100-1135)によって新設された国政を統括する行政長官(”Chief Justiciar” 在任1101-1139)に抜擢され、中世イングランドの行政機構の土台を築いた。ソールズベリー大司教(在任1102-1139)。
ヘンリ1世による抜擢
元はノルマンディー地方カーンの近くにある小さな礼拝堂の聖職者だったが、偶然この地を訪れた即位前のヘンリ1世が、ロジャーのミサでの手際の良さに感心して、自分のミサに参加させた(1Chisholm, Hugh, ed. (1911). ‘Roger, bishop of Salisbury‘. Encyclopædia Britannica. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 454.)。その後、ヘンリの家政を任され、ヘンリの『私的な事柄を管理し、家政が奢侈に流れないよう配慮していた』(2キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会48頁)。
兄ウィリアム2世死後王位に就いたヘンリ1世は、1101年、ロジャーをソールズベリー司教に推挙するとともに(就任は1102年、聖別は1107年)、イングランドを統治する行政組織の長(宰相)として行政長官(Chief Justiciar)職を新設して彼を就任させた。ロジャーは、教養は低かったものの、卓越した経営手腕を持っており、ヘンリ1世の信を受けて行政機構の構築と運営を行った。ロジャーはヘンリ1世がノルマンディー地方に滞在している間は摂政として事実上イングランドの統治者となっている(3Chisholm, Hugh, ed. (1911). ‘Roger, bishop of Salisbury‘. Encyclopædia Britannica. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 454.)。
中世イングランドの行財政機構の確立
王の下に国家財政を取りしきる寝所部(Chamber)を中心とする宮内府(Household)と同部署と並列する、文書を作成する尚書部(Chancery)を置き、尚書部長官は国璽を保管する役目を負った。イングランドとノルマンディーの両地に置かれていた宝物・貨幣・重要書類を保管する宝蔵室を組織改編して財務府(Exchequer)とその長として財務府長官を任じた。財務府は後に常設となるが当初は常設ではなく年二回の州長官による会計監査の時期に設置され、これを監督した(4城戸毅(1991)「第六章 イングランド封建国家」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社47-53頁))。この財務府長官はロジャーの甥のナイジェルが抜擢されている(5キング(2006)50頁)。残っている限り最も古いまとまった財政収支の記録は1129-30年度のもので総収入22,865ポンド、うち横領地収入が52.5%、税収入13%、裁判収入10.5%などとなっている(6鶴島博和「第三章 11世紀~近世前夜」(近藤和彦(2010)『イギリス史研究入門』山川出版社54頁))。
また、裁判組織として、従来の封建的議会とあわせて両地に常任裁判官を複数おいて司法・裁判を行わせるとともに、行政長官の補佐として統治にあたらせた。これらの行政組織の整備は1109年頃のことと考えられている(7城戸毅(1991)224頁)。
1066年のウィリアム1世に始まる征服事業(ノルマン・コンクエスト)はヘンリ1世によって征服から統治へと移行するが、この中世イングランドの統治機構の基礎を実務面で築いたのが、ロジャーである。以上のように、行政府と財務府の設立と行政機構の管理、巡回裁判制度の制定、パイプロール(財政報告書)の作成開始、貨幣制度の革新などの行財政改革を推進した。中世イングランドの行政機構は彼が築いたものを土台として確立されていくことになる。
スティーヴン王時代
1125年、ヘンリ1世が王女マティルダを後継者に指名するとこれを支持したが、1135年、ヘンリ1世死後、王族モルタン=ブーローニュ伯エティエンヌがマティルダに対抗してイングランドに渡り即位(スティーヴン王、在位1135-1154)すると、ロジャーはマティルダの夫アンジュー伯ジョフロワ5世らアンジュー派を嫌ってスティーヴン王の下へ逃れた(8Chisholm, Hugh, ed. (1911). ‘Roger, bishop of Salisbury‘. Encyclopædia Britannica. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 454.)。
スティーヴン王は「ロジャーが王国の半分を要求すればそれを持つべきである」と宣言したほどに信頼を寄せたが、ロジャーが形成した彼の派閥には警戒心を持っていた(9Chisholm, Hugh, ed. (1911). ‘Roger, bishop of Salisbury‘. Encyclopædia Britannica. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 454.)。ロジャーはスティーヴン王初期の治世を支えた一方で、ウィルトシャーにディバイザス城(Devizes Castle)を築き、彼の一族も同様に領地を拡大して大きな勢力となった(10Chisholm, Hugh, ed. (1911). ‘Roger, bishop of Salisbury‘. Encyclopædia Britannica. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 454.)。1139年6月、スティーヴン王はロジャーに反感を持つ貴族らの声に押されて、ロジャーらを逮捕して城と彼の一族の支配地域を奪ったが、ロジャーを失脚させたことで、彼が取りまとめていた教会の支持をスティーヴン王は失ってしまい、支持基盤の弱体化を招いた。その後、教会の支持はマティルダに移り、多くの貴族の離反も続いて、同年9月から始まるマティルダ派との内戦によって、イングランドは著しく荒廃することになった。
失脚直後の1139年12月11日、ソールズベリーで亡くなった。同時代人からは「世俗的な事柄に没頭し、野心的で、貪欲であり、個人的な道徳のどのような高い規範にも束縛されない」(11Chisholm, Hugh, ed. (1911). ‘Roger, bishop of Salisbury‘. Encyclopædia Britannica. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 454.)という聖職者に対する評価としては散々な言われようだが、イングランド王国の統治機構の基礎を築いた卓越した実務家として後世高く評価されている。
参考文献
- 青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社
- 近藤和彦(2010)『イギリス史研究入門』山川出版社
- 森護(1986)『英国王室史話』大修館書店
- 森護(1994)『英国王室史事典』大修館書店
- キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会
- Chisholm, Hugh, ed. (1911). ‘Roger, bishop of Salisbury‘. Encyclopædia Britannica. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 454.
- ”Justiciar | medieval law | Britannica”