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人物

レドワルド(イースト・アングリア王)

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レドワルド(Rædwald,Raedwald or Redwald)は6世紀後半から7世紀初頭にかけてブリテン島東南部のアングロ・サクソン王国の一つイースト・アングリア王国の王であった人物(在位599頃–624頃)。治世初期はケント王エセルベルフトに従属していたが、エセルベルフト王死後、ブレトワルダとしてブリテン島に覇権を確立した。契機となったのはデイラ王国の王子エドウィンを庇護して、616年または617年、アイドル川の戦いでバーニシア王国を撃破しノーサンブリア王国の建国を助けたことである。サットン・フーの舟葬墓は彼を埋葬したものとする説が有力。

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イースト・アングリア王国

イースト・アングリア王国
イースト・アングリア王国(Kingdom of East Anglia)はブリテン島東部、現在のノーフォーク州とサフォーク州を併せた領域に六世紀から九世紀にかけて存在した七王国時代のアングル人の王国。初期の歴史は不明だが四代目の王とされるレ...

イースト・アングリア王国はブリテン島東部、現在のノーフォーク州とサフォーク州を併せた領域に六世紀から九世紀にかけて存在した七王国時代のアングル人の王国である。ベーダアングル人の教会史」他複数の記録によると、ウォーデン(北欧神話の主神オーディン)の末裔ウェッハ(Wehha)がイースト・アングリア王国の最初の王であったといい、二代目とされるウッファ(Wuffa)王の名にちなみ、イースト・アングリアの王のことはウッフィンガス(Wuffingas)と呼ばれていたという(1ベーダアングル人の教会史」(高橋博 訳(2008)104頁)、ネンニウス「ブリトン人の歴史」59章(伝ネンニウス著/瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、54-55頁)など)。ここからイースト・アングリア王国の初期王朝はウッフィンガス朝(六世紀-749年)と呼ばれる。

六世紀頃、イースト・アングリア王国の南、ドーヴァー海峡を望むブリテン島の東南端ケント地方に興ったケント王国がフランク王国など大陸との交易で栄え、ブリテン島のアングロ・サクソン諸国の中でいち早くキリスト教に改宗したエセルベルフト王(Æthelberht , 在位580頃-616年)の時代に強盛となった。ベーダエセルベルフト王をブレトワルダの一人に数えている。イースト・アングリア王国も従属国の一つとしてエセルベルフト王の覇権に従っていた。

「イースト・アングリア王国」

「イースト・アングリア王国」
Credit: Amitchell125., CC BY-SA 1.0 , via Wikimedia Commons

生涯

初期の治世

ベーダによると、レドワルド王はイースト・アングリア王国第二代国王ウッファの子チュテル王を父とし、ウッフィンガス朝四代目のイースト・アングリア王であるという。誕生から即位後にかけての早い時期のことは不明だが、ケント王エセルベルフトに従属する立場であった。治世初期、ケント王エセルベルフトの勧めでケント王国でキリスト教の洗礼を受けたが、帰国後は家臣や王妃の反対にあい早々に妥協の道を選んだ。神殿にはキリスト教の祭壇と古くからの北欧の神々のための祭壇が併存していたという(2高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、104頁)。これは教皇グレゴリウス1世が派遣したアウグスティヌスら宣教団がケント王国に到着した597年から、エセルベルフト王によってカンタベリー大司教に任じられたアウグスティヌスが亡くなる604年までの間に起きたことと見られている。

616年、臣従していたケント王エセルベルフトが亡くなり、レドワルド王は大きなターニングポイントを迎える。契機となったのはイングランド北部ノーサンブリア地方の動乱である。ハンバー川の北側に広がるノーサンブリア地方にはバンバラを中心とするバーニシア王国とヨークを中心とするデイラ王国の2つのアングロ・サクソン系王国があったが、604年、バーニシア王エセルフリス(Æthelfrith,在位593-616/617年)がデイラ王国を征服した。故国を追われたデイラの王子エドウィンは各地を放浪の後、616年頃までにイースト・アングリア王国に亡命、保護を求めた。

アイドル川の戦い

アイドル川

アイドル川
Credit: OpenStreetMap contributorsOpenStreetMap contributors, CC BY-SA 2.0 , via Wikimedia Commons


エドウィンがレドワルド王の下にいると知ったエセルフリス王は金銭を贈ってエドウィンの殺害を依頼するがレドワルド王はこれを拒否する。エセルフリス王は繰り返し使者を贈って報奨金の増額を提示するとともに、要請を拒否するならば一戦も辞さずと脅迫してきたため、恐れたレドワルド王はエドウィン殺害か引き渡しのいずれかを約束してしまう。これをレドワルド王の従士である親しい友人から聞いたエドウィンは、レドワルド王の恩義を理由に友人からの逃亡の薦めを固辞したものの苦悩していた。この名前が知れないエドウィンの友人はレドワルド王の意向を王妃に伝え、これ聞いた王妃はレドワルド王を説得する。

「王妃は最良の友人が苦境にあるそのときに、金銭で売り、あらゆる財宝よりも尊い名誉を貪欲と金銭欲のために犠牲にすることは、かくも高貴で、かくも卓越した王にふさわしいことではありませんと戒め、王の邪な目的を撤回させたのです。」(3高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、97頁

616年または617年、エセルフリス王の使者が帰国するや否や、レドワルド王は迅速に軍を招集して進撃を開始、虚を突かれたエセルフリスは十分に兵を集められないまま迎撃せざるを得ず、マーシアとノーサンブリアの境界となるイングランド中部ノッティンガムシャーを流れるアイドル川の東、現在レトフォード(Retford)と呼ばれる町の近郊で両軍が激突した。十二世紀の歴史家ハンティンドンのヘンリによると(4Henry of Huntingdon (1853). “The chronicle of Henry of Huntingdon”. Translated by Forrester, Thomas. Internet Archive.p.56.)レドワルド王率いるイースト・アングリア軍は3つの部隊で構成され、そのうち一つはレドワルド王の王子レガンヘレ(Rægenhere)が指揮していた。対するエセルフリス王自ら率いる熟練兵で構成された少数精鋭のバーニシア軍はレガンヘレ部隊へ兵力を集中させて撃破、レガンヘレを戦死させるが、レドワルド王は動揺せず態勢を立て直してバーニシア軍を殲滅、エセルフリスは激しく勇戦するが自軍からはぐれ孤立したところを狙われて戦死、イースト・アングリア軍の勝利に終わった。 「アイドル川はイングランド人の血で染まった”the river Idle was stained with English blood”」と語り継がれるほどの激しい戦いとなった。

アイドル川の戦い(616年)
アイドル川の戦い(Battle of the River Idle)またはアイドル河畔の戦いは616年(または617年)、イングランド中部ノッティンガムシャーを流れるアイドル川の東側で、レドワルド王率いるイースト・アングリア王国軍とエセルフ...

覇権と死、継承

サットン・フーの遺跡で発見された兜のレプリカ(大英博物館収蔵)

サットン・フーの遺跡で発見された兜のレプリカ(大英博物館収蔵)
Public domain, via Wikimedia Commons


この戦いの勝利の結果、レドワルド王は大きく名声を高め、イースト・アングリア王国ケント王国の従属国の立場から自立、ブレトワルダとしてブリテン島に覇権を確立した。また、故国へ戻ったエドウィンを引き続き支援して、レドワルド王の後ろ盾を得たエドウィンはノーサンブリア地方を統一する。レドワルド王の勝利は群雄割拠の七王国時代を形成する契機となった。

レドワルド王治世下と思われる七世紀初頭、アングロ・サクソン人による都市としては最古の一つ当時はGippeswicの名で呼ばれたイプスウィッチ(Ipswich)が交易都市として誕生する。イプスウィッチ港へ大陸からの大量の輸入品が運び込まれてイースト・アングリア王国の繁栄を支えた。この頃の繁栄を示すのがイプスウィッチにほど近いサットン・フーの船葬墓である。七世紀前半頃に作られた櫂船型の墓で全長二十九メートル、最大幅四・二五メートルに及び、金で装飾された剣や盾、銀をはめ込んだフルフェイスの兜といった副葬品など多数の出土品が発見され、フランク王国やスカンディナヴィア半島、地中海地域など広く交流があったことが判明している(5青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、92頁/桜井俊彰(2010)『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語』吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、80-85頁)。遺骨は発見されていないが、レドワルド王のものとする説が最有力で、アンナ王(在位?~654)またはエゼルヘレ(在位654~655)王とする説もある。

624年頃、レドワルド王は亡くなり、息子のエオプワルド(Eorpwald,在位624頃-627頃)が継いだ。レドワルドの王妃の名や出自は不明で、アイドル川の戦いで戦死したレガンヘレと後を継いでイースト・アングリア王となったエオプワルドの二人の子供がいた。また、後にイースト・アングリア王となるシグベルフト(Sigeberht、在位629頃-634頃)はベーダによればレドワルドの実子であるといい、マームズベリーのウィリアムによればエオプワルドの異母弟、すなわちレドワルドの継子であったという(6William of Malmesbury(1904).William of Malmesbury’s Chronicle of the Kings of England .,chapter 5 p.89 (a 1904 translation).)。ベーダによればシグベルフトはレドワルド王に疎まれてガリア(フランス)へ亡命し、亡命先でキリスト教への洗礼を受け、即位後もイースト・アングリア王国のキリスト教化を推進している(7高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、104-105頁)ことから、信仰を巡る対立があったとみられる。

参考文献

脚注