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ヨーロッパの城

ペヴェンジー城

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ペヴェンジー城(Pevensey Castle)は英国イースト・サセックス州にある城址。古代ローマ時代の砦の遺構を利用して1067~70年頃にノルマン式の城が築かれ、1240~50年代に改築されて現在の城の構造が確立する。英仏海峡を臨む沿岸防衛の要衝として重視され、古代ローマ時代から第二次世界大戦まで繰り返し軍事的施設として利用された。

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ローマ時代の砦アンデリトゥム(アンデリダ)

「ペヴェンジー城全景」 Pevensey_Castle_aerial_view.jpg: Lieven Smitsderivative work: Hchc2009 / CC BY-SA(wikimedia commonsより)

「ペヴェンジー城全景」
Pevensey_Castle_aerial_view.jpg: Lieven Smitsderivative work: Hchc2009 / CC BY-SA(wikimedia commonsより)

ペヴェンジー城は古代ローマ時代の砦の跡地に建てられている。アンデリトゥム” Anderitum”またはアンデリダ” Anderida”の名で知られるこの砦は、ローマ帝国支配下ブリタニア属州時代の西暦290年頃(1砦の城壁の基礎に使われている木材の年輪年代測定による(”History of Pevensey Castle | English Heritage”))に築かれ、沿岸防衛の基地としてローマ帝国艦隊が駐留していた。現在は平地が広がって海岸線より内陸に位置しているが、当時は海岸に突き出した半島上に位置していた。

三世紀末、ブリタニア属州を統治していた将軍がカラウシウスである。西方皇帝マクシミアヌス帝(在位286~305年,306~308年)は北海沿岸の防衛強化のため、ブリタニア属州でカラウシウスを司令官として海上戦力を増強する。286年、海賊討伐などで功を挙げたカラウシウスはマクシミアヌスに叛旗を翻してブリタニア属州からガリア北部にかけての一帯を支配下において自立、皇帝を称した。293年、カラウシウスは配下のアレクトゥスに殺され、アレクトゥスも皇帝を称したが、296年、西の副帝コンスタンティウス・クロルス(コンスタンティウス1世)によって討たれ、ブリタニアの反乱は平定された。

アンデリトゥムからはカラウシウス帝、アレクトゥス帝が発行した貨幣も発見されており(2公式サイト”History of Pevensey Castle | English Heritage”より。出典として挙げられているのはM Fulford and S Rippon, Pevensey Castle, Sussex: Excavations in the Roman Fort and Medieval Keep, 1993–95 (Salisbury, 2011),60.)、両政権時代には大陸のローマ帝国からの防衛と制海権維持の要衝として機能していたとみられる。コンスタンティウス・クロルス支配下でアンデリトゥムの港には石塁や望楼が築かれるなど強化された(3青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、52頁)。

五世紀、ローマ帝国の支配が終わると、アングロ・サクソン人の侵攻から逃れたブリトン人たちが住み着き、防衛機能を持つ集落としてしばらく利用されたが、アングロ・サクソン王朝時代までに廃墟となった。

「ローマ時代のアンデリトゥム砦とペヴェンジー城」(パブリックドメイン画像)

「ローマ時代のアンデリトゥム砦とペヴェンジー城」(パブリックドメイン画像)

征服王の上陸と築城

1066年9月28日、イングランド王位を請求して大軍を率いて海を渡ったノルマンディー公ギヨーム2世(征服王ウィリアム1世、在位1066~1087年)が上陸したのがペヴェンジーであった。ペヴェンジーからヘースティングズへ軍を移動させたノルマンディー公はヘースティングズ城を築き、続いてヘースティングズの戦いでイングランド王ハロルド2世を討ち、イングランド王に即位した。1067年、凱旋のためノルマンディーへ帰国するウィリアム1世はペヴェンジーから出航したが、このときペヴェンジーを義弟モルタン伯ロベールに与えた上で築城を命じた。

ロベール伯はローマ時代の砦の城壁を強化して外郭(アウター・ベイリー)を築き、敷地の東端に堀と木製の柵で内郭(インナー・ベイリー)を設けた。続くウィリアム2世(在位1087~1100年)時代に主塔として短形型キープが造営され最初期のノルマン式城塞が築かれた。

ウィリアム1世は1070年までにヘースティングズ城の増強とアングロ・サクソン時代に築かれていたドーヴァー城の改築も行っており、三つの城で英仏海峡に臨む沿岸防衛ラインを構成している。

ノルマン時代のペヴェンジー城

ペヴェンジー城は英仏海峡を臨むイングランド南岸の要衝ゆえに、繰り返し戦いの舞台となってきた。

第一次包囲戦(1088年):征服王死後の王位継承戦争

ウィリアム1世死後の1088年、長男のノルマンディー公ロベール2世と次男のイングランド王ウィリアム2世の間で継承権争いが起こると、モルタン伯ロベールは長男ノルマンディー公派についたため、ペヴェンジー城はウィリアム2世の包囲を受け、六週間に渡って耐えた後休戦に合意した。

モルタン伯ロベールの子ギヨームはウィリアム2世死後のヘンリ1世(在位1100~1135年)の王位継承に異を唱えたため、ペヴェンジー城は没収され、ヘンリ1世の家臣ギルバート1世・ド・ライグル” Gilbert I de l’Aigle ”に与えられた。1101年、ノルマンディー公ロベール2世の侵攻に備えてヘンリ1世がペヴェンジー城に籠っている。

第二次包囲戦(1147年):「無政府時代” The Anarchy”」

ヘンリ1世死後の1135年、後継者に指名されていた娘マティルダに反対して甥のモルタン=ブーローニュ伯エティエンヌがイングランド王スティーヴン(在位1135~1154年)として即位するとマティルダ派とスティーヴン王派で内戦に陥った。この内戦は「無政府時代” The Anarchy”」と呼ばれる。

スティーヴン王はライグル家からペヴェンジー城を没収し、初代ペンブルック伯ギルバート・ド・クレアに与えた。しかし、1141年、ペンブルック伯がマティルダ派に寝返り、以後恭順と反乱を繰り返したため、1147年、スティーヴン王はペヴェンジー城の大規模な包囲を行った。包囲戦によってペヴェンジー城守備隊は餓死者が続出して降伏した。

増強と破壊

その後イングランド王家の直轄となり、スティーヴン王死後、プランタジネット朝へ引き継がれた。リチャード1世(在位1189~1199年)治世下の1190年代、新たな石造りの天守塔(キープ)と正門棟(ゲートハウス)が築かれるなど大幅な増強が加えられた。

ジョン王(在位1199~1216年)治世下でフランス王との対立が激しさを増し、アンジュー帝国は大陸領土の多くを喪失、苛斂誅求による諸侯の不満が爆発して反乱へと至り、フランスの王太子ルイを新王に仰ぎ、第一次バロン戦争(1215~1217年)が勃発する。このとき、ペヴェンジー城の守備に裂く兵力が無かったため、ジョン王は要衝を奪われることを危惧してペヴェンジー城の破壊を命じた。

中世後期のペヴェンジー城

十三世紀のペヴェンジー城再建

ペヴェンジー城

ペヴェンジー城
© Poliphilo / CC0 / wikimedia commons

1246年、ヘンリ3世(在位1216~1272年)は王妃エリナーの叔父サヴォワ伯ピエール2世(ピーター・オブ・サヴォイ、1203~1268年)にペヴェンジーを与え、サヴォワ伯によってペヴェンジー城の修築が開始された。

サヴォワ伯は現在のフランス南東部とイタリア北西部・スイスにまたがる一帯を所領とする中欧の領主である。ヘンリ3世は南仏プロヴァンス伯の娘エリナーを妃とし、その縁で南フランスを中心に多くの人材を迎えた。ピエール2世は「小シャルルマーニュ(英語” Little Charlemagne”,フランス語« le Petit Charlemagne »)」の異名で知られる著名な諸侯で、ヘンリ3世からリッチモンド伯位を与えられるなど特に厚遇された。ロンドンにかつてあった中世イングランド屈指の宮殿建築サヴォイ宮殿は彼によって築かれたものである。

ピエール2世伯時代と思われる十三世紀半ば、ペヴェンジー城のインナーベイリーを囲っていた木製の城柵が取り払われ石造の城壁が築かれた。城壁には東側と北側と南側の三か所に矢狭間を備えた三階建てで地下室も備えた塔が設けられている。この改築に際して旧来のインナーベイリーより縮小されているが、石造城壁となった分、城の防御力は大幅な強化となった。また天守塔(キープ)は七つの塔を持つ独特な構造だったが、現在は一階部分の遺構だけで現存していない。このときの強化は、以後も繰り返される戦乱で非常に有用であった。

「ペヴェンジー城正門ゲートハウスの遺構」

「ペヴェンジー城正門ゲートハウスの遺構」
© Poliphilo / CC0 / wikimedia commons

第三次包囲戦(1264~1265年):「シモン・ド・モンフォールの乱」

ヘンリ3世は度々大陸への出兵を繰り返したが、その費用は諸侯への課税に頼った。シチリア十字軍への参加費用調達のための課税案に対し諸侯が反発、1264年、第六代レスター伯シモン・ド・モンフォールを指導者として反乱が勃発した。この内戦は「第二次バロン戦争」または「シモン・ド・モンフォールの乱」と呼ばれている。

ルイスの戦い(1264年5月14日)で諸侯軍に大敗した国王軍の残兵がペヴェンジー城に逃げ込み、諸侯軍による包囲戦が開始された。守備隊は降伏勧告を拒否して徹底抗戦に臨み、翌65年7月まで一年以上に渡って包囲戦を耐えた。諸侯軍は陸海双方に軍を展開して封鎖戦術に出たが、補給を断つことが出来ず、結局包囲を断念し退却した。

第四次包囲戦(1399年):ランカスター家の王位簒奪

十四世紀前半、天守塔(キープ)は二度の改修工事が行われているが、以前の包囲戦で受けた損害の補修であったとみられている。城はサヴォワ伯ピエール2世死後、王家の直轄となり沿岸防衛の要衝として常時20~30名程度の守備隊が置かれていた。1372年、エドワード3世の子ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの所有となる。1381年の「ワット・タイラーの乱」では一揆勢によってペヴェンジー城内の徴税文書が焼き払われた。

1394年、ランカスター公によってサー・ジョン・ペラムが城の管理を任された。1399年、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの子ヘンリ・ボリングブロクがリチャード2世(在位1377~1399年)に対し反乱を起こすと、ペラムはボリングブロク派について、同年、国王軍の包囲を受けたが、ペラム率いる守備隊の勇戦で包囲は失敗に終わる。結局リチャード2世は廃位されてヘンリ・ボリングブロクがヘンリ4世(在位1399~1413年)として即位すると、ジョン・ペラムは包囲戦での功績によってペヴェンジー城を与えられた。

近世のペヴェンジー城

エリザベス1世のカルバリン砲”Elizabeth Regina”(レプリカ)

エリザベス1世のカルバリン砲”Elizabeth Regina”(レプリカ)
© Nilfanion / CC BY-SA /wikimedia commonsより

十五世紀に入ると身分の高い囚人や捕虜の監獄として使われるようになり、ヘンリ5世(在位1413~1422年)に対する反逆の嫌疑をかけられたヘンリ4世妃ジョーン・オブ・ナバラやスコットランド王ジェイムズ1世などが収容されていた。その後、海岸線が後退してペヴェンジー城の前面に湿地帯が形成されると、城は戦略的重要性を失い、テューダー朝時代(1485~1603年)には放棄されて崩壊が進んだ。

1587年、エリザベス1世(在位1558~1603年)はスペイン軍の侵攻に備えてペヴェンジー城の修築工事を行い、砲台が築かれ、二門のカルヴァリン砲が設置された。そのうち一つはテューダー家の薔薇の紋章とE.R. (Elizabeth Regina)という文字が刻まれた大砲で、現存しており、現在はレプリカが城内に展示されている。1588年、アルマダの海戦によってイングランド艦隊がスペイン艦隊を撃滅したため、ペヴェンジー城への侵攻の怖れは去った。

以後、再びペヴェンジー城は放棄されて崩壊が進み忘れられた存在となっていた。

第二次世界大戦での要塞化

1940年、ペヴェンジー城周辺の平地がブリテン島への上陸地としてドイツ軍の標的になる可能性が高まったため、ペヴェンジー城は連合軍の駐屯地として再利用されることになった。城壁はコンクリートとレンガで強化され、対戦車用の障壁が築かれ、中世の城壁に偽装された機関銃設置用の柱が設けられるなど近代戦に耐える要塞へと生まれ変わった。1940年5月から英国軍とカナダ軍が、その後アメリカ軍の部隊も駐留してドイツ軍の脅威に備えられた。

戦後、イングリッシュ・ヘリテージの管理へ移管され、現在は一般公開されている。

参考文献

脚注