「ブリトン人の歴史」(ラテン語:Historia Brittonum)は九世紀初め、北ウェールズでまとめられた歴史書。ラテン語で書かれ、修道士ネンニウスによる校訂本が残ることからネンニウスが著者と考えられてきたが、現在はネンニウス以前に原本が存在していると考えられており作者は不詳。680年代までのブリテン諸島の歴史が描かれているが、虚実入り交じる内容のため史料としては批判的に読まれている。バドン山(モンス・バドニクス)の戦いの指揮官としてアルトゥールス(アーサー)の名が挙げられている最古の文献で、後のアーサー王伝説形成に大きな影響を与えた。
概要
「ブリトン人の歴史」の執筆時期について、十六章に「メルメヌス王の治世四年」(1瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、19頁)とあり、このメルメヌス王は825年から844年にかけてグウィネズ王だったメルヴィン・フリッヒ(Merfyn Frych)を指すとみられることから、829年頃の作成とみるのが定説となっている。また、四章の「キリストの受難から七九六年がたち、キリストの托身から八三一年である」(2瀬谷幸男訳(2019)12頁)という記述も書かれた時代背景を示唆している。なお、ネンニウスによるとの体裁で書かれている序文および弁明文では「われらが主の托身から八五八年に、しかしブリトン人の王メルヴィン王(Mervin)の治世二〇年目に書かれたもの」(3瀬谷幸男訳(2019)9頁)とあるが、序文および弁明文は後世付け加えられたもので、この記述は信頼されていない。
ネンニウスによるとされる序文および弁明文にはネンニウスが著者であると書かれているため、十九世紀以降異論も多く出てはいたが伝統的にネンニウスが「ブリトン人の歴史」の著者であると信じられてきた。1970年代に写本群の一つヴァチカン写本を校訂したデイヴィッド・ダンヴィル(David Dumville)によってネンニウス著とされる序文および弁明文が後世付け加えられた偽書であることが明らかにされ、現在は作者不詳とするのが定説となっている。
「ブリトン人の歴史」の写本は40点以上現存し、その中で最古の写本がハーレイ写本(Harleian manuscript)の名で知られる十一世紀頃の写本”British Library Harley 3859″で、同写本は最も原典に近い内容であるとみなされて多くの校訂本で底本とされている。またシャルトル写本(Chartres Bibliothèque Municipale 98)はハーレイ写本よりさらに古く九世紀または十世紀頃のものと考えられていたが第二次世界大戦中に失われた。この他、本文へ挿入された記述によって偽ギルダス写本、偽ネンニウス写本、ヴァチカン写本などの分類がされている(4瀬谷幸男訳(2019)109-110頁/Historia Brittonum • CODECS: Online Database and e-Resources for Celtic Studies/Recensions – Historia Brittonum)。
構成と主な内容
構成
十九世紀の歴史家・古典学者テオドール・モムゼン(Theodor Mommsen,1817-1903)は全体を七部に分け「序文」「弁明文」を冒頭に加えて校訂した。モムゼンが分類した構成は以下の通り(5瀬谷幸男訳(2019)111頁)。
- 世界の六つの時代(1-6章)
- ブリトン人の歴史(7-49章)
- 聖パトリキウスの生涯(50-55章)
- アルトゥールス伝説(56章)
- 各王国の家系図と年算定表付き(57-66章)
- ブリタニアの都市(66a章)
- ブリタニアの驚異譚(67-76章)
ブリタニア語源伝説
「ブリトン人の歴史」で初めて描かれるのがブリタニアの語源伝説である。本書の「第二部 ブリトン人の歴史」によると、ギリシア・ローマ神話のトロイア戦争の英雄アエネイアースの末裔というローマの執政官ブルートゥスが故郷を追われてブリテン島へ辿り着き支配者となったことからこの島がブリタニアと名付けられ、この地に住む人々をブリトン人と呼んだとする伝承が紹介されている。「ブリトン人の歴史」の著者が参考にしたのはセビリャのイシドールスの七世紀前半の著作「語源論(Etymologiae)」で、同書では紀元前138年にヒスパニア・ウルテルオルを平定したローマの将軍デキムス・ユニウス・ブルートゥス・カッライクスの名をとって命名されたとしており(6瀬谷幸男訳(2019)113頁)これを膨らませてトロイア起源説の影響を受けた伝承を作り上げたとみられる。
「ブリトン人の歴史」で紹介されたブルートゥス伝説は十二世紀、ジェフリー・オブ・モンマスの「ブリタニア列王史」に取り入れられ、より詳細な物語が構成されて広く知られるようになった。ジェフリー・オブ・モンマスはブルートゥスの三人の子がそれぞれイングランド、ウェールズ、スコットランドの王となったとする逸話を付け加えた(7ジェフリー・オヴ・モンマス(2007)『ブリタニア列王史 アーサー王ロマンス原拠の書』南雲堂フェニックス、44頁)が、十三世紀、イングランド王エドワード1世はスコットランド征服に際してこの伝承を引用して自らの征服戦争を正当化(8常見信代(2002)「スコットランドと「運命の石」 : 中世における王国の統合と神話の役割(続)」(『北海学園大学人文論集 (21)』164-165頁)するなど、後世の英国史に大きな影響を与える伝説となった。
アルトゥールス伝説
「第四部 アルトゥールス伝説(アルトゥリアナ”Arthuriana”)」で後にアーサー王伝説の主人公となるアーサー王の原型が登場する。アルトゥールスはブリトン人諸王とともにブリトン人を率いてサクソン人との戦いを指揮した軍事司令官(dux bellorum)で十二回の戦いに勝利したという。十二回目のバドン山(モンス・バドニクス)の戦いではアルトゥールス一人で960人の敵を撃破したとされる。アルトゥールスの活躍によって衰退したサクソン人はゲルマニアに援軍を求め、バーニシア王国の初代王イーダが即位するまで移住が続いたという(9イーダ王の即位年について、通説では547年だが、近年では疑問視されて558年や575年などの説があり概ね六世紀後半頃と考えられている→バーニシア王国参照)。
また、ブリテン諸島・アイルランド各地の「地誌的驚異譚」(10瀬谷幸男訳(2019)117頁)をまとめた「第七部 ブリタニアの驚異について」の73章にアルトゥールスの猟犬カバル(カヴァス)とアルトゥールスの息子アニル(またはアムル)にまつわるエピソードが紹介されており、「ブリトン人の歴史」が書かれた九世紀初頭にはウェールズ地方にアルトゥールスにまつわる民間伝承が定着しつつあることが明らかにされている。
英国ウェールズ地方ポウィス州ビルス・ウェルスには、後の猪の王トゥルッフ・トゥルウィスの原型とみられる豚トロイント(11瀬谷幸男訳(2019)では「豚トロイント」が訳出されておらず、「猪狩り」と意訳されている。豚トロイントとトゥルッフ・トゥルウィスについては「トゥルッフ・トゥルウィス」参照)を狩ったときについたカバルの足跡と言われる跡が残る石があり、誰かがその足跡のある石を別の場所に移動させても、翌日には元の堆積に戻るという。また、現在のウェールズ地方との境界に近いイングランド・ヘレフォードシャー西部にあたるエルギング地方に、父アルトゥールスによって殺されたアルトゥールスの子アニルまたはアムルの墓があり、人々はその墓を測量するためにやってくるが、その墓は測量するたびに、六フィート、九フィート、十二フィート、十五フィートの長さになり、二度と同じ測量値であることがないという。
参考文献
- 青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社
- 木村正俊 , 松村賢一(2017)『ケルト文化事典』東京堂出版
- 瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社
- 森野聡子(2019)『ウェールズ語原典訳マビノギオン』原書房
- ヴァルテール、フィリップ(2018)『アーサー王神話大事典』原書房
- ジェフリー・オヴ・モンマス(2007)『ブリタニア列王史 アーサー王ロマンス原拠の書』南雲堂フェニックス
- チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会
- 常見信代(2002)「スコットランドと「運命の石」 : 中世における王国の統合と神話の役割(続)」(『北海学園大学人文論集 (21)』147-180頁)
- History of the Britons (Historia Brittonum),Translated by J. A. Giles,Released 2006,The Project Gutenberg.
- Early Latin versions of the Legend of King Arthur. The British Library.