クーシー城(Château de Coucy)はフランス・ピカルディ地方オー=ド=フランス地域圏エーヌ県にある中世城塞の遺構。ヨーロッパ最大規模の城塔で知られたが、第一次大戦中の1917年3月27日、ドイツ軍によって破壊された。
アンゲラン3世の築城
主要都市アミアンとランスの中間にあるクーシーは十世紀頃ランス大司教の支配下となり、920年頃、ランス大司教によって簡素な砦が築かれた。十一世紀後半、初代クーシー領主アルベリックまたはオーブリ(Albéric/Aubri, seigneur de Coucy, 在位1059頃-1079頃)の支配下となった後、アルベリック(オーブリ)の孫とも言われるアンゲラン1世がクーシー領主となり、以後彼の末裔がクーシーを支配した。
クーシー城を築いたのはアンゲラン3世・ド・クーシー(Enguerrand III de Coucy ,1182頃-1242)である。1220年頃から築城が始まり、1225年から40年頃までに『32棟の城塔群を含む複合築城群』(1カウフマン、J・E/カウフマン、H・W(2012).『中世ヨーロッパの城塞』マール社215頁)と城下の都市、その周囲を囲む13棟の城塔と三か所の門を備えた城壁(アンサント)が築かれた。主城は四隅に直径20メートルの円筒形城塔が配置されていた(2スティーヴンソン、チャールズ(2012)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』柊風舎139頁)。
特筆されるのはその巨大な主塔(ドンジョン)である。
『建設当時、クーシー城塞の城塔はヨーロッパ最大規模だった。幅35メートル、高さ55メートル、壁体の厚さは7.5メートルで、その周囲に螺旋状のスロープを築いて建設作業を行うという、まさに偉業だった。』(3スティーヴンソン、チャールズ(2012)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』柊風舎139頁)
クーシー城を築いたアンゲラン3世はフランス王フィリップ2世の下でアンジュー地方の征服や1214年のブーヴィーヌの戦いでフランスの勝利に貢献するなど対アンジュー帝国(イングランド王)戦争に活躍した武将であった。彼の言として以後繰り返し語られる有名な韻を踏んだ言葉が« roi ne suis, ne prince ne duc ne comte aussi; Je suis le sire de Coucy »(私は王でなく、王子(または大公、君主)でなく、公爵でなく、伯爵でもない。クーシーの主である(4原文はWikipedia contributors, ‘Château de Coucy, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 4 January 2021, 14:29 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Ch%C3%A2teau_de_Coucy&oldid=998252759 [accessed 5 January 2022]から引用))というものである。「クーシーの主」である彼の権勢の大きさを表す巨大な城がクーシー城であった。
宮殿化と百年戦争
十四世紀、クーシー領主アンゲラン7世(Enguerrand VII de Coucy,1340-1397)は百年戦争時に武将・外交官として活躍してソワソン伯など多数の爵位を獲得、クーシー城の増改築を行い、城内をゴシック様式の宮殿に改装したが、男子後継者無く死去したため、クーシー城はフランス王シャルル6世の弟オルレアン公ルイ(1372-1407)に渡った。
1407年、オルレアン公ルイがブルゴーニュ公ジャンの配下によって暗殺されると、ブルゴーニュ公派とアルマニャック派の内戦となり、1411年、クーシー城はアルマニャック派の城として、サン・ポル伯ワレラン3世・ド・リュクサンブール(Waléran III de Luxembourg ,1355頃-1415)率いるブルゴーニュ軍の包囲を受け、三か月の包囲戦の後降伏した。
1418年、アルマニャック派に属していたラ・イルの異名で知られる傭兵隊長エティエンヌ・ド・ヴィニョルとジャン・ポトン・ド・ザントライユらの攻勢を受けアルマニャック派が奪還した。このとき、ラ・イルは――恐らくアンゲラン3世を模倣して――『王に非ず公に非ず、候にも非ず伯にも非ず、われはクーシー城主なり』(5ペルヌー、レジーヌ/クラン、マリ=ヴェロニック(1992)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍315頁)と語ったという。その後イングランドに奪われるなど百年戦争中クーシー城は攻防の舞台となった。
近世以降~第一次世界大戦での破壊まで
十七世紀、ブルボン朝時代に入り、フロンドの乱(1648-53)が勃発するとクーシー城は反乱軍の拠点として利用されたため、1652年、枢機卿マザランはクーシー城の防御施設の解体を命じ、城壁などが取り除かれた。フランス革命が始まると、革命政府はクーシー城を構成する石材を転用するため国有財産とし、城の破壊が進んだ。
1829年、オルレアン公ルイ・フィリップ(後のフランス王ルイ・フィリップ1世(在位1830-48))がクーシー城を買い取ることで破壊は止み、1848年、フランス政府の管理下となって修復が行われた。クーシー城の修復にあたったのがゴシック・リヴァイヴァルの旗手として知られた建築家ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク(Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc ,1814-79)であった(6スティーヴンソン(2012)138頁)。ここまで大ドンジョンは残されており、修復によってクーシー城は人気の観光地として知られるようになった。
ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクの著書« Description du château de Coucy »はクーシー城に関する重要な文献となっている。
第一次世界大戦がはじまると、クーシー市街はドイツ軍の占領下に入りクーシー城が要塞化された。1917年、連合軍の攻勢が開始されると、西部戦線のドイツ軍は同2月から防衛線ヒンデンブルク線への撤退作戦を開始する。この撤退作戦の過程で、ドイツ軍は要塞化されたクーシー城の破壊を決定。3月27日、大ドンジョンもろとも爆破された。
現在は修復が進められ、歴史的観光地の一つとなっている。
参考文献
- 熊倉洋介 他(2010)『増補新装 カラー版西洋建築様式史』美術出版社
- カウフマン、J・E/カウフマン、H・W(2012).『中世ヨーロッパの城塞』マール社
- スティーヴンソン、チャールズ(2012)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』柊風舎
- ペルヌー、レジーヌ/クラン、マリ=ヴェロニック(1992)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍
- メスキ、ジャン(2007)『ヨーロッパ古城物語』創元社、「知の再発見」双書
- Wikipedia contributors, ‘Château de Coucy, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 4 January 2021, 14:29 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Ch%C3%A2teau_de_Coucy&oldid=998252759 [accessed 5 January 2022]
- Viollet-le-Duc,Eugène(1861).’Description du château de Coucy’,Bance éditeur. (google book,wikisource)
- Château de Coucy(公式ページ、フランス語)