「アンジェ城(Château d’Angers)」はフランスのペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メーヌ=エ=ロワール県アンジェ市にある中世城塞。十世紀末頃、アンジュー伯フルク3世によって築城され、1230年代、フランス王ルイ9世治世下で現在の城が築かれた。17個の円形の塔を持つ特徴的な城壁と、十四世紀に作られた「黙示録のタペストリー」で名高い。世界文化遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」に含まれる。公益財団法人日本城郭協会選「ヨーロッパ100名城」の一つ。
築城前史
アンジェ城が建つアンジェ市の歴史は古く、40万年まえに人類が居住していた痕跡が残り、紀元前五世紀頃からケルト人によって集落が築かれ(1“Les origines : Archives municipales de la ville d’Angers et d’Angers Loire Métropole“)、ローマ時代にはジュリオマグス(Juliomagus)という名で呼ばれる都市であった。町の呼称は中世前期、キヴィタス・アンデカヴァルム(civitas Andecavorum)や アンデケヴィス(Andecavis)という名で呼ばれ、後にアンジェ(Angers)へと変化していった(2Wikipedia contributors, ‘Histoire d’Angers — Wikipédia’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 3 December 2021 à 16:05, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Histoire_d%27Angers&oldid=188518103 [accessed 11 January 2022]/該当の記述の出典とされているのは” Ernest Nègre, Toponymie générale de la France, Genève, Droz, 1990, p.708 ”)。ロワール北部の要衝として栄えたが、九世紀半ば、フランク王国が分裂して乱世を迎えると、九世紀末から十世紀前半にかけてアンジェの町の副伯であった赤毛のフルク(Foulques le Roux)という人物が勢力を拡大してアンジュー伯を称し(在位929頃~942年3在位年はルゴエレル、アンリ(2000)『プランタジネット家の人びと』白水社、文庫クセジュ付録の系図参照)、アンジュー伯領の中心都市となる。
最初にこの地に城を築いたのは、第四代アンジュー伯フルク3世(”Foulques III d’Anjou”別名フルク黒伯/フルク・ネラ” Foulques Nerra”,在位987~1040年)である。生涯に多数の城を築いたことから築城者の異名をとり、それまでヨーロッパで木造であった城を石造にした最初期の人物である(4ルゴエレル(2000)19-21頁/カウフマン、J・E/カウフマン、H・W(2012).『中世ヨーロッパの城塞』マール社102頁)。アンジュー伯家はその後も勢力を拡大し、十二世紀、アンジュー伯ジョフロワ5世(”Geoffroy V d’Anjou”美男伯、在位1128~1151年5在位年はルゴエレル、アンリ(2000)『プランタジネット家の人びと』白水社、文庫クセジュ付録の系図参照)はイングランド王ヘンリ1世(在位1100~1135年)の娘マティルダと結婚。二人の間に生まれたアンリはポワトゥー女伯兼アキテーヌ女公アリエノール・ダキテーヌと結婚し、アンジュー伯、メーヌ伯、ノルマンディー公そしてイングランド王位を継承して、ブリテン島からフランスの西半分を支配するアンジュー帝国(プランタジネット朝)を樹立し、アンジェも帝国内の有力都市の一つとなって、城も拡張・強化された。
しかし、広大なアンジュー帝国にとってアンジェはあまり重視されておらず、まれに臨時の法廷が開かれるに留まった(6Wikipedia contributors, ‘Château d’Angers’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 31 December 2021 13:49, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Ch%C3%A2teau_d%27Angers&oldid=189400272 [accessed 11 January 2022] /該当の記述の出典とされているのは” Jean Favier, Les Plantagenêts, origine et destin d’un empire, XIe – XIVe siècles, Fayard, septembre 2004, Poitier, p. 456.”)。王宮としてはシノン城が築かれ、政治的中心はポワティエ伯領の首府であるポワトゥーやノルマンディー公領の首府ルーアン、シノン城近郊の都市トゥール、フランス王との外交交渉の舞台となったメーヌ伯領のモンミライユ、イングランドのカンタベリーやロンドンなどに移っていた(7一部のウェブページや書籍、例えば学研パブリッシング編集部編『世界の絶景 お城&宮殿』(2014年)35頁のアンジェ城の項などではアンジェがアンジュー帝国の首都となったとの記述があるが、端的に言って間違いである。アンジュー帝国は中世前期のフランク王国や同時代の神聖ローマ帝国などと同様、広大な帝国を統治するために固定の首都を持たず王や重臣たちが各地を巡って現地の諸侯と結んで裁判や政治を行う「巡幸王権」を特徴とする王権であり、またヘンリ2世の長子ヘンリ若王がアンジュー伯・ノルマンディー公・メーヌ伯、次子リチャードがポワトゥー伯・アキテーヌ公、三子ジョフロワがブルターニュ公というように所領を分割して統治した分権色の強い統治体制であった。分権的政治体制の中でヘンリ2世以降の君主は王権強化を目指して諸侯との軋轢を生み、これがアンジュー帝国崩壊の要因の一つとなった。)。
ヘンリ2世(在位1154~1189)、リチャード1世(在位1189~1199)の治世を経て、ジョン王(在位1199~1216)の時代になると、フランス王フィリップ2世(在位1186~1223年)の攻勢が強まり、1204年、アンジェは占領され、イングランドとアキテーヌ公領を除いたアンジュー帝国領土はフランス王の支配下となった。
築城
現存するアンジェ城は1230年代に、フランス王ルイ9世(在位1226~1270年)治世下で築かれたものである。この頃はまだルイ9世は幼いため、摂政であった母后ブランシュ・ド・カスティーユの命で築かれたものと見られている(8ポリドリ、ロベール.(2001)『ロワール古城紀行』クーネマン出版社50頁)。1246年、ルイ9世の弟シャルルに完成したばかりのアンジェ城が与えられ、アンジュー伯に叙された。後世シャルル・ダンジューの名で知られ、シチリア王に即位して地中海帝国を樹立しようとするも「シチリアの晩祷事件」(1282年)で失脚した十三世紀ヨーロッパの著名人である。
アンジェ城は建設当時、旧領奪回を目論むイングランドの脅威に備えて軍事的に強力な城として設計されている。おそらく2万5000平方メートルにおよんだであろう当時の敷地の大部分の遺構は失われているが、主要な建物はメーヌ川東岸にあたる高さ30メートルの岩山上に築かれた。ドンジョン(天守塔)が存在しないかわりに、特徴的な、高さ30メートル、幅18メートルと巨大な17個の円塔が供えられた全長600メートルに及ぶ頁岩・砂岩・花崗岩で造られた黒色の城壁を持つ。建設当時は17個の塔には円錐形の屋根があり、高さは40メートル近かったが、十六世紀に、大砲を設置するために取り外されて城壁と高さが揃えられた(9ポリドリ(2001) 50頁/太田静六(2010)『ヨーロッパの古城―城郭の発達とフランスの城 新装版』吉川弘文館、世界の城郭136-137頁/Wikipedia contributors, ‘Château d’Angers’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 31 December 2021 13:49, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Ch%C3%A2teau_d%27Angers&oldid=189400272 [accessed 11 January 2022])。
アンジェ城公式サイトより「空から見たアンジェ城」動画
“Le château d’Angers vu du ciel – YouTube”
アンジュー公国の宮殿
百年戦争中の1360年、フランス王ジャン2世(在位1350~1364年)の次男ルイがアンジュー公に叙され、アンジュー公国が誕生する。アンジュー地方はイングランドの大陸領土であるギュイエンヌ地方の北に位置する最前線であった。アンジュー公ルイ1世(在位1360~1384年)は知勇兼備の優秀な人物で、ラングドック国王総代官(10国王代行官“lieutenant du roi”は国王から全権を委任された国王代理のような役職。アンジュー公ルイ1世は1364年と1377年、ラングドック(南フランス)を委任されている(佐藤猛(2012)『百年戦争期フランス国制史研究』北海道大学出版会93-95頁および104-105頁の表参照)。)として賢王と呼ばれた兄シャルル5世(在位1364~1380年)を助けてイングランド軍に対抗した。ルイ1世の子ルイ2世(在位1384~1417年)とルイ2世妃ヨランド・ダラゴン、その子ルイ3世(在位1417~1434年)、次男ルネ1世(在位1434~1480年)によってアンジェ城は大幅な改装と建物の造営が行われた。
1370年、ルイ1世によって大ホールが築かれ、1405年から12年頃にかけてヨランド・ダラゴンによって城内に礼拝堂が備えられた。1410年、ルイ2世により国王居住棟が築かれた。ヴァロワ=アンジュー家は代々ナポリ王位継承権を持ち、シチリアで争っていたことから、1435年から53年にかけて、アンジュー公ルネはアンジェ城内に「ルネ王のギャラリー(La galerie du roi René)」という宮殿を築いている。また1456年、中庭への入り口となるシャトレという建物も設けた(11Wikipedia contributors, ‘Château d’Angers’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 31 December 2021 13:49, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Ch%C3%A2teau_d%27Angers&oldid=189400272 [accessed 11 January 2022])。
十四~十五世紀フランスを代表する有力諸侯だったアンジュー公国の首府にふさわしい壮麗な宮殿建築へと変貌を遂げている。
黙示録のタペストリー
「黙示録のタペストリー(フランス語: Tenture de l’Apocalypse ,英語: Apocalypse Tapestry)」はアンジュー公ルイ1世の命で描かれたヨハネの黙示録をテーマにしたタペストリーで、1370年代、フランドルの画家ヤン・ボンドル(Jan Bondol)が描いた絵を、織師ニコラス・バタイユ(Nicolas Bataille)が多数の織工を使って1377年から1380年までかけてタペストリーに編まれた。
タペストリーは幅約6メートル、高さ約24メートル。六つの部分に分けられ、90の異なる場面から成っていた。1480年、最後のアンジュー公となったルネが死の直前アンジェ大聖堂に寄贈して、以後同聖堂で保管されていたが、十八世紀末、フランス革命によって略奪、破壊され、タペストリーも切り刻まれて多くが失われた。1848年、散逸していたタペストリーが集められ、1870年、大聖堂に戻される。その後、1954年に城に移され、大幅な修復作業を経て、現在は城内で展示されている( 12”La Tapisserie de l’Apocalypse“(アンジェ城公式サイト)/ ”La tenture de l’Apocalypse” 他参照。)。2016年より劣化修復作業が進められている(13「ヨハネの黙示録描いた14世紀のタペストリー、修復へ フランス 写真14枚 国際ニュース:AFPBB News」(2016年10月18日の記事))。
近世以後~現代
1562年、カトリーヌ・ド・メディシスによって城が強化されたが、彼の子フランス王アンリ3世は城壁の塔の屋根を取り去って、石材をアンジェ市内の道路整備に転用、またユグノー戦争に際し、アンジェ城を前線基地として、城壁上に大砲を配備した(14Wikipedia contributors, ‘Château d’Angers’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 31 December 2021 13:49, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Ch%C3%A2teau_d%27Angers&oldid=189400272 [accessed 11 January 2022]/ 該当の記述の出典とされているのは“Henri Enguehard, Château d’Angers, Édition de la Caisse des Monuments Historiques, Paris,p.6”)。フランス革命期におきたヴァンデの反乱(1393~96)では、城壁上の大砲が威力を発揮して反乱軍を撃退している。
また、城内に陸軍士官学校が設置され、後にナポレオン・ボナパルトとワーテルローの戦いなど数々の名勝負を繰り広げる英国の名将ウェリントン公アーサー・ウェルズリーが十代の頃留学して学んだ。第一次・第二次世界大戦では武器庫として活用され、第二次大戦中、ドイツ軍によって爆破されている。
現在は他の多くのロワール川沿いの城とともに世界文化遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」の一つに数えられるフランスを代表する中世城塞であり、フランス文化遺産屈指の傑作『黙示録のタペストリー』が閲覧できる博物館として多くの観光客が訪れる人気スポットの一つとなっている。
参考文献
- 朝治啓三,渡辺節夫,加藤玄(2012)『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社
- 太田静六(2010)『ヨーロッパの古城―城郭の発達とフランスの城 新装版』吉川弘文館、世界の城郭
- 佐藤賢一(2009)『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、講談社現代新書
- 佐藤猛(2012)『百年戦争期フランス国制史研究』北海道大学出版会
- カウフマン、J・E/カウフマン、H・W(2012).『中世ヨーロッパの城塞』マール社
- ポリドリ、ロベール.(2001)『ロワール古城紀行』クーネマン出版社
- メスキ、ジャン(2007)『ヨーロッパ古城物語』創元社、「知の再発見」双書
- ルゴエレル、アンリ(2000)『プランタジネット家の人びと』白水社、文庫クセジュ
- Les origines : Archives municipales de la ville d’Angers et d’Angers Loire Métropole
- ”History of the monument“(アンジェ城公式サイト)
- ”La Tapisserie de l’Apocalypse“(アンジェ城公式サイト)
- “La tenture de l’Apocalypse“
- Wikipedia contributors, ‘Château d’Angers’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 31 December 2021 13:49, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Ch%C3%A2teau_d%27Angers&oldid=189400272 [accessed 11 January 2022]
- Wikipedia contributors, ‘Histoire d’Angers — Wikipédia’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 3 December 2021 à 16:05, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Histoire_d%27Angers&oldid=188518103 [accessed 11 January 2022]