スポンサーリンク
歴史的文書

「アルフレッド王の生涯」(アッサーの著作)

スポンサーリンク

「アルフレッド王の生涯(英語:The Life of King Alfred,ラテン語: Vita Ælfredi regis Angul Saxonum(アングロ・サクソン王アルフレッドの生涯))」はウェセックス王アルフレッドに仕えた司祭アッサーが893年頃に書いたとみられるアルフレッド大王の伝記。日本語訳は「アルフレッド大王伝」のタイトルで出版されている。九世紀頃のイングランドの歴史を知る重要な文献史料だが、1731年、知られている限り唯一の写本が火災で焼失したため、現在は十六世紀後半以降作成された複数の校訂本や写しの断片などから再構成された内容が伝わっている。

スポンサーリンク

著者アッサー

アッサーはウェールズのセント・デイヴィッズ出身の聖職者で、アッサーの名は本名ではなく、当時ウェールズの聖職者はヘブライ語聖書から洗礼名を取る習慣があったことから、旧約聖書に登場するヤコブの第八子アシェルから取った洗礼名である。セント・デイヴィッズで高位の聖職者であったとみられ、885年頃、アルフレッド王に招聘され、王が「私の司教」と呼ぶほどに信頼されて「司牧者の心得」の翻訳などに従事、892年頃よりシャーボーン司教を務め、909年に亡くなるまでウェセックス王国に滞在した。

「アルフレッド王の生涯」の第一節でアルフレッド王が849年生まれであること、第九十一節でアルフレッド王が執筆時点で四五歳であることが書かれていることから、「アルフレッド王の生涯」が書かれたのは893年または894年のことであると考えられる。

全体の構成と特徴

「アルフレッド王の生涯」の執筆にあたっては「アングロ・サクソン年代記」のほかフランク王国の学者アインハルト(775年頃-840年)の著作「カール大帝伝(Vita Karoli Magni)」を始めとして「アルクイン伝(Vita Alcuini)」(820年頃)、「ルイ敬虔帝伝(Vita Hludovici)」(840年頃)など多数の文献を参照し、様々な文献からの引用や模倣がみられる。小田卓爾によればアルフレッド王の素顔や個人的問題などまで踏み込んで描くのはアインハルトの手法の影響で、アルフレッド王が存命のまま叙述を終える型式は「ルイ敬虔帝伝」の影響であったという(1小田卓爾訳(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、152-153頁)。

本文の特徴は年代記的叙述と伝記的叙述が並立している点である。第一節から第七十二節までと第八十二節から第八十六節までは「アングロ・サクソン年代記」を参照して849年から888年に至るまでのウェセックス王国を巡る事件や戦いの歴史が年代記的に記され、第七十三節から第八十一節までと第八十七節から最後の第百六節まではアッサーの主観的視点でアルフレッド王の様々な業績が肯定的に描かれたのち、最後は特に結語もなく終わるため、史料が残っていないのかそもそも書かれていないのかは不明だが、不完全な状態であると考えられている。

アッサーが本作の対象読者層として想定していたのは彼の故郷ウェールズの人々であったとみられている。第七十九節と第八十節でアッサーはアルフレッド王に仕えるに至った経緯について、当時の混乱したウェールズ情勢を丁寧に描いた上で、第八十一節で『俗権の拡大を望む者はそれを得ることができ、財力を得たい者は財力を、親交を得たい者は親交を、というように、これらのものを得たい者は、そのいずれをも得ることができたのである。さらに、彼らは全ウェセックス王国て、王が全国民と自らを防衛できる限り、あらゆる面で愛情と保護と防衛を享受した』(2小田卓爾訳(1995)117頁)と、当時ヴァイキングの侵攻に対してアルフレッド王に服従したウェールズ南部諸国が得たウェセックス王国下の安全保障について語り、アルフレッドの寛大さについて『いかに王が惜しみなく寛大であるかを知らない方々に、それを明らかにしておきたかったからである』(3小田卓爾訳(1995)118頁)と、広く訴えかけるように記述している。

写本と校訂本の遍歴

「アルフレッド王の生涯の複製」(1722年)

「アルフレッド王の生涯の複製」(1722年)
Credit:Asser, Public domain, via Wikimedia Commons

「アルフレッド王の生涯」の存在が確認できる写本は好古家として知られたコニントン準男爵ロバート・コットン卿(1570または71年-1631年)が持っていた写本だけで、コットン卿は多くの写本や文献を収集し、彼のコレクションはコットン・ライブラリーと呼ばれた。しかし、1731年10月23日、コットン・ライブラリーを収めていたウェストミンスターのアシュバーナム館が火災にあい、「アルフレッド王の生涯」を始めとする多数の貴重な写本群が焼失することとなった。

十六世紀から写本が焼失する十八世紀初めにかけて、コットン・ライブラリーの「アルフレッド王の生涯」写本を元に三つの校訂本が作成され、現代までに五種類の校訂本が存在する。コットン卿の手に渡る以前、記録に残る限り最初の所有者が好古家ジョン・リーランドで、リーランド死後所有者となったのがカンタベリー大主教を務めたマシュー・パーカー(1504年-1575年)である。1574年、パーカーは「アルフレッド王の生涯」に註解を加えた校訂本を出版した。パーカー死後、所蔵品は多くがケンブリッジ大学コーパス・クリスティ・カレッジに寄贈されたが、「アルフレッド王の生涯」写本はその中に含まれず、幾人かの手を経てコットン卿の手に渡ったとみられる。

1602年、歴史家ウィリアム・キャムデン(1551年-1623年)は著作にパーカーの校訂本を再録、加筆する形で2つ目の「アルフレッド王の生涯」校訂本を出版した。出版に際してオックスフォード大学出身のキャムデンはアルフレッド王以前からオックスフォード大学が存在したとする作り話を本文に挿入して捏造したため、後世、オックスフォード大学創立時期を巡る混乱が生じることとなった。このような捏造はパーカー本でも行われており、当時、アッサーの著作と信じられていた十二世紀の「聖ニオットの年代記(Annals of St Neots)」からの借用改竄が行われている。「聖ニオットの年代記」にあった「アルフレッド大王のパン」の逸話はパーカーが挿入したことで広く知られることとなった(4小田卓爾訳(1995)171頁)。

その後、1722年、オックスフォード大学トリニティ・カレッジの歴史家フランシス・ワイズの校訂本が出版され、写本焼失後は、1848年のヘンリー・ペトリの校訂本と1904年のウィリアム・ヘンリ・スティーヴンソンの校訂本が出された。特にスティーヴンソンの校訂本が高い完成度で現在までのアルフレッド大王研究の基本文献となっている。

これらの校訂本の他、コットン・ライブラリーのものとみられる写本の転写本や断片が存在するほか、ギラルドゥス・カムブレンシス(Giraldus Cambrensis,1146年-1223年頃)の「聖エセルベルフト伝(Life of St Ethelbert)」にアッサーが語ったものというイースト・アングリア王エセルベルフトの奇跡エピソードが挿入されているが、コットン本には存在しないためコットン写本以外の写本から転写した可能性があるとされる(5小田卓爾訳(1995)168-169頁)。

参考文献

脚注

  • 1
    小田卓爾訳(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、152-153頁
  • 2
    小田卓爾訳(1995)117頁
  • 3
    小田卓爾訳(1995)118頁
  • 4
    小田卓爾訳(1995)171頁
  • 5
    小田卓爾訳(1995)168-169頁
タイトルとURLをコピーしました