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人物

カドワソン・アプ・カドヴァン(グウィネズ王)

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カドワソン・アプ・カドヴァン(Cadwallon ap Cadfan,またはカドワロン・アプ・カドファン)は七世紀前半、ウェールズ地方北部のグウィネズ王国を治めた王(在位625年頃-634年)。ノーサンブリアのエドウィン王に敗れて一時アイルランドに亡命したが後に復権し、633年、マーシア王国と同盟してハットフィールド・チェイスの戦いエドウィン王を討ち、その後継者らも次々と倒してノーサンブリア地方を劫掠するが、634年、先のバーニシア王エセルフリスの子オスワルドと戦ったヘブンフィールドの戦いで敗死した。

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初期のグウィネズ王国

グウィネズ王国はウェールズ地方北部に栄えたブリトン系の王国。五世紀頃、スコットランド南部のフォース湾南岸、現在のエディンバラ付近に住んでいたウォタディニ族(後のゴドジン王国)の有力者キネザ・ウレディクが率いる一団が建国したと伝わり、六世紀前半、マエルグン王の時代にウェールズ地方北部から「古き北方(アル・ヘーン・オグレッズ)」と呼ばれた現在のスコットランド南部からイングランド北部にかけての一帯にかけて支配的地位を築いた。

六世紀後半、「古き北方」(=ノーサンブリア地方)にアングル人が進出してバーニシア王国デイラ王国の勢力が拡大すると、「古き北方」のブリトン人勢力を支援して争うようになる。アングル人のバーニシア王国エセルフリスが王位に就くと急速に勢力を拡大して、604年頃エセルフリス王がデイラ王国を征服、613年頃にはウェールズ地方中部のポウィス王国率いるブリトン人の連合軍がエセルフリス王にチェスターの戦いで破れたことで、ウェールズから「古き北方」へ進出することが困難となった。この戦いにグウィネズ王国が参戦していたかは諸説あるが、以後、グウィネズ王国を始めとするウェールズ地方の諸国はノーサンブリアのアングル人勢力の脅威を大きく受けることとなった。

「中世ウェールズにおけるカントレヴ(小王国を基にした地方区分)地図」

「中世ウェールズにおけるカントレヴ(小王国を基にした地方区分)地図」
“Cantrefs of Wales”
ウェールズ古代歴史建造物王立委員会(Royal Commission on the Ancient and Historical Monuments of Wales)作成地図が改変されたもの
Credit: XrysD, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons
https://rcahmw.gov.uk/mapping-the-historic-boundaries-of-wales-commotes-and-cantrefs/

「六世紀後半から七世紀前半のノーサンブリア地方勢力図」

「六世紀後半から七世紀前半のノーサンブリア地方勢力図」
Credit: myself, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

生涯

カドワソン・アプ・カドヴァンは前王カドヴァン・アプ・イアゴの子で625年頃にグウィネズ王に即位した。当時、エセルフリス王にかわってノーサンブリア地方を統一、ブレトワルダとしてブリテン島全土に覇権を確立していたデイラ王国エドウィン王がアイリッシュ海への進出を目指してウェールズ地方へ侵攻した。「カンブリア年代記(Annales Cambriae)」によれば、629年、アングルシー島でカドワソン王はエドウィン王の包囲を受け、アングルシー島を奪われた(1Ingram, James,(1912).Medieval Sourcebook: The Annales Cambriae (Annals of Wales).Fordham University.)。ウェールズの三題詩の一つにはカドワソン王がアイルランドのダブリンへ亡命したことを歌ったものがあり、一時亡命していたとみられている(2Jones,Mary.”A Poem Attributed to Cadwallon ap Cadfan“.The Celtic Literature Collective.)。

アングル人の教会史」(731年)によると、633年、カドワソン王は、ブリテン島中部のマーシア王国と同盟を結び、エドウィン王に戦いを挑んだ。マーシア王国軍を率いたのは即位前の王族ペンダで、633年10月12日、グウィネズとマーシアの連合軍は迎え撃つエドウィン王率いるノーサンブリア軍とハットフィールドという平原で激突した。戦地についてはサウスヨークシャーのドンカスター近郊のハットフィールド村あるいはノッティンガムシャーのカックニー近郊で説が分かれている。激しい戦いの中でエドウィン王が戦死してノーサンブリア軍は敗走、グウィネズ=マーシア連合軍の勝利で終わった。

カドワソン王は勝利の余勢をかってノーサンブリア地方へ侵攻、各地を劫掠した。エドウィン王の王妃ら王族と聖職者らはケント王国へ亡命して支配体制は崩壊し、デイラ王にはエドウィンの従兄弟オスリックが即位したが、バーニシア王には前王エセルフリスの子エアンフリスが即位してノーサンブリアの統一体制は崩壊した。634年、カドワソン王はデイラ王オスリックと戦いオスリック王を戦死させ、続いてカドワソン王との和平交渉に赴いてきたバーニシア王エアンフリスも騙し討ちで殺害する。カドワソン王は、ノーサンブリア地方に支配的な地位を築くことに成功した。

634年、亡くなったバーニシア王エアンフリスの後継者としてダルリアダ王国に亡命していたエアンフリスの弟オスワルドが帰国して即位する。オスワルド王は少数の兵力を率いて現在のノーサンバーランド州ヘクサム近郊ヘブンフィールドと呼ばれた地でカドワソン王率いるグウィネズ軍と対戦、この戦いでカドワソン王は戦死し、グウィネズ王国のノーサンブリア支配=「古き北方」の奪還は短期間で終わった。この戦いの後、オスワルド王はデイラ王を兼ねてノーサンブリア地方を再統一、ウェールズのブリトン人と「古き北方」のブリトン人は切り離されてアングル人による支配を受け入れることとなり、ノーサンブリア地方はノーサンブリア王国による統一へ進み、ウェールズ地方はグウィネズ王国が指導的地位を確立していった。

カドワソン王死後、グウィネズ王に即位したのは非王族のカダヴァエル王だったが、655年、マーシア王ペンダがバーニシア王オスウィウに破れたウィンウェドの戦いのあと失脚、カドワソン王の子カドワラドルが王位を継いだ。後にカドワソンの子カドワラドル王の末裔を称したのがウェールズ地方の豪族だったテューダー家で、薔薇戦争の勝利者となるヘンリ・テューダー(後のヘンリ7世)は後にウェールズの国旗となる「カドワラドルのレッドドラゴン(Red Dragon of Cadwallader)」を旗印にしてイングランドとウェールズを統合する君主としての正統性を喧伝した。

「イングランド王ヘンリ7世が紋章にしたカドワラドルのレッドドラゴン」

「イングランド王ヘンリ7世が紋章にしたカドワラドルのレッドドラゴン」
Credit: SodacaniThe source code of this SVG is valid.  This vector image was created with Inkscape ., CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

参考文献

脚注

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