ノーサンブリア王国

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ノーサンブリア王国(Kingdom of Northumbria)はハンバー川以北、現在のイングランド北部からスコットランド南部にかけて存在したアングロ・サクソン系王国の一つ。ノーサンブリアとはハンバー川の北の人々を指す古英語に由来し八世紀初め頃から使われ始めた。六世紀後半頃から北部のバーニシア王国と南部のデイラ王国が争い、バーニシア王エセルフリス、デイラ王エドウィン、バーニシア王オスワルドが相次いで統一王権を築く。655年、バーニシア王オスウィウがノーサンブリア地方を統一してノーサンブリア王国が成立し、679年、デイラ王位が廃されて統一支配体制が完成した。七世紀末から八世紀前半、ノーサンブリア・ルネサンスと呼ばれる文化・芸術活動の隆盛が起こり最盛期を迎えたが、八世紀後半、王位継承を巡る混乱や周辺諸国の台頭で衰退、876年、ヴァイキングの指導者ハーフダンが新たにノーサンブリア王に即位して南部の旧デイラ王国領にデーン人のヨーク王国(ヨールヴィーク)が成立、北部に逃れたノーサンブリア人はバンバラに亡命政権を立てるが、この分裂をもってノーサンブリア王国は終焉を迎えた。

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バーニシア王国とデイラ王国

「七世紀のノーサンブリア勢力図」

「七世紀のノーサンブリア勢力図」
credit: myself / CC BY-SA / wikimedia commonsより

ローマ帝国撤退後、後にノーサンブリア王国が成立するハンバー川からフォース川にかけての地域にはゴドジン(Gododdin)王国、フレゲッド(リージッド”Rheged”)王国、エルメット(Elmet)王国などブリトン人の諸王国が栄えたが、六世紀後半からティーズ川を境界として北部にバーニシア王国、南部にデイラ王国というアングル人王国が登場、周辺のブリトン人諸王国を駆逐して勢力を拡大し、互いに争うようになった。やがて、バーニシア王エセルフリス、デイラ王エドウィン、バーニシア王オスワルドが相次いで統一王権を築き、後世、彼らはノーサンブリア王に数えられるが、単一の王国としてのノーサンブリア王国の成立は655年、オスウィウ王の手によって初めて実現する。

593年頃、バーニシア王に即位したエセルフリス王はゴドジン王国やフレゲッド王国を併合し、デグサスタンの戦い(Battle of Degsastan)でスコットランドのダルリアダ王国を撃退、バーニシア王国の勢力を急拡大させると、604-605年頃、デイラ王国の征服に成功、後のノーサンブリア王国にあたるイングランド北東部ノーサンブリア地方を初めて支配下に置くこととなった。エセルフリス王によるイングランド北東部支配は616年または617年、アイドル川の戦いエセルフリス王が戦死することで終焉した。亡命していたデイラの王子エドウィンは616年頃イースト・アングリア王国レドワルド王(在位599頃–624頃)に保護を求め、これを知ったエセルフリス王はエドウィンの殺害または引き渡しを求めるがレドワルド王は従う振りをして迅速に軍を招集して進撃を開始、虚を突かれたエセルフリスは十分に兵を集められないまま迎撃せざるを得ず、激しい戦いの末に戦死し、彼の死にともないバーニシア王国の支配体制も崩壊した。

ノーサンブリアのエドウィン

「イースト・ライディング・オブ・ヨークシャーのスレッドミア村のセント・メアリー教会にあるエドウィン王のステンドグラス」
Credit:DaveWebster14, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons

復権したエドウィンはデイラ王に即位するとともにバーニシア王国も征服、周辺諸国も相次いで支配下に置き、ブレトワルダとしてブリテン島の広い範囲に覇権を確立した。エドウィン王は即位後すぐの時期にまずデイラ王国西隣のブリトン人王国エルメット王国を征服、また、六世紀後半からエドウィン王時代にかけての時期にエボラクム(ヨーク市)を中心に栄えていたブリトン人のエブラウク王国を征服、エドウィン王の時代にエオヴォルヴィク(Eoforwic)と呼ばれたヨーク市は中核都市として発展を遂げた(1Anglian York: History of York)。また、627年、キリスト教に改宗し領内での布教を許可、ノーサンブリア地方のキリスト教化を推し進めた。しかし、633年、エドウィン王はハットフィールド・チェイスの戦いでグウィネズ王国とマーシア王国の連合軍に敗れ戦死、デイラ王国によるバーニシア王国支配も終焉を迎え、ノーサンブリア地方は再び分裂した。

勝利の勢いに乗ってグウィネズ王カドワソンはノーサンブリア各地を寇掠、混乱の中、デイラ王にはエドウィンの従兄弟オスリックが即位し、バーニシア王には前王エセルフリスの子エアンフリスが即位して両国の統一体制は崩壊した。しかし、634年、まずデイラ王オスリックがカドワソンとの戦いで戦死、続いてカドワソンとの和平交渉に赴いたバーニシア王エアンフリスも騙し討ちにあって殺害される。ダルリアダ王国へ亡命していたエセルフリス王の次男オスワルドが少数の軍で帰国、ヘブンフィールドの戦いでカドワソンを倒しバーニシア王に即位するとともにデイラ王国も支配下に置きノーサンブリア地方を再統一して秩序の回復に努めた。

バーニシア王オスワルドは弟オスウィウとフレゲッド王国の王族リアンメルト(Rhianmellt/ウェールズ語:フリアンメスト)を結婚させてブリトン人の支持を取り付けたり(2Grimmer, Martin.(2006). “The Exogamous Marriages of Oswiu of Northumbria“.A Journal of Early Medieval Northwestern Europe, issue 9.)、ダルリアダ王国アイオナ修道院から高名な司祭エイダンを招聘してキリスト教化を進めつつ、638年、残されたゴドジン王国の本拠地だったエディンバラを征服してノーサンブリア地方の平定に努めた。ノーサンブリアに統一王権を築いたオスワルドブレトワルダとしてブリテン島に宗主権を確立した。エドウィン王に続きオスワルド王もブレトワルダとなったことで、ノーサンブリア地方に統一王権を築くことがブリテン島全体の覇権に直結するようになった。

641年または642年、オスワルド王の覇権に対し、マーシア王ペンダが戦いを挑んだ。ペンダ王が戦端を開くこととなった経緯や理由は不明だが、641年または642年の8月5日、マーシア軍とノーサンブリア軍は現在のシュロップシャー州オスウェストリーと推測されているマーサフェルスで会戦に及び、マーシア軍が勝利を収めてオスワルド王は戦死した。後を継いで弟オスウィウがバーニシア王に即位したが、644年頃、前のデイラ王オスリックの子オスウィネ(Oswine,またはオズウィン)がデイラ王に即位してまたも統一体制が崩れることとなった。

「英国イーストボーンの聖救世主教会のオスワルド王のステンドグラス」

「英国イーストボーンの聖救世主教会のオスワルド王のステンドグラス」
Credit: Fr James Bradley from Southampton, UK, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons

ノーサンブリア王国

「700年頃のノーサンブリア王国地図」

「700年頃のノーサンブリア王国地図」
Credit: Ben McGarr, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

オスウィウ王の統一

バーニシア王即位直後の時期にオスウィウケント王国に亡命していたエドウィン王の娘エアンフレダを妻に迎え、デイラ王位獲得への野心を明らかにしたが、再独立したデイラ王オスウィネは善政を行ってデイラ王国を繁栄させたため、651年頃、両国の対立が深まりついに開戦に至った。同年にはマーシア王ペンダバーニシア王国の首都バンバラの近くまで侵攻するなどバーニシア王国デイラ王国マーシア王国など諸国との戦いが激化していた。オスウィウ王が集めた大軍の前に勝ち目が薄いと判断したオスウィネ王は軍を解散してこの戦いを回避し捲土重来を期すが、651年8月20日、オスウィネ王は少数の供を連れて信頼する重臣の領地を訪れた際、裏切りにあって殺害された。オスウィウ王は兄オスワルドの子アセルワルド(Œthelwald,在位651-655年)をデイラ王に即位させたが、アセルワルド王はマーシア王ペンダと同盟してオスウィウ王と対立するようになる。

655年、ペンダ王は周辺諸国からも軍を動員しグウィネズ王国やイースト・アングリア王国などの同盟軍を含む30人もの将軍を引き連れた大軍勢でバーニシア王国へ侵攻する。勝ち目が薄いと考えたオスウィウ王は多額の貢物や財産と息子エッジフリスを人質として送るなど恭順の意思を示したが、ペンダ王は侵攻を止めなかったため、追い詰められたオスウィウ王は少数の兵で一戦することを決断する。655年11月15日、ウィンウェド(Winwæd)という名の川の近くで移動中のマーシア連合軍に少数のバーニシア軍が奇襲攻撃をかけた。折しも大雨でウインウェド川は氾濫して戦場は水浸しという劣悪な状況の中でマーシア連合軍は不意を打たれて総崩れとなり、マーシア王ペンダを始めとしてイースト・アングリア王エセルヘレら30人の将軍がことごとく戦死、壊滅した。

ウィンウェドの戦いに勝利したオスウィウ王は勢いにのってマーシア王国に侵攻して支配下に置いた。オスウィウ王はウィンウェドの戦いで様子見に徹した甥アセルワルドに変えて息子のアルフフリスをデイラ王に即位させ事実上バーニシア王国の下位王国とした。ハンバー川を南限、フォース川を北限とするイングランド北東部を指すノーサンブリアという地名が使われ始めるのは八世紀始めのことだが、オスウィウ王の直系によりデイラ王位が獲得された655年をもってデイラ王国バーニシア王国と統一されノーサンブリア王国が成立したとみられる。

マーシア王国の支配は、658年、大規模な反乱によってオスウィウ王配下の総督らが追放されペンダ王の子ウルフヘレ(Wulfhere,在位658-675年)がマーシア王に擁立されたことで三年経たず終焉を迎えたが、ノーサンブリア王国はマーシア王国に対して引き続き優越的な地位を保った。650年代後半、グウィネズ王国へ侵攻して貢租を課し、オスウィウ王の勧めで洗礼を受けたイースト・アングリア王シグベルフト2世、ピクト王となったオスウィウの長兄エアンフリスの子タロルガン、妻の実家であるケント王国など友好国も多く、オスウィウ王はブレトワルダとして覇権を確立した。ベーダによれば特にマーシア王国を征服下に置いていた655年から658年の最初の三年間は「マーシア人の国およびその他の南部諸国を統治し、ピクト人の大部分をもその支配下に置いた」(3高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、168頁)と言い、その覇権はブリテン島全土に及んだ。

655年のオスウィウ王による統一後、デイラ王位はバーニシア王家直系によって継承され、ノーサンブリア王国の副王位として機能するようになった。664年、ウィットビー教会会議の結果アルフフリスはデイラ王から退位し、オスウィウ王の王子エッジフリスがデイラ王となった。オスウィウ王死後、エッジフリスが後を継いでノーサンブリア王に即位すると、エッジフリス王の弟エルフウィネがデイラ王に即位する。679年、トレントの戦いでエルフウィネ王がマーシア王国を軍に敗れ戦死すると、以後デイラ王位は継承されず、名実ともにノーサンブリア王国の統一体制が確立した。

キリスト教化の進展

「リンディスファーン修道院跡」

「リンディスファーン修道院跡」
Credit:Christopher Down, CC BY 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/4.0>, via Wikimedia Commons

627年、エドウィン王は王妃エゼルブルフに随行していた聖職者パウリヌスの勧めに従いキリスト教に改宗し領内での布教を許可、ノーサンブリア地方のキリスト教化を推し進めた。同年の復活祭の日、エドウィン王はヨーク市に木材で聖ペテロ教会を建てさせ、ヨーク司教となったパウリヌスによって洗礼を受けた。後日、聖ペテロ教会を改めて石造で建て直させたがエドウィン王は完成を見る事無く亡くなっている。以後、パウリヌスによってヨーク市を中心にキリスト教の布教が進められた。

633年のエドウィン体制の崩壊にともない王妃エゼルブルフやヨーク司教パウリヌスらはノーサンブリアからケント王国へ避難したためノーサンブリア地方のキリスト教信仰は一時絶えるが、熱心なキリスト教徒だったオスワルド王の治世下で再びキリスト教化が進められた。オスワルドは即位してすぐにダルリアダ王国へ司教の派遣を依頼しアイオナ修道院の修道士エイダンを招聘した。オスワルド王はエイダンのためにリンディスファーン島にリンディスファーン修道院を築かせて司教座を与え、ノーサンブリアへのキリスト教布教に当たらせた。有力者への宣教に際してエイダンの使う古アイルランド語と現地で使われる古英語(ノーサンブリア方言)の両方に通じたオスワルド王自ら通訳を務めたという。ノーサンブリア各地に教会が造られ、キリスト教への改宗が進んだ。

「ウィットビー修道院の遺構」

「ウィットビー修道院の遺構」
Credit: Wilson44691, CC0, via Wikimedia Commons

ブリテン島へのキリスト教布教は大陸経由とアイルランド経由の2つのルートを辿った。五世紀始め頃からアイルランドへの布教が開始し、六世紀半ばに設立されたアイオナ修道院が中核となってアイルランド修道制がアイルランドとブリテン島北部へ広がった。一方、六世紀末、ローマ教皇グレゴリウス1世によって派遣されたベネディクト派修道士アウグスティヌスら宣教団がケント王国へ到着した597年からブリテン島南部のアングロ・サクソン諸王国を中心にローマ・カトリックが拡大した。両者の間には復活祭の計算方法や剃髪、儀礼など細部にわたり様々な違いが存在しており、ノーサンブリア王国内でもアイルランドの慣習に従うオスウィウ王とローマ・カトリックの慣習に従う王妃エアンフレダに代表されるように二通りの慣習が併存して両者の隔たりや対立は大きくなる一方であった。

664年、オスウィウ王はウィットビーの聖ヒルダ修道院に聖職者や関係者を招集、ノーサンブリア王国内の教会においてどちらの慣習を採用するか論争が戦わされ、オスウィウ王は復活祭期日の算定方法や剃髪についてローマ・カトリック式の採用を決定した。ウィットビー教会会議はノーサンブリア王国内の紛争解決を目的としたものだったが、この決定を契機にイングランド全体でローマ・カトリック式が受け入れられるようになり、八世紀までにアイルランドやウェールズもこれに倣いブリテン諸島の教会制度がローマ教皇の権威を受け入れ大陸のローマ・カトリック秩序に組み込まれることとなった。

キリスト教化の進展にともないノーサンブリア王国内では七世紀半ばから多くの教会建築が進められた。これをリードしたのがウィットビー教会会議でローマ・カトリック式の導入を推進してノーサンブリア司教に任ぜられたリボン修道院長ウィルフリッドである。ウィルフリッドは653年、ローマへ巡礼して見聞を広め、ノーサンブリアへ戻ったあと大陸から石工や職人を呼び寄せてヘクサム修道院やリポン修道院などローマの建築様式や装飾を模倣した石造りの教会を建てた。またウィルフリッドのローマ行に同行した聖職者ベネディクト・ビスコプも、671年頃フランク王国から石工やガラス職人を招聘し、後にベーダが学ぶモンクウィアマス=ジャロウ修道院を構成するウィアマスのセント・ピーター教会(673年頃)とジャロウのセント・ポール教会(681年頃)を建てた。八世紀初頭、両修道院は西ヨーロッパの主要な知の中心の一つとして頭角を現し、国内のみならず海外にも大きな影響を与える。710年頃、ピクト王ネフタンはモンクウィアマス=ジャロウ修道院の石造の建築に習ってスコットランドでも同様のローマ風の教会を建てさせたという(4オライリー、ジェニファー(2010)「第四章 権威ある美術」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、186-189頁))。

「説教をする聖エイダンのフレスコ画」

「説教をする聖エイダンのフレスコ画」(ドイツ、オッタースワンの聖オスワルド教会、アンドレアス・マインラッド・フォン・オー作、1778年)
Credit: Andreas Meinrad von Au, Public domain, via Wikimedia Commons

ノーサンブリア・ルネサンス

「ダロウの書」マルコ福音書冒頭

「ダロウの書」マルコ福音書冒頭
Book of Durrow. IE TCD MS 57,fol.86r.
パブリックドメイン画像

「リンディスファーンの福音書」(fol.27,マタイ福音書)

「リンディスファーンの福音書」(fol.27,マタイ福音書)
Credit: Eadfrith of Lindisfarne (presumed), Public domain, via Wikimedia Commons

ノーサンブリア王国はオスウィウ王による再統一を経て内乱が鎮められ安定的な治世を実現した。オスウィウ王の呼びかけで行われたウィットビー教会会議でローマ、アイルランド、ノーサンブリアの教会制度が足並みを揃えることとなり、続くハーフォード教会会議(672年)で全イングランドへ拡大、ノーサンブリアはキリスト教文化の最先端地域となった(5青山吉信(1991)「第4章 イングランド・スコットランド・ウェールズの形成」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、107-110頁))。このような背景で、若い頃アイルランドで学び深い学識で知られたアルドフリス王(在位685-704/705年)は学問と芸術を奨励、彼の治世下で八世紀半ば頃まで続く「ノーサンブリア・ルネサンス」と呼ばれる文化・芸術活動の隆盛期が始まった(6Northumbrian Renaissance – The Anglo-Saxons)。

ノーサンブリア・ルネサンスを代表するのが「リンディスファーンの福音書」「ダロウの書」「リッチフィールド福音書」「ダラム福音書」「アミアティヌス写本(Codex Amiatinus)」などの装飾写本群である。アイルランドでは六世紀から七世紀にかけて写本に文字の縁取りなど装飾が施されるようになり、七世紀前半、アイルランド人修道士が多くノーサンブリア王国にわたり、アングロ・サクソン文化とアイルランド文化が交流、アングロ・サクソン系の動物形態や組紐模様などが取り入れられ、渦巻模様と組み合わされて洗練されていった(7ミーハン、バーナード.(2002)『ケルズの書』創元社、9-10頁、91頁/”Book of Kells“,The Library of Trinity College Dublin,Trinity College Dublin.)。このような七世紀頃からブリテン諸島・アイルランドで発展した装飾写本を始めとする芸術作品を総称して島嶼芸術(Insular Art)と呼び(8Karkov,Catherine E.(2015).Insular Art – Medieval Studies – . Oxford Bibliographies.)、ノーサンブリア・ルネサンス期のノーサンブリア王国で多数の装飾写本が製作され、島嶼芸術が花開いた。

ノーサンブリア・ルネサンスを代表する知識人が「アングル人の教会史」で知られる修道士ベーダである。当時、ノーサンブリア王国随一の神学研究の場となっていたモンクウィアマス=ジャロウ修道院で学んだベーダは「アングル人の教会史」をはじめ、現存するだけで48作(9DeGregorio, S. (2016). Bede (Beda Venerabilis), c. 673–735 CE. Oxford Classical Dictionary.)、ベーダのものか不確かな作品も含めて100点以上(100627-0735- Beda Venerabilis, Sanctus\ – Operum Omnium Conspectus seu ‘Index of available Writings’(ローマ教皇に従う団体’Cooperatorum Veritatis Societas’によってローマ・カトリック教会に関する文書を公開されているウェブサイト’Documenta Catholica Omnia’のベーダの著作一覧ページ(ラテン語)))という多数の著作があったとみられ、その3分の2近くが聖書解釈の問題を扱い、年代学、天文学、文法、修辞学などの教科書の他、ラテン語詩など多岐にわたり、同時代に限らず英国史上でみても非常に多作な著作家の一人であった。

また、ノーサンブリア・ルネサンス期直前の七世紀後半に活躍した詩人カドモン(Cædmon,657年頃–684年)はベーダの「アングル人の教会史」に紹介される人物で、ウィットビー修道院で牛飼いとして働き、文字の読み書きも出来なかったがラテン語や古英語を熱心に学んで詩作に励み、代表作「カドモンの讃歌(Cædmon’s Hymn)」は最も古い古英語宗教詩の一つとみられる。また、八世紀初め頃にスコットランド南西部のソルウェー湾沿いのラスウェル村に建てられた石造の十字架「ラスウェルの十字架(Ruthwell Cross)」(11The Ruthwell Cross. The British Library./オライリー、ジェニファー(2010)「第四章 権威ある美術」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、196-199頁))には擬人化した十字架の幻視を歌った古英語詩「十字架の夢(The Dream of the Rood)」がルーン文字で刻まれており、「カドモンの讃歌」と並んで最古の古英語宗教詩の例である。

ベーダ「アングル人の教会史」写本(サンクトペテルブルク・ベーダ、ロシア国立図書館 収蔵)

ベーダ「アングル人の教会史」写本(サンクトペテルブルク・ベーダ、ロシア国立図書館 収蔵)

「ラスウェルの十字架」

「ラスウェルの十字架」
Credit: Lairich Rig / The Ruthwell Cross / CC BY-SA 2.0

衰退

ブレトワルダとしてブリテン島全土に覇権を確立したオスウィウ王死後のエッジフリス王時代、王弟エルフウィネがマーシア王国軍に敗れ戦死したトレントの戦い(679年)、ノーサンブリア王エッジフリスがピクト王国に敗れ戦死したドゥーン・ネフタン(ダンニヒェン)の戦いの2つの大きな敗北はノーサンブリア王国のブリテン島における覇権を失わせたが、後を継いだアルドフリス王治世下でノーサンブリア・ルネサンスが花開き、八世紀前半、ノーサンブリア王国は最盛期を迎えた。しかし、この時期に早くも王権の不安定さが露呈し始める。

嫡流のエッジフリス王の死で急遽即位することとなったアルドフリス王は庶子として育ち若くして修道院に入ったため子供がおらず、初めての子オスレッド(Osred)は697年に生まれた(12Grimmer, Martin.(2006). “The Exogamous Marriages of Oswiu of Northumbria“.A Journal of Early Medieval Northwestern Europe, issue 9.)。705年、アルドフリスが亡くなると幼いオスレッドが王位に就くはずだったが、エアドウルフという出自不明の人物が一時王位を簒奪、数ヶ月で彼は殺害されオスレッドが王位に就いた(在位705-716)。716年、オスレッド王は殺害され、始祖バーニシア王イーダに遡るノーサンブリア王家の傍流というコエンレッドが新たに王位に就いた。しかしその王位も長続きせず、718年、アルドフリス王の子と言われるオスリック王がコエンレッドを殺害して王位に就く。オスリック王は王位継承の混乱を鎮めるべく、前王コエンレッドの弟ケオルウルフを養子に迎え王統の統一を図った。729年、王位を継承したケオルウルフ王(在位729-737年)の治世は初期は一時王位を追われるなど混乱もあったが、732年以降安定した治世を実現し、737年、平和裏に次代のエアドベルフト王に譲位して王位を退いた。758年、最後の繁栄の時代となったエアドベルフト王の治世が終わると、以後ノーサンブリア王国が滅亡する867年まで百年余りで15人の王が即位する短命政権が続き、その殆どが政争による追放か殺害で治世を終えており、王権の弱体化が進んだ。

王権の混乱とあわせて進展したのが王国の統治を担うはずの貴族・領主層の弱体化である。八世紀前半、平和に慣れた貴族たちが戦争を忌避して修道院に入るようになり尚武の気風が失われ戦士層の弱体化が進んでいくようになった。ベーダも「アングル人の教会史」で「平和で静穏な時代のために、ノーサンブリアでは大勢の者たちが貴人も庶民も自分たちや子供たちが戦争に専念するよりは修道院の生活に入り、神に奉仕することを熱心に望んでいる。このことがいかなる結果をもたらすかは、つぎの世代がこれを証明することになろう。」(13高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、319頁)と危惧している。また、大規模な修道院が相次いで誕生した結果、戦場で戦う貴族の子弟達に与えるはずの土地が少なくなったため、彼らは多くが国外に土地や財産を求めて去っていくようになり、有為の人材が相次いで流出する事態になった(14青山吉信(1991)「第4章 イングランド・スコットランド・ウェールズの形成」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、96頁))。

八世紀になるとマーシア王国はエゼルバルド王(Æthelbald,在位716-757年)の下で勢威を取り戻し、特にブリテン島南部に影響力を拡大、ブレトワルダ的な上級支配権をブリテン島南部の広い範囲に行使していたとみられる。続くオファ王の時代には活発に征服活動を進めてハンバー川以南をほぼ支配下に収め、ノーサンブリア王国に対しても、ときのノーサンブリア王エセルレッド1世(在位774-779年(第一次)、790-796年(復位))と娘を結婚させ、ノーサンブリア王国は従属的な同盟関係を結ばされる。ノーサンブリア王国はマーシア王国の覇権に服従を余儀なくされた。

「八世紀マーシア王国の覇権拡大地図」

「八世紀マーシア王国の覇権拡大地図」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

ヴァイキングの侵攻と滅亡

大軍勢(大異教徒軍)の軍事行動地図

大軍勢(大異教徒軍)の軍事行動地図
credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

793年6月8日、現代のノーサンバーランド州沖、旧バーニシア王国の首都でノーサンブリア王国の主要都市バンバラに近いリンディスファーン島にあったリンディスファーン修道院がヴァイキングの襲撃を受け、同修道院は徹底的な破壊と略奪に見舞われた(ヴァイキングのリンディスファーン襲撃(793年))。リンディスファーン修道院は、アイオナ修道院と並んでブリテン島北部のキリスト教布教の拠点となった修道院で、ノーサンブリア王国を代表する修道士・聖カスバートの墓所があり聖人信仰の地として多数の巡礼者を集めるなどノーサンブリア王国におけるキリスト教文化の中心的な役割を担った修道院であったため、ノーサンブリア王国だけでなくヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃を与えた。間を置かずに794年、ノーサンブリア王国のモンクウィアマス=ジャロウ修道院が、795年にはスコットランドのヘブリディーズ諸島にあったアイオナ修道院が相次いで襲撃を受けヨーロッパに対するヴァイキングの攻勢が始まり、ノーサンブリア王国の特に北海沿岸には攻撃が相次いだ。

内紛による王権の権威の喪失、ヴァイキングの攻勢という内憂外患でノーサンブリア王国は弱体化し、825年、ウェセックス王エグバートマーシア王国を撃破してブレトワルダとしてイングランドに覇権を確立するとノーサンブリア王国は抵抗すること無くエグバート王の覇権に服従、860年代から本格化するヴァイキングとウェセックス王国を中核としたアングロ・サクソン勢力の全面対決に際しては主戦場として荒廃した。

865年、ヴァイキング勢力は複数のデーン人指導者からなる連合を組み、一つの大規模な集団、「アングロ・サクソン年代記」の記述に基づいて「大軍勢(英語”The Great Army”古英語”micel here”)」または「大異教徒軍(英語”The Great Heathen Army”古英語”mycel hæþen here”)」と呼ばれる集団として活動を開始する。865年、ケント地方に上陸した「大軍勢」に対しケントの人々は和平を求めて金銭を支払ったがヴァイキングたちはこの約束を反故にしてケント地方東部全域を寇掠した。その後、大軍勢はイースト・アングリア王国へ侵攻して宿営地を設けて越冬する。このときイースト・アングリア王国に対し馬の提供と引き換えに和平を約束した。

866年、イースト・アングリア王国を去った「大軍勢」はハンバー川を越えてノーサンブリア王国へ侵攻、ヨーク市に迫った。ヴァイキングの侵攻を受けたノーサンブリア王国では方針を巡って対立が起こりオズベルフト王が追放されて王家の生まれではないというエッラという人物が新たに即位しヴァイキングとの戦いを継続するが、867年、前王オズベルフトとエッラ王ともにヴァイキングに殺害されヨーク市は占領、同年中にノーサンブリア王国南部はヴァイキングの支配下となった。十二世紀初頭の修道士・歴史家ダラムのシメオンによれば、このときエグバートという人物が傀儡のノーサンブリア王として立てられた(15Stevenson,Joseph. (1855). The Historical Works of Simeon of Durham. Church Historians of England, volume III, part II. p.489.)。

871年、アッシュダウンの戦いでウェセックス王アルフレッドに敗北した「大軍勢」は首領のハーフダンの指揮下で立て直しを図り、ノーサンブリアに戻って反乱を鎮圧、傀儡エグバートを追放し新たにリクシジ(Ricsige)という人物を王に立てた(16Stevenson,Joseph. (1855). The Historical Works of Simeon of Durham. Church Historians of England, volume III, part II. p.492.)。875年、ヨークへ戻ったハーフダンはピクト王国やストラスクライド王国との戦いを経て、876年、リクシジ王死後ノーサンブリア王を称するようになる。これによってヴァイキングのヨーク王国(ヨールヴィーク)が成立し、ノーサンブリア王国は滅亡した。

一方、北部に逃れたノーサンブリア人はバンバラに亡命政権を立てるがこの亡命政権については史料がほとんど無く詳細は不明で、927年、ウェセックス王アゼルスタンがヨーク王国(ヨールヴィーク)を滅ぼした際にその名が知られるに留まっている。927年7月12日、現在のカンブリア州ペンリス近郊にあったイーモント橋にアゼルスタン王、アルバ(スコットランド)王コンスタンティン2世、ストラスクライド王オワイン、デハイバース(ウェールズ)王ハウェル、バンバラの支配者エルドレッドら諸王侯が集まって講和会議が開かれ休戦とバンバラのエルドレッドがアゼルスタン王に臣従することなどが決められた。バンバラ領の臣従をもって全イングランドの統一が国際的に認められたアゼルスタン王は以後イングランド王を称し、イングランド王国が誕生する。なお、ノーサンブリア王国の滅亡を876年ではなくこのバンバラ政権がアゼルスタン王の支配下となった927年とする場合もある。

「バンバラ城」

「バンバラ城」
現在の遺構は十一世紀にノルマン人によって建てられたもの。六世紀半ばには城塞が存在していたが十世紀末にヴァイキングによって破壊された。
Credit:Sean Arble, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons

参考文献

脚注