エセルフリス(Æthelfrith)は六世紀後半、イングランド北東部にあったバーニシア王国の王(在位:593年頃-616/617年)。エアドフェレド(Eadfered)とも。ブリトン人からは「フレサウルス(”Flesaurs”ブリトン語で狡猾な、詐欺師などの意味)」の異名で呼ばれる(1伝ネンニウス著/瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、57頁)。非キリスト教の神を信仰していたという。周辺諸国との戦いで勢力を拡大し、604年、デイラ王国を征服、のちにノーサンブリア王国となる領域を初めて統一したが、616年または617年、デイラ王国の王子エドウィンを支援したイースト・アングリア王レドワルド率いるイースト・アングリア王国軍にアイドル川の戦いで敗れ戦死した。死後デイラ王エドウィンによってバーニシア王国は征服されたが、エドウィン王死後エセルフリスの王子たちが勢力を回復、第二子オスワルド王が両王国を征服し、第三子オスウィウ王が両王国を統合、ノーサンブリア王国が建国された。
生涯
バーニシア王国の勢力拡大
バーニシア王国は現在のスコットランド南東部からイングランド北東部、フォース川からティーズ川にかけての一帯に六世紀後半から登場したアングル人の王国である。ローマ軍撤退後、この地域にはゴドジン(Gododdin)王国、フレゲッド(リージッド”Rheged”)王国などのブリトン人王国が登場したが、入植してきたアングル人によって六世紀後半から七世紀始めにかけての時期にリンディスファーン島を中心としてバーニシア王国が成立したとみられている。「ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)」によればイーダ王がバーニシア王国の初代王となったという(2瀬谷幸男(2019)52頁)。
エセルフリスはイーダ王の子エセルリックの子でバーニシア王としては五代目にあたるとされるが、エセルフリス以前の諸王については事績や実在性は不確かである。「ブリトン人の歴史」によればエセルフリス王はバーニシア王として12年、デイラ王として12年の計24年統治したといい(3瀬谷幸男(2019)57-58頁)、亡くなった616年または617年のアイドル川の戦いから逆算して593年頃にバーニシア王に即位したとみられる。Henson(2008)は初期のバーニシア王家について再考し、イーダ王の即位は通説(4547年説と558年説がある)より遅く575年頃でイーダ王死後三人の子供たちが順に即位したのではなくバーニシア王国を三分割し、エセルフリスはそれぞれの王国を603年頃までに再統一したとした(5Henson, Donald.(2008).The early kings of Bernicia. Academia.Edu.)。
ベーダ「アングル人の教会史」によると、エセルフリス王は他のアングル人君主の誰よりも激烈にブリトン人勢力を壊滅させたとあり(6高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、66頁)、これはブリトン人のゴドジン王国の衰退を描いた「ア・ゴドジン(Y Gododdin)」にあるカトラエスの戦い(Battle of Catraeth,600年頃)のことであると考えられている。この戦いでブリトン人の戦士300人が壊滅したという。以後、ゴドジン王国はロージアン地方のエディンバラ周辺を残すのみとなり、638年、オスワルド王によって征服されたことで滅亡した。
603年頃、バーニシア王国の地盤を固めたエセルフリス王に対し、北西に位置するダルリアダ王国のアイダーン王(在位574-608年、ガブラーンの子アイダーン”Áedán mac Gabráin”)が強力な大軍を率いて戦いを挑んだ。デグサスタンの戦い(Battle of Degsastan)と呼ばれたこの戦いの戦地がどこであったかは定かではないが、バーニシア軍は王弟セオドバルドが戦死するなど大きな損害を受けつつもダルリアダ軍に勝利し、アイダーン王は少数の生き残った配下とともに敗走を余儀なくされた。ダルリアダ王国の最盛期を現出した王の失墜とその後の混乱によって同国は弱体化しピクト王国への従属の道を進むこととなる。
デイラ王国の征服
604年頃、エセルフリスはティーズ川を挟んで南部に位置するアングル人のデイラ王国を征服した。エセルフリスは590年以前にデイラ王エッレ(Ælle、またはエッラ”Ælla”)の娘アッカ(Acha)を王妃に迎えており以前から両王家の関係強化に努めていたとみられる。征服に至る経緯は不明だが、征服以前、エッレ王は亡くなりエセルリック(Æthelric)という人物がデイラ王として統治した後エセルフリスがデイラ王に就いた。「アングロ・サクソン年代記」は588年にエッレ王が亡くなり以後五年間エセルリック王が統治して593年にエセルフリスがノーサンブリア人の王国を継承したとする(7大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、32頁)。一方、「ブリトン人の歴史」やベーダの著作「アングル人の教会史」などは24年の統治期間中、デグサスタンの戦いが統治の11年目であるとしており、またベーダの「時間の計算について(ラテン語: De temporum ratione,英語: The Reckoning of Time)」(725年)では聖アウグスティヌスがケント王国に到着した597年当時、エッレ王は存命であったという。これら史料間の記述の矛盾があるため年代は議論があるが、「アングロ・サクソン年代記」の記述にあるデイラ王交代の年代は疑問視されており、エセルフリス王のデイラ王即位は604年または605年頃とみられている(8Nayland, Carla.”Origins of Northumbria: Dating Aethelferth’s annexation of Deira“)。
エセルフリス王によるデイラ王権の掌握にともない、エッレ王の子エドウィンとエドウィンの甥(エッレ王の孫)ヘレリック(Hereric)の二人の王族が国外に逃れた。ヘレリックはデイラ王国の西にあったブリトン人のエルメット王国に逃れたが亡命先で毒殺されたという(9高橋博(2008)233頁/ベーダはエルメット王国とは記しておらずブリトン人のケルティック王とだけあり、「ブリトン人の歴史」や「カンブリア年代記」などに同時代のエルメット王にケルディック王の名が確認できることからエルメット王国と考えられている)。これがエセルフリス王によるものかどうかは定かでない。一方、エドウィン王子は616年頃にイースト・アングリア王国に逃れるまで各地を放浪した。十二世紀以降の文献ではグウィネズ王国やマーシア王国などにいたという。
この後、何年におきたかは不明(10「アングル人の教会史」は603年、「アングロ・サクソン年代記」は607年、「ティゲルナハ年代記」は611年、「アルスター年代記」「カンブリア年代記」は613年など史料によってまちまちで613年から616年の間に起きたとするのが有力(Dawson, Edward.(2008).Æthelfrith’s Growing Fyrd.))だがエセルフリス王はウェールズ地方のポウィス王国とチェスター近郊で戦闘になりこれを撃破した(チェスターの戦い)。このとき、バンゴール修道院の聖職者たちが武器も持たず安全な場所から戦いを見守っていたが、エセルフリス王は『聖職者たちがわたしたちの意思に反して、彼ら自身の神に叫んでいるとしたら、たとえ武器を所持していなくても、邪悪な呪詛をもって襲おうとしているので、わたしたちに刃を向けていることになるではないか』と言い彼らの殺戮を命じ、1200人のうち生き残ったのは50人に過ぎなかったという(11高橋博(2008)77-78頁/なお、高橋はエゼルウルフ王としているがこれは誤訳とみられる。)。
アイドル川の戦いと死
エセルフリスの迫害から逃れ各地を放浪していたエドウィンは616年頃イースト・アングリア王国のレドワルド王(在位599頃–624頃)に保護を求めた。エドウィンがレドワルド王の下にいると知ったエセルフリス王は金銭を贈ってエドウィンの殺害を依頼するがレドワルド王はこれを拒否する。エセルフリス王は繰り返し使者を贈って報奨金の増額を提示するとともに、要請を拒否するならば一戦も辞さずと脅迫してきたため、恐れたレドワルド王はエドウィン殺害か引き渡しのいずれかを約束した。
しかし、王妃の諫言を聞いたレドワルド王は考えを改めてエセルフリス王と一戦することを決意、迅速に軍を招集して進撃を開始、虚を突かれたエセルフリスは十分に兵を集められないまま迎撃せざるを得ず、マーシアとノーサンブリアの境界となるイングランド中部ノッティンガムシャーを流れるアイドル川の東、現在レトフォード(Retford)と呼ばれる町の近郊で両軍が激突した。レドワルド王率いるイースト・アングリア軍は3つの部隊で構成され、そのうち一つはレドワルド王の王子レガンヘレ(Rægenhere)が指揮していた。対するエセルフリス王自ら率いる熟練兵で構成された少数精鋭のバーニシア軍はレガンヘレ部隊へ兵力を集中させて撃破、レガンヘレを戦死させるが、レドワルド王は動揺せず態勢を立て直してバーニシア軍を殲滅、エセルフリスは激しく勇戦するが自軍からはぐれ孤立したところを狙われて戦死、イースト・アングリア軍の勝利に終わった。 「アイドル川はイングランド人の血で染まった”the river Idle was stained with English blood”」と語り継がれるほどの激しい戦いとなった(12Henry of Huntingdon (1853). “The chronicle of Henry of Huntingdon”. Translated by Forrester, Thomas. Internet Archive.p.56.)。
レドワルド王の支援を受けたエドウィンはデイラ王国に帰国するやバーニシア王国を征服、エセルフリス王に変わってバーニシア王国とデイラ王国の両国を支配下に置いた。これによってエセルフリス王の子供たちは亡命を余儀なくされた。エセルフリス王には後にバーニシア王となるエアンフリス、バーニシアとデイラ王となりブレトワルダの一人に数えられるオスワルド、両王国を統一して初代ノーサンブリア王となるオスウィウ、他にオズウズ、オスラック、オスラフと女子エッベらがいる。
評価
ベーダは「アングル人の教会史」でエセルフリス王について以下のように評している。
『この頃ノーサンブリアを統治していたのは、エセルフリスと呼ばれる勇敢で栄誉を求めて熱心な王であった。彼はこれまでのどのイングランド人の首長よりも激烈にブリトン人を破滅させた。神の宗教について無知であったことを除けば、かつてのイスラエルの王サウルにも匹敵するほどであった。それというのも、彼ほど激烈に大勢の住人を駆逐してその根絶を図り、イングランド人の広大な土地を貢ぎ物として提供させたり、あるいはそこに居住地を造ったりした王や首長はいなかったからである。族長ヤコブがサウルの性格について「ベニヤミンは引き裂く狼、朝に獲物を喰らい、夕べにその略奪物を分けるであろう」と息子を祝福するときに述べたことばがまさにエセルフリスにあてはまるほどであった。』(13高橋博(2008)66-67頁)
エセルフリス王は、ウェールズ人がブリトン人の同胞の地として「古き北方(アル・ヘン・オグレッズ”Yr Hen Ogledd”14森野聡子(2019)『ウェールズ語原典訳マビノギオン』原書房、357頁)」と呼んだイングランド北部からスコットランド南部にかけての一帯からブリトン人勢力を駆逐し、土地を取り上げ、あるいは貢納を強制することで現在のバンバラやリンディスファーン周辺に限られていたバーニシア王国の領土を急拡大させ、デイラ王国を征服することで一つの統一権力を確立した。エセルフリス死後、後を継いだデイラ王エドウィンはエセルフリスを見習ってバーニシア王国を征服して統一権力を確立、エドウィンが亡くなるとエセルフリスの子供たちオスワルドとオスウィウも同様にバーニシアとデイラ両国の掌握に努め、ノーサンブリア王国が誕生する。エセルフリスの野心から始まるバーニシアとデイラの2つのアングル人王家の角逐の結果としてノーサンブリア王国という枠組みが生み出されることとなった(15チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、46-49頁)。
参考文献
- 青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社
- 大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社
- 高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫
- 森野聡子(2019)『ウェールズ語原典訳マビノギオン』原書房
- 伝ネンニウス著/瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社
- チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会
- Henry of Huntingdon (1853). “The chronicle of Henry of Huntingdon“. Translated by Forrester, Thomas. Internet Archive.
- Henson, Donald.(2008).The early kings of Bernicia. Academia.Edu.
- Hunt, William (1896). “Redwald” . Dictionary of National Biography. Vol. 47. London: Smith, Elder & Co.
- Nayland, Carla.”Origins of Northumbria: Dating Aethelferth’s annexation of Deira“
- Dawson, Edward.(2008).Æthelfrith’s Growing Fyrd.