アイドル川の戦い(616年)

スポンサーリンク

アイドル川の戦い(Battle of the River Idle)またはアイドル河畔の戦いは616年(または617年1Hunt, William (1896). “Redwald” . Dictionary of National Biography. Vol. 47. London: Smith, Elder & Co. p. 386によると4月11日、桜井俊彰(2010)『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語』吉川弘文館、74頁によると4月12日とされているが根拠資料等は不明なため脚注で言及するに留める。)、イングランド中部ノッティンガムシャーを流れるアイドル川の東側で、レドワルド王率いるイースト・アングリア王国軍とエセルフリス王率いるバーニシア王国が戦った戦い。バーニシア王エセルフリスが戦死し、イースト・アングリア軍が勝利した。この結果、レドワルド王は大きく名声を高めてブレトワルダとしてブリテン島に覇権を確立し、イースト・アングリア王国に亡命していたデイラ王国の王族エドウィンバーニシア王国デイラ王国を支配下に置き統一王権を確立、後のノーサンブリア王国へ発展する体制が誕生した。

スポンサーリンク

背景

「七世紀のノーサンブリア勢力図」

「七世紀のノーサンブリア勢力図」
credit: myself / CC BY-SA / wikimedia commonsより

「600年頃のブリテン島」

「600年頃のブリテン島」
credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

アングロ・サクソン人の移住が本格化した六世紀半ば、ハンバー川の北側に広がるノーサンブリア地方にはバンバラを中心とするバーニシア王国とヨークを中心とするデイラ王国の2つのアングロ・サクソン系王国が成立した。バーニシア王エセルフリス(Æthelfrith,在位593-616/617年)は非常に強力でブリトン人諸王国を相次いで滅ぼしてバーニシア王国の勢力を拡大、604年、ついにデイラ王国を征服した。殺害されたデイラ王エッレの王子エドウィンは辛うじて難を逃れ、各地を放浪の後、イースト・アングリア王国レドワルド王(在位599頃–624頃)に保護を求めた。

イースト・アングリア王国(Kingdom of East Anglia)はブリテン島東部、現在のノーフォーク州とサフォーク州を併せた領域に六世紀から登場したアングル人の王国である。初期の歴史は不明だが五代目とされるレドワルド王の時代、フランク王国との親密な関係から大陸との交易で繁栄した隣国ケント王国エゼルベルフト王(在位580頃-616年)に臣従していた。しかし、616年、ブレトワルダとして覇権を確立していたエゼルベルフト王が亡くなったことで、引き続きケント王国の従属国であり続けるか否か、決断の時が来ていた。

アイドル川の戦い

八世紀前半のノーサンブリア王国の聖職者ベーダの著作「アングル人の教会史」(731年)によると、エドウィンレドワルド王の下にいると知ったエセルフリス王は金銭を贈ってエドウィンの殺害を依頼するがレドワルド王はこれを拒否する。エセルフリス王は繰り返し使者を贈って報奨金の増額を提示するとともに、要請を拒否するならば一戦も辞さずと脅迫してきたため、恐れたレドワルド王はエドウィン殺害か引き渡しのいずれかを約束してしまう。これをレドワルド王の従士である親しい友人から聞いたエドウィンは、レドワルド王の恩義を理由に友人からの逃亡の薦めを固辞したものの苦悩していた。この名前が知れないエドウィンの友人はレドワルド王の意向を王妃に伝え、これ聞いた王妃はレドワルド王を説得する。

「王妃は最良の友人が苦境にあるそのときに、金銭で売り、あらゆる財宝よりも尊い名誉を貪欲と金銭欲のために犠牲にすることは、かくも高貴で、かくも卓越した王にふさわしいことではありませんと戒め、王の邪な目的を撤回させたのです。」(2高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、97頁

616年または617年、エセルフリス王の使者が帰国するや否や、レドワルド王は迅速に軍を招集して進撃を開始、虚を突かれたエセルフリスは十分に兵を集められないまま迎撃せざるを得ず、マーシアとノーサンブリアの境界となるイングランド中部ノッティンガムシャーを流れるアイドル川の東、現在レトフォード(Retford)と呼ばれる町の近郊で両軍が激突した。十二世紀の歴史家ハンティンドンのヘンリによると(3Henry of Huntingdon (1853). “The chronicle of Henry of Huntingdon”. Translated by Forrester, Thomas. Internet Archive.p.56.)レドワルド王率いるイースト・アングリア軍は3つの部隊で構成され、そのうち一つはレドワルド王の王子レガンヘレ(Rægenhere)が指揮していた。対するエセルフリス王自ら率いる熟練兵で構成された少数精鋭のバーニシア軍はレガンヘレ部隊へ兵力を集中させて撃破、レガンヘレを戦死させるが、レドワルド王は動揺せず態勢を立て直してバーニシア軍を殲滅、エセルフリスは激しく勇戦するが自軍からはぐれ孤立したところを狙われて戦死、イースト・アングリア軍の勝利に終わった。 「アイドル川はイングランド人の血で染まった”the river Idle was stained with English blood”」と語り継がれるほどの激しい戦いとなった。

アイドル川

アイドル川
Credit: OpenStreetMap contributorsOpenStreetMap contributors, CC BY-SA 2.0 , via Wikimedia Commons

影響

この戦いの勝利の結果、レドワルド王は大きく名声を高め、イースト・アングリア王国ケント王国の従属国の立場から自立、ブレトワルダとしてブリテン島に覇権を確立した。レドワルド王の墓と言われるサットン・フーの船葬墓は金で装飾された剣や盾、銀をはめ込んだフルフェイスの兜といった副葬品など多数の出土品で知られ、七王国時代屈指の豪華さからレドワルド王の勢威が伺われる。

引き続きレドワルド王の支援を受けたエドウィンはデイラとバーニシア両王国を支配下に置いた。エドウィン王(在位616/617-633年)はキリスト教へ改宗しケント王国から王妃を迎えるなど権威の確立に務め、レドワルド王死後、ブレトワルダとしてブリテン島全土に覇権を確立した。以後、バーニシア王家とデイラ王家の間でノーサンブリアの支配権が争われつつ、654年にオスウィ王の下でノーサンブリア王国として統一され七王国時代屈指の強国となった。

アイドル川の戦いは、イースト・アングリア王国ノーサンブリア王国という七王国時代を代表する2つの大国が台頭する契機となった戦いであり、やがてノーサンブリア王国に対抗してイングランド中部にマーシア王国が誕生し、マーシア王国に対抗するためノーサンブリア王国の支援を受けてイングランド南西部にウェセックス王国が台頭することとなる。群雄割拠の七王国時代を形成する画期となった戦いであった。

参考文献

脚注

  • 1
    Hunt, William (1896). “Redwald” . Dictionary of National Biography. Vol. 47. London: Smith, Elder & Co. p. 386によると4月11日、桜井俊彰(2010)『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語』吉川弘文館、74頁によると4月12日とされているが根拠資料等は不明なため脚注で言及するに留める。
  • 2
    高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、97頁
  • 3
    Henry of Huntingdon (1853). “The chronicle of Henry of Huntingdon”. Translated by Forrester, Thomas. Internet Archive.p.56.