マーシア王国(Kingdom of Mercia)は七王国時代、イングランド中央部、現在のミドランズ地方に存在したアングル人の王国。首都はタムワース。王家の系譜は六世紀初め頃から始まるが成立初期の歴史は定かではなく、七世紀前半、ペンダ王時代に台頭してノーサンブリア王国を始めとする諸国と争い、八世紀に入るとブリテン島南部諸国を次々と服属させ、オファ王の時代に後のイングランドにあたる領域すべての諸王国に対し覇権を確立、事実上、初のイングランド統一王権を樹立した。オファ王死後、ウェセックス王エグバートの反撃で勢力を大きく衰退させ、877年、東部をデーン人に占領され、883年頃からアルフレッド大王支配下のウェセックス王国に臣従、918年、ウェセックス王エドワード古王によってウェセックス王国に併合された。イングランドとウェールズ地方の境界に残る「オファの防塁」はマーシア王国が築いた大規模軍事遺跡である。
歴史
初期の歴史
マーシア(Mercia)は古英語で「辺境の人びと」「国境の民」を意味する「ミェルチェ(Merce)」に由来していることから、アングロ・サクソン人とブリトン人の境界に位置する人々あるいはノーサンブリアとサウサンブリアの境界に位置する人々を指したと考えられ(1青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社98-99頁)、これらの地域のどこかで成立したとみられている。七世紀半ばから八世紀半ば頃に作成された諸部族の配置と広さが記された行政文書「トライバル・ハイデジ(Tribal Hidage)」(2「トライバル・ハイデジ(Tribal Hidage)」は『マーシア王が自国と宗主権下の諸国に、貢税のみならず軍役、築城、架橋などの軍事的負担(「トゥリノダ・ネケシタス」)の公的な賦課を意図して、徴税、賦課の単位たるハイド数をそれぞれに割り当て明記した文書』(青山吉信(1991)101頁))からは初期のマーシア王国の領土が現在のイースト・ミドランズ地方からウェスト・ミドランズ地方北部・東部にかけて広がっていることがわかっている。
史料で言及される初めてのマーシア王はクレオダ王(Creoda,在位?-593年)だが、伝承では彼の曽祖父イーチェル(Icel)が最初のマーシア王であるという。イーチェル王は北欧神話の主神ウォーデン(オーディン)の末裔とされ、ベーオウルフ伝承にも登場する伝説のアングル王エオメルの子であるといい、マーシア王家はイーチェルの名を取ってイクリンガス(Iclingas)と呼ばれた。このことからマーシア王家の直系の王統はイクリンガス朝(六世紀-796年)と呼ばれる。
ペンダ王の台頭
七世紀半ば、マーシア王国はペンダ王(Penda,在位626年頃または633年頃-655年)の治世下でイングランド中部・南部に支配的な地位を築いてブリテン島屈指の勢力に急成長する。633年、ペンダ王はグウィネズ王カドワソンと同盟を結びハットフィールド・チェイスの戦いでノーサンブリアのエドウィン王を戦死させた。633年または634年、ノーサンブリアに侵攻した同盟者のグウィネズ王カドワソンがヘヴンフィールドの戦いでノーサンブリアのオスワルド王に破れて戦死した後、ペンダ王は、636年頃から640年頃の間でイースト・アングリア王国へ侵攻してエグリック王と前王シグベルフトを殺害して後顧の憂いを絶ち、642年、マーサフェルスの戦いでオスワルド王と戦って勝利、オスワルド王を殺害した。ブレトワルダ二人を相次いで滅ぼすなど彼の勢威は益々盛んとなり、ベーダ「アングル人の教会史」も「アングロ・サクソン年代記」も彼をブレトワルダとしていないが、事実上イングランドに覇権を築いた。655年、勢力を盛り返したバーニシア王オスウィウに対しペンダ王は周辺諸国からも軍を動員し30人もの将軍を引き連れ大軍勢でバーニシア王国へ侵攻する。ベーダが記録するところによると、オスウィウ王は「ペンダがその軍勢とともに帰国し、オスウィウの国の領土を根絶するほどの破壊をおこなわないことを条件に、講和の代償として想像以上に膨大な大量の財産や贈り物を提供することを約束」(3高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫、165頁)したが、ペンダ王はこれを拒否して侵攻を止めなかったため、追い詰められたオスウィウ王からウィンウェド川で奇襲を受け、激しい戦いを経てマーシア軍はペンダ王自身を初め30人の将軍ことごとく戦死する大敗を喫した。
衰退から再興へ
ペンダ王の大敗でマーシア王国の支配は一時崩壊、オスウィウ王がマーシア王国を支配下に置いたが、658年マーシアで反乱が勃発してノーサンブリア王国によるマーシアの支配も崩れ、ペンダ王の子ウルフヘレ(Wulfhere,在位658-675年)が即位した。ウルフヘレ王は即位とともにキリスト教に改宗、マーシア王国は七王国時代最後の非キリスト教国だったことから、これによりブリテン島全体がキリスト教化することとなった。675年、ウルフヘレ王はノーサンブリア王国と戦って戦死するなど、ペンダ王死後、軍事的にはノーサンブリア王国の優勢は揺るがず、七世紀後半、マーシア王国は衰退していった。
八世紀になると再びマーシア王国は勢威を取り戻す。再興の立役者となったのがエゼルバルド王(Æthelbald,在位716-757年)である。即位当時、ウェセックス王イネ(在位688-726年)など南部諸国は強い王が健在だったが、ベーダ「「アングル人の教会史」によれば東サクソン人諸国と西サクソン人諸国および「ハンバー川流域までのそのほかの南部諸国は、各自の王と一緒にマーシア王エゼルバルドに服属した」(4高橋(2008)318頁)という。「アングロ・サクソン年代記」によれば733年、エゼルバルドはウェセックス王国領サマートンに遠征し、740年にもウェセックス王国とマーシア王国の間で戦争となったという。736年の勅許状(Charter)にはエゼルバルドをマーシアおよび南アングルの王とし、さらにブリテン王とも称しており(5The Ismere Diploma (London, British Library, Cotton Augustus ii. 3), Early-Medieval-England.net.S 89.)、ブレトワルダ的な上級支配権をブリテン島南部の広い範囲に行使していたとみられる。
オファ王による覇権
757年、エゼルバルド王が暗殺され、その後の内紛に勝利したオファ王(在位757-796年)の治世下でマーシア王国は最盛期を迎える。即位直後、リンジー、ウィッチェ両王国を併合、771年サセックス王国へ侵攻して併合、764年から攻略を続けていたケント王国も785年、ついに屈服させ宗主権下におき、同時期にエセックス王国も支配下とした。また、779年、ウェセックス王キネウルフを撃破、794年にはイースト・アングリア王エセルベルフト2世王の斬首を命じて同王家を一時断絶させ、ウェセックス王家・ノーサンブリア王家とは婚姻関係を結ぶことで影響力を強めるなど、諸国に君臨した。
またオファ王はウェールズ地方のブリトン人諸国との間に784年から796年にかけて約132キロメートルにおよぶ、ハドリアヌスの長城とも比肩する「オファの防塁」を築いたとされるが、近年の研究ではオファ王一代のものではなくマーシア王国歴代の事業であったとみられている(6永井一郎「オファの防塁――ウェールズ・イングランド国境」(吉賀憲夫(2019)『ウェールズを知るための60章』明石書店、エリア・スタディーズ、66-70頁))。九世紀後半、アルフレッド大王に仕え、『アルフレッド王の生涯』を著したアッサーは『彼はウェイルズとマーシャの間を海から海へ及ぶ大規模な土防壁を造らせた』(7アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、71頁)とその壮大さを語っている。
イングランドにあたる地域を事実上勢力下に置いたオファ王の治世下でイングランドは統一王権への道を歩み始める。これまでの王権が戦士の第一人者的地位であったのに対し、統治王権としての性格を強めていた。八世紀のマーシア王国では前述の「トライバル・ハイデジ」のような領土と租税に関わる文書の他、多くの勅許状(Charter)が出されるなど様々な行政文書が作成され、現存していないがオファ王は法典を編纂もしており、エゼルバルド王からオファ王の治世下にかけて行政機構が整えられた。また、オファ王は多くの貨幣を鋳造し、貨幣制度改革を行って商業を活性化した。また、治世の最晩年にあたる796年のものとしてフランク王国のカール大帝と通商協定を結ぶ文書(8にシャルルマーニュからオファ王への書簡の文面が紹介されている。『あなたが心配する商人の安全については、彼らはわが王国において保護されることを保障します。もしあなたの国の商人がわが国において不当な扱いを受けるなら、彼らは我々に訴えることを許されます。同様に、わが商人は貴国において公正な判断を求めることを要求します。』(桜井俊彰(2010)『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語』吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、145-146頁))が残るように、フランク王国との関係を強化して対等な外交を行うなど様々な成果を残している。
衰退から滅亡へ
796年7月29日、オファ王が病死し嫡男エッジフリスが即位するが同年中に早逝したため、イクリンガス家直系が絶え王家の傍流からコエンウルフ王(Coenwulf,在位796-821年)が即位した。802年、ウェセックス王国でもオファ王の娘婿だったベオルフトリク王が亡くなると、オファ王によって命を狙われてフランク王国へ亡命していたエグバートが帰国して即位する。825年、エレンダンの戦いでエグバート王率いるウェセックス王国軍にマーシア王ベオルンウルフ(Beornwulf,在位823-826年)率いるマーシア王国軍が大敗、エセックス、サリー、サセックス、ケントなどイングランド南部諸国はウェセックス王国の支配下となり、829年、一時マーシア王国もエグバート王に征服される。翌830年にマーシア王ウィラフ(Wiglaf,在位827–829年/830-839年)が復権するが、以後ウェセックス王国の優位は揺るがないものとなる。868年から本格化したヴァイキングの侵攻によって、877年、マーシア東部がデーン人の支配下となり、879年、ウェセックス王アルフレッドとデーン人指導者ガスルムの間で結ばれた和平条約でマーシア王国東部を含む広い領域がデーンローに統合され、マーシア王国はさらに弱体化した。マーシア王エゼルレッド2世(Æthelred II,在位881年頃-911年)は、883年頃、ウェセックス王アルフレッドの娘エセルフレドを妻に迎え、ウェセックス王国へ臣従することを選んだ。以後マーシアのエアルドールマン(太守あるいは伯)と呼ばれる。エゼルレッドはアルフレッド大王と後継者のエドワード古王に忠実に尽くして信頼を得たが、902年頃から病に臥せるようになり、エセルフレドが事実上の統治者となる。死後マーシアは妻エセルフレドが継ぎ、娘のエルフウィンの短い統治を経て、918年、ウェセックス王国に併合されマーシア王国の歴史は終焉を迎えた。
参考文献
- 青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社
- 大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社
- 桜井俊彰(2010)『イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語』吉川弘文館、歴史文化ライブラリー
- 高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫
- 吉賀憲夫(2019)『ウェールズを知るための60章』明石書店、エリア・スタディーズ
- アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫
- チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会
- デイヴィス、ウェンディ(2015)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(3) ヴァイキングからノルマン人へ』慶應義塾大学出版会
- Johnson,Ben.Kings and Queens of Mercia, 515 – 918 AD.Historic UK
- The Ismere Diploma (London, British Library, Cotton Augustus ii. 3), Early-Medieval-England.net.S 89.
- Mercia | historical kingdom, England | Britannica