カラタクス(Caratacus)はカトゥウェッラウニ族のクノベリヌス王の子で最後のカトゥウェッラウニ王。西暦43年のローマ帝国軍によるブリテン島侵攻に抵抗し、属州成立後もゲリラ戦を展開して対抗したが、西暦51年、ローマ軍との決戦に敗れ、ブリガンテス族の女王カルティマンドゥアによりローマへ送致された。
前史
ガリア戦争の過程でユリウス・カエサルはブリテン島からガリア人を支援する動きがあることを把握した。これを断つため紀元前55年と54年の二度に渡ってブリテン島へ侵攻、ブリトン人指導者カッシウェッラウヌスを下した(ユリウス・カエサルのブリタニア侵攻)。カエサルはブリトン人への勝利だけに留め、ブリテン島にローマ軍の拠点を築いたり、さらなる征服に乗り出すことはなかったが、このカエサルの遠征を契機としてブリテン島と大陸の関係は深化することになった。トリノウァンテス族やアトレバテス族などの親ローマ派部族が生まれ、ブリトン人部族国家の勢力関係が大陸の情勢とリンクして動くようになった。
このような中でブリテン島南部に台頭したのがカエサルと戦い敗れたカッシウェッラウヌスの勢力の後継とみられ、現在のハートフォードシャー州周辺のテムズ川以北地域を勢力下としたカトゥウェッラウニ族である。紀元前20年頃にウェルラミオンで貨幣を発行したタスキオウァヌス王が確認できる最も古いカトゥウェッラウニ族の指導者で、紀元前15年頃、タスキオウァヌス王は一時トリノウァンテス族の首邑であったカムロドゥノンを占領するなどブリテン島南部で勢力を拡大した。
西暦9年頃、タスキオウァヌス王の後を継いだクノベリヌス王は改めてトリノウァンテス族を征服してカムロドゥノンへ都を移し、アトレバテス族、ドブンニ族やカンティアキ(現在のケント地方)を勢力下に置き、自身の子アドミニウスをカンティアキの王に据えるなど西暦9年頃から40年頃まで約30年に及ぶ長い治世の間にブリテン島南東部にかけての広い一帯に支配を広げた。歴史家スエトニウスはクノベリヌス王を「ブリトン人の王」と呼んだ(1Suetonius, Lives of the Twelve Caesars: Caligula 44-2)。
生涯
ローマ侵攻以前
カラタクスはクノベリヌス王の三人の息子の一人で、長兄アドミニウス、次兄トゴドゥムスに続く末子とみられ、若くからクノベリヌス王の兄弟エパティクスの下に付き父王の勢力拡大に貢献した。西暦35年頃、叔父エパティクスが亡くなるとカラタクスはその支配地域となる旧アトレバテス族の領土を受け継いだ(2Penman, Giles (2021). “The Catuvellauni before Rome“. University of Warwick.)。
クノベリヌス王は最晩年の西暦40年頃、突如息子アドミニウスを追放する。ブリテンを追われたアドミニウスはローマ帝国のカリグラ帝を頼り、アドミニウスの請願を受けてカリグラ帝もブリトン侵攻の準備を命じたが実施に至らなかった。西暦40年頃、クノベリヌス王が亡くなり息子のトゴドゥムスが王位を継ぎ、カラタクスはアトレバテス族の再征服を実施する(3Penman(2021))。
41~42年頃、アトレバテス族はみずからの王ウェリカ(あるいはベリコス)を追放、ウェリカ王はローマへ逃れてクラウディウス帝に助けを求めた。ちょうど即位間もない新皇帝クラウディウスにとって、カエサルも成し得なかったブリテン島征服は自身の権威を引き上げるまたとない好機だった。この救援の求めに応え、クラウディウス帝はパンノニア総督アウルス・プラウティウスを総司令官として後に皇帝となるフラウィウス・ウェスパシアヌス率いる第二軍団アウグスタ、第九軍団ヒスパナ、第十四軍団ゲミナ、第二十軍団ウァレリア・ウィクトリクスの四個軍団と補助軍計四万名からなる遠征軍を編成、ブリテン島への侵攻を命じた。
対ローマ戦争
西暦43年、ケント州沿岸地域へ続々と上陸するローマ帝国軍は現在のカンタベリ近辺で軍を集結させ征服に取り掛かった。トゴドゥムス王とカラタクスの兄弟が率いるブリトン人連合軍が迎え撃ち、メドウェイ河畔で両軍主力が激突、一日目にフラウィウス・ウェスパシアヌスの兄ティトゥス・フラウィウス・サビヌス指揮下で渡河するが勝敗がつかず、二日目にグナエウス・ホシディウス・ゲタ率いる補助軍が渡河に成功、ローマ軍がブリトン軍を撃破した。続く、テムズ川の攻防戦ではブリトン軍がローマ軍を湿地帯に誘い込んで損害を与えたものの、ローマ軍の勝利に終わり、この戦いの後トゴドゥムスが亡くなりカラタクスが王位を継いだとみられる。
テムズ川渡河後、カラタクス王率いるブリトン軍はゲリラ戦を展開してローマ軍の侵攻を妨害、ローマ軍は侵攻を一時停止し、クラウディウス帝に増援を求めた。報告を受けたクラウディウス帝は自ら戦象部隊を率いて親征、クラウディウス帝の到着後間もなく、カトゥウェッラウニ族の首邑カムロドゥノン(現在のコルチェスター)を陥落させた。カムロドゥノンに入城したクラウディウス帝は、11人のブリトン人部族の王たちの降伏を受け入れ、アウルス・プラウティウスを属州ブリタニア初代総督に任命して後事を託した。
テムズ川でカムロドゥノン陥落を知ったカラタクス王はウェールズ地方へ逃れてウェールズ地方南部のシルレス族、同中央部のオルドウィケス族の協力で立て直しを図り、征服戦争を継続するローマ軍に対し西暦50年頃まで各地でゲリラ戦を展開、激しく抵抗した。
新総督アウルス・プラウティウス時代にエクセターとロクセターを拠点として現在のウェールズ地方に迫るイングランド南西部まで征服、北はハンバー川以南を勢力下に治めた。また、カトゥウェッラウニ族のカラタクス王の兄で父王クノベリヌスの不興を買ってローマへ亡命していた王子アドミニウスをケントのカンティアキ族の王とし、サフォークとウェスト・サセックスのレグネンセス族(レグニ族)の王コギドゥブヌス、ノーフォークのイケニ族の王プラスダクス、北イングランドのブリガンテス族の女王カルティマンドゥアらの王権を保障して属州支配を支える被護王国(Client Kingdom)体制が確立される。
西暦47年、アウルス・プラウティウスに代わって属州ブリタニア総督となったプブリウス・オストリウス・スカプラはさらなる属州領土の拡大を進め、ウェールズ地方へ進出を開始し、48年にはウェールズ地方北部デケアングリ族に対する軍事行動を展開するがブリガンテス族で起きた反乱の鎮圧に転進、改めて属州および被護王国の反乱に備えてカムロドゥヌム(旧カムロドゥノン)を退役兵のための植民市に転換するなど属州の軍事組織を再編、カラタクスの後背を扼すためにウェールズ北部への進出を進めつつ、この頃までにシルレス族とオルドウィケス族を中核として反ローマ派ブリトン人を糾合したカラタクス討伐に向けた準備が進められた。
カラタクス最後の戦い
西暦50年、オストリウス・スカプラはローマ軍を率いてシルレス族の領土へ攻勢をかけるが、カラタクスは巧みな戦略でローマ軍をオルドウィケス領内の山岳地帯におびきよせた。
「この時は、兵力で劣っても、戦略と複雑な地形の知識とでたち優り、戦争をオルドウィケス族の領地に移す。そしてローマの平和を恐れていた部族を味方につけ、いよいよ最後の運命をためそうとした。戦場として択んだのは、入口や逃口などすべての点で、わが軍(引用者注:ローマ軍)に不利で敵(引用者注:カラタクス軍)に有利となるような場所である。一方の側には峻々たる山岳と、楽に接近できそうな山腹には、城壁のように石を築き上げた。前面には、深浅の変化の多い川が流れていた。武装した大軍が、堡塁に沿って配置される。」(タキトゥス『年代記』12巻33(4タキトゥス/國原吉之助訳(1981)『年代記(下) ティベリウス帝からネロ帝へ』岩波書店、82頁))
戦地がどこであったかは定かではないが、シュロップシャー州のカエル・カラドクの丘にある鉄器時代のヒルフォートの遺構は伝統的にこの戦いの戦地と信じられていた。後世カラタクスと同一視されたウェールズ伝承上の英雄カラドクの逸話が残り、カラタクスの洞窟という名前の洞窟も存在するが、地形がタキトゥスの描写に該当しない点が多く、伝承以上のものではない(5Historic England. “Caer Caradoc large multivallate hillfort, associated causeway and Caractacus’ Cave on the summit of Caer Caradoc Hill (1010723)“. National Heritage List for England./Byles, Alex.” The legend of Caractacus“. Ancient Worlds, Gadfael.
)。
カラタクスや各部族を率いる族長たちの鼓舞によってブリトン軍の士気が大いに上がり、その様子にローマ軍は怯んだが、オストリウス・スカプラはあらかじめ調べておいた地形を把握して部隊を率いて渡河に成功する。ローマ軍が堡塁まで迫るとブリトン軍による投射兵器を使った集中攻撃でローマ軍に大きな損害が出る。部隊を立て直しつつ亀甲隊形をとったローマ軍の攻撃で石壁が崩されて白兵戦に突入してからは徐々にローマ軍が優勢となり、ブリトン軍は山頂まで防衛線を後退させるが、ローマ軍の軽装歩兵と重装歩兵が追撃、密集陣形でブリトン軍を撃破し、勝敗が決した。
カラタクスの妻子兄弟ら家族もローマ軍に捕らえられるが、カラタクス自身は戦場からの離脱に成功、イングランド北部のブリトン人最大の勢力ブリガンテス族の領土へと落ち延びた。カラタクスはブリガンテス族の女王カルティマンドゥアに助けを求めたが、カルティマンドゥア女王はカラタクスを捕らえるとローマ軍へ引き渡し、カラタクスはローマへ送致された。
虜囚として
クラウディウス帝は民衆を集めて凱旋式を挙行、全ての戦利品を並べ、ブリトン人捕虜らを行進させてブリトン人に対する勝利を誇示した。ブリトン人捕虜らの行進に続いてカラタクスと妻子兄弟が呼ばれ、クラウディウス帝の前につれてこられる。他の者達が自らの助命を懇願する中、カラタクスは堂々とした態度で演説したという。この様子はタキトゥスとカッシウス・ディオがそれぞれ伝えている。
タキトゥスが記すところによれば、カラタクスは以下のように演説したという。
「もし私が全盛時代に、私の高貴な生れと地位に適しい謙譲さを持っていたら、この都に捕虜ではなく、友人として訪れていたろう。あなたも軽蔑せずに、この輝かしい祖先の後裔を、多くの部族の覇者を、平和の同盟者として、迎えていたろう。ただいまの私の運命は、私にとって惨めであるだけに、あなたには誇らしい。かつては馬も兵も武器も富も持っていた。これらをみんな失って残念がっているとしても、なんの不思議があろう。なるほどあなた方は、全世界の統治を欲している。だからと言って、全世界が隷属を甘受するだろうか。もし私が他愛なく降伏して、ここに連れてこられていたら、私の運命もあなたの光栄も、これほど有名にはならなかったろう。これすら、私を殺すと、たちまち忘れられてしまうだろう。だがもし、私の命を保護してくれるなら、私はあなたの慈悲心の永久の証となるだろう。」(タキトゥス『年代記』12巻37(6タキトゥス/國原吉之助訳(1981)『年代記(下) ティベリウス帝からネロ帝へ』岩波書店、84-85頁))
また、カッシウス・ディオによれば、カラタクスは解放後にローマ市を見て回り、市街の繁栄を見てこう言ったという。
「これほど多くの富があるにもかかわらず、なぜ私たちの粗末な小屋まで欲しがるというのか」(カッシウス・ディオ『ローマ史』61巻33-3(7Dio Cassius, Historia Romana 61:33-3c/訳文はポター、ティモシー・ウィリアム「第一章 ブリテン島の変容――カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、43頁))
クラウディウス帝によって赦免されたカラタクスはローマ市内で住居を与えられ、再びブリテン島へ戻ることはなくローマで生涯を終えた。
参考文献
- 南川高志(2015)『海のかなたのローマ帝国 古代ローマとブリテン島 増補新版』岩波書店、世界歴史選書
- サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会
- ロジャーズ、ナイジェル(2013)『ローマ帝国大図鑑』ガイアブックス
- タキトゥス/國原吉之助訳(1981)『年代記(下) ティベリウス帝からネロ帝へ』岩波書店、岩波文庫
- Brain, Jessica. Caratacus. Historic UK.
- Byles, Alex.” The legend of Caractacus“. Ancient Worlds, Gadfael.
- Dio Cassius, Historia Romana.LacusCurtius.
- Penman, Giles (2021). “The Catuvellauni before Rome“. University of Warwick.
- Historic England. “Caer Caradoc large multivallate hillfort, associated causeway and Caractacus’ Cave on the summit of Caer Caradoc Hill (1010723)“. National Heritage List for England.
- Suetonius, The Lives of the Twelve Caesars. LacusCurtius