ゲルマン部族法典(または初期ゲルマン法”Early Germanic Law”)は五世紀から九世紀にかけてヨーロッパのゲルマン諸国家で制定されたゲルマン人の固有法群の総称。諸部族の慣習法を元にローマ法の影響を受けて編纂された。西ゴート王アラリック2世によって編纂された『アラリックの抄典(Breviarium Alarici)』や、フランク王クローヴィス1世によって編纂された『サリカ法典(Lex Salica)』などが代表例で、十一世紀にあらためてローマ法が継受されるまで卑俗ローマ法とともにヨーロッパにおける主要法源として効果を持った。
ゲルマン部族法典と卑俗ローマ法
476年、西ローマ帝国最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスが追放され、ゲルマン諸部族は支配体制が崩壊した旧西ローマ帝国領土に次々とゲルマン人国家を建国した。
しかし、彼らはローマ帝国から完全に独立した王国を築いたわけではなく、残った東ローマ皇帝を宗主と仰ぎ、あるいは同盟者として振舞った。ロムルス・アウグストゥルスを追放したオドアケルは東ローマ皇帝によってパトリキウス、ついでコンスルに任命され、ブルグント王グンドバットはガリア総督、東ゴート王テオドリック大王もコンスルに任命され、フランク王クローヴィス1世も西ゴート王アラリックを倒した後東ローマ皇帝からコンスルに任命されている。
ゆえに彼らは王国を統治するにあたってもローマ帝国時代からのローマ法を踏まえた統治体制を築こうと努力している。当時のゲルマン諸王に大きな影響を与えた法典として、437年、東ローマ皇帝テオドシウス2世によって編纂され439年に西ローマ帝国でも発効した「テオドシウス法典」がある。ゲルマン諸国家のローマ人に対しては「テオドシウス法典」に基づくローマ法が引き続き効力を持ったが、ゲルマン人たちに対してはローマ法ではなく部族法をラテン語で成文化して運用することにしたのである。
ゲルマン人たちが独自の部族法にこだわった理由としてシュルツェ(1997)は『法(leges)は部族概念の標識のひとつである。独自の部族法の所有は、ゲルマン諸部族の部族意識や自尊心にとって大きな意味をもっていた。』(1シュルツェ、ハンス・クルト(1997)『西欧中世史事典―国制と社会組織 (MINERVA西洋史ライブラリー)』ミネルヴァ書房、12頁)とする。その上で、ザクセン人がランゴバルド人と対立してランゴバルド人から離反した例から『自己の法の放棄を強制されたことを明らかに彼らの部族の自立性に対する攻撃と考えたのである』(2シュルツェ(1997)12頁)という。
五世紀末から七世紀頃にかけて多くの部族法典が編纂され、また部族国家内で適用されるローマ法についてもまとめられたが、これらの部族国家によってまとめられたローマ法は『簡素で限定的なもので、内容的にも古典期ローマ法の高度な技術性と精緻さを備えず、独自の解釈や変更を加えられたので、一般に「卑俗ローマ法」と呼ばれる。また、この現象をローマ法の卑俗化という。』(3勝田有恒,森征一,山内進 編著(2004)『概説西洋法制史』ミネルヴァ書房、57頁)
六世紀に東ローマ帝国で編纂されたユスティニアヌス法典が十一世紀末以降にあらためて西ヨーロッパ世界に入るまでこれら部族法典と卑俗ローマ法が主要法源として効果を持った。
ゲルマン部族法典の一覧
成立年 | 法典名 | 編纂者 |
---|---|---|
475年頃 | エウリック王の法典 (codex Euricianus) |
西ゴート王国 エウリック王 |
500年頃 | テオドリック王の告示法典 (Edictum Theodorici) |
東ゴート王国 テオドリック王 |
500年頃 | ブルグントのローマ法典 (Lex Romana Burgundionum) |
ブルグント王国 グンドバット王 |
506年 | 西ゴートのローマ法典 (Lex Romana Visigothorum) アラリックの抄典 (Breviarium Alarici) |
西ゴート王国 アラリック2世 |
507~511年 | サリカ法典 (Lex Salica) |
フランク王国 クローヴィス1世 |
516年以後 | ブルグント法典 (Lex Burgundionum) |
ブルグント王国 グンドバット王 |
600年頃 | エセルベルフト法典 (Law of Athelberht) |
ケント王国 エセルベルフト王 |
643年 | ロータリ王の告示 (Edictum Rothari) |
ランゴバルド王国 ロータリ王 |
654年 | レッケスヴィント王の西ゴート法典 (Lex Visigothorum) |
西ゴート王国 レッケスヴィント王 |
688~694年 | イネ王法典 (Laws of Ine) |
ウェセックス王国 イネ王 |
七世紀前半 | リブアリア法典 (Lex Ribuaria) |
ケルン地方のフランク人 |
712~720年 | アレマンネン法典 | アレマン人 アレマンネン大公ラントフリート |
741~743年 | バイエルン部族法典 (Lex Baiwariorum) |
バイエルン族 |
802年 | ザクセン法典 | ザクセン族 |
802年 | カマヴィ法典 | フランク・カマヴィ族 |
802年 | テューリンガ法典 | テューリンゲン族 (アンゲル族・ヴァルネ族) |
802年 | フリーゼン法典 | フリースラント人 |
これら部族法典の中で特に重要なのが西ゴート王アラリック2世によって編纂され、のちに『アラリックの抄典(Breviarium Alarici)』と呼ばれる『西ゴートのローマ法典(Lex Romana Visigothorum)』と、フランク王クローヴィス1世によって編纂された『サリカ法典(Lex Salica)』である。『アラリックの抄典(” Breviarium Alarici)』はテオドシウス法典を含むローマ法典で、イタリアを除く全ヨーロッパで十二世紀までローマ法の主要な法源として機能した。また、『サリカ法典(Lex Salica ”)』はフランク王国内のフランク族に適用された部族法典で、後にドイツ、フランスなどフランク王国の後継国家へ継承され、十四世紀前半、百年戦争勃発時にイングランド王のフランス王位請求を退けるため女系継承を否定した同法典が活用された。
エセルベルフト法典、イネ王法典は後にアルフレッド大王によって編纂されたアルフレッド法典(880-890頃)へ継承される。また、リブアリア法典、アレマンネン法典以下八~九世紀の法典はフランク王国下の部族法典として編纂されたもので、ザクセン法典、カマヴィ法典、テューリンガ法典、フリーゼン法典はいずれもカール大帝治世下、アーヘンの帝国会議(802年)で法典として認められた。
参考書籍
- 勝田有恒,森征一,山内進 編著(2004)『概説西洋法制史』ミネルヴァ書房
- 成瀬治, 山田欣吾, 木村靖二 編著(1997)『ドイツ史(1)先史~1648年 (世界歴史大系)』山川出版社
- シュルツェ、ハンス・クルト(1997)『西欧中世史事典―国制と社会組織 (MINERVA西洋史ライブラリー)』ミネルヴァ書房