ボディアム城(Bodiam Castle)は1385年、イングランド王エドワード3世・リチャード2世に仕えた騎士エドワード・ダリングリッジによって現在のイースト・サセックス州ロバーツブリッジ近郊に築かれた中世城塞である。ロザー川から引かれた水を充分に湛えた濠で囲まれた水城で、水面に浮かぶ美しい佇まいから非常に人気の観光スポットとなっている。
築城
城を築いたエドワード・ダリングリッジ(” Edward Dalyngrigge”,1346年頃生~1393年没)はサセックスの小領主の子として生まれたが財産の継承権は無かったため、高名な傭兵隊長ロバート・ノールズ配下の傭兵として1367年頃から1377年にかけて百年戦争に参加してフランス各地を転戦、戦功によって財産を築いた。1378年、ボディアム領主家の女性と結婚してボディアム一帯を所領とし、1379年、騎士に叙されて1388年までサセックス州議会の議員を務めるとともに、1381年の「ワット・タイラーの乱」鎮圧にも貢献した。
1385年、ダリングリッジはフランスがイングランドへ侵攻してきた場合の備えという名目でリチャード2世に築城を申し出て許可されると、それまでのボディアム家の館に代わる自身の居城として城を築いた。
城の特徴
ボディアム城は十三世紀末からイングランドで登場したキープ(天守塔)を持たない新しい建築様式の城で、イングランド王エドワード1世が高名な築城技術者マスター・ジェイムズにウェールズ地方で築かせた多くの城と類似した特徴を持っている(1太田静六(2010)『イギリスの古城 新装版』吉川弘文館、世界の城郭、67頁)。
従来のモット・アンド・ベイリー式の城は本丸であるキープに対しそれを取り囲むベイリーは防御力が弱かったが、築城技術の革新が進むと城塞全体の防御力が向上しキープとベイリーを分ける必要が無くなっていった。その結果、キープが消滅する代わりに城郭全体がキープと同様の堅牢性を持つようになる(2太田静六(2010)75頁)。
ボディアム城もこのような最新の築城技術を大いに取り入れて、従来のキープに代わって四隅に攻守に対応した円塔を備えたほぼ正方形の構造で、中央は大きな中庭が設けられており、壁に沿って大広間や城主・家臣団・兵士らの居住空間と執務室、炊事場、食料貯蔵庫や武器庫、チャペルなど一連の施設が効率的に配置されている。城門は城壁北側に二層の正門が、南側に商人などが出入りする搬入口として使われていた副門と、副門の脇に濠を船で渡るための水路門が備えられている(3配置の日本語訳はカウフマン、J・E/カウフマン、H・W(2012).『中世ヨーロッパの城塞』マール社60頁を参照しカウフマンにあわせている)。
現存する多くの城では濠はすでに水が抜かれているか埋め立てられていることが多いが、ボディアム城は現在でも周囲を取り囲む濠に水が十分に湛えられて、水上に建つ城として評価が高い。濠の水は近隣のロザー川を始め複数の水源から引かれており(4スティーヴンソン、チャールズ(2012)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』柊風舎、102頁)、平均で深さ約5フィート(1.5メートル)、南東の角で深さ7フィート(2.1メートル)に及ぶ。濠のほぼ中央に城が建てられ、城へはかつては南北二方向から通路が伸びていたが、現在は南側の濠を渡る通路は残っておらず北側の正門への通路のみとなっている。南側の通路には跳ね橋が築かれていたという。また北側の通路は中央付近に八角形のスペースが設けられて、かつてはここからさらに西側へ通路が伸びていたとみられている。
戦いの舞台とならなかった城
百年戦争の真っただ中に築かれ、その後も薔薇戦争や清教徒革命などの大規模な内乱、多数の農民の蜂起や反乱などひっきりなしに戦いが続いた英国の歴史の中で、ボディアム城は記録に残る限り戦場になっていない。
ダリングリッジ家の系譜は1470年に絶え、婚姻関係からルークナー(Lewknor)家に移った。薔薇戦争中、城主トマス・ルークナーはランカスター派だったため、1483年、ヨーク朝三代目のイングランド王リチャード3世が即位すると反逆罪の嫌疑をかけられた。リチャード3世の指示でボディアム城への攻撃計画が立てられたが、攻撃が行われた記録は残っておらず、おそらく実行される前の早い段階で降伏したとみられている。
一時、ボディアム城は没収されたものの、ヨーク朝にかわってテューダー朝になるとルークナー家に返還され、1543年まで継承された。1639年、第二代サネット伯ジョン・タフトンがボディアム城を購入する。折しも清教徒革命からイングランド王政復古へと続く動乱の時代を迎え、1643年、サネット伯は王党派に属して議会軍と戦って敗北し所領の大半を没収された上、多額の罰金を科された。1644年、この支払のため伯はボディアム城を6000ポンドで売却した。
その後城は放置されて廃城となり、1722年、トマス・ウェブスター準男爵によって購入され、ウェブスター家の管理下でツタの絡まる廃城の美しさが話題となり観光地として人気を博した。1829年、化学者マイケル・ファラデーのパトロンであり慈善家として知られるマッド・ジャックことジョン・フラーが城を購入して塔などを修築。1849年、後の初代アシュコーム男爵である政治家ジョージ・キュビットが城主となって城の調査と修復作業が始められた。
1919年、インド総督兼副王や外務大臣などを歴任した有力政治家ジョージ・カーゾン(カーゾン・オブ・ケドルストン侯爵)はボディアム城の美しさに魅せられ、修復と保存の必要性を感じてキュビット家からボディアム城を買い取ると、建築家ウィリアム・ウィアーとともに資産を投じて大規模な調査・修復作業を行った。彼の尽力によって荒廃した城の修復や発掘調査、濠の水質の浄化が大きく進んだ。1925年、カーゾン卿死後、遺言によってナショナル・トラストへ寄贈され、同団体の管理下で修復作業が続けられて現在へと至る。
英国最大級のコウモリの生息地
ボディアム城にはドーベントンコウモリの巣が発見されており、イングランド南東部では最大、英国でも有数のコウモリの生息地であることが明らかとなっている。現在、生物学者とナショナル・トラストのレンジャーたちによって保護・観察の対象となっており、ドーベントンコウモリの他、ノレンコウモリ、ウサギコウモリ、アブラコウモリ、ソプラノアブラコウモリなどが確認されている。2013年には英国で初の野生のコウモリの出産が観察された(5“Bats at Bodiam Castle”(National Trust))。
参考文献
- 太田静六(2010)『イギリスの古城 新装版』吉川弘文館、世界の城郭
- カウフマン、J・E/カウフマン、H・W(2012).『中世ヨーロッパの城塞』マール社
- スティーヴンソン、チャールズ(2012)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』柊風舎
- “Bodiam Castle a brief history” (National Trust)
- “Exploring Bodiam castle” (National Trust)
- “Bats at Bodiam Castle”(National Trust)
- “History of Bodiam Castle”(Bodiam Castle)