スコットランド王国は九世紀頃、ピクト人、スコット人、ブリトン人などの諸族が一つの王権の下に統合して成立したアルバ王国を起源としている。アルバはゲール語で元来ブリテン島を指す言葉だったが九世紀の終わりごろまでにこの統合王権を指すようになった。また、スコット人はアイルランド人を、スコウシア(スコットランド)もアイルランドを指した言葉だったが、十二世紀頃までに現在のスコットランド地方とそこに住む人々を指すように変化した。
アルバ王国がどのように成立したかについては史料の限界から歴史研究者の間でも議論が続いている。通説ではスコット人のダルリアダ王国がケネス・マカルピン王(843-858年)の時代にピクト人の王国を併合しピクト人の王を称することで誕生したと言われていたが、逆にピクト王によってダルリアダ王国が併合されたとする説の方が有力になっているものの、決め手に欠く状況となっている(1常見信代(2017)36頁)。初期の王はピクト人の王を称し、九世紀末のドナルド2世(889-900年)からアルバ王を称するようになった。ピクト王からアルバ王へ王号がなぜ変化したのかもよくわかっていないが、以後十一世紀にマルカム3世カンモー(1058-1093年)がスコット人の王を称するまで、代々の王はアルバ王と呼ばれた。デイヴィッド1世(1124-1153年)以降スコットランド王かスコット人の王を称することで受け継がれた。
以上のような経緯を踏まえてこの一覧ではケネス1世マカルピンからルーラッハまでをピクト・アルバ王、マルカム3世カンモー以降をスコットランド王に分けて表記する。なお、スコットランド王の系譜はアレグザンダー2世(1214-1249年)時代、伝わっていた複数の王名表をもとに、スコットランド王家のルーツをダルリアダ王家に繋げる意図をもって整理・統合されて作られたものである(2常見信代(2001)71-72頁)。このため、特にアルバ王時代以前については関係性や系譜が定かではないことが多い。また同時代の王たちの事績も中世後期以降の史料が殆どとなっている。
ピクト・アルバ王
アルピン家
王名 | 在位期間 | 主な事績 |
---|---|---|
ケニス1世・マカルピン Kenneth I MacAlpin |
843-858年 | 通説では843年、ピクト王国を征服した上でピクト王に即位したとされるが、近年では否定的にみられている。初代スコットランド王とされるが史料が少ないため謎が多い。 |
ドナルド1世 Donald I |
858-862年 | ケネス1世の弟。ピクト王。 |
コンスタンティン1世 Constantine I |
862-877年 | ケネス1世の子。ピクト王。866-71年頃にかけて襲撃してきたヴァイキングを撃退するが、877年、再侵攻してきたヴァイキングとの戦いで戦死したという |
アエド(3カナ表記はミチスン、ロザリンド(1998)『スコットランド史 その意義と可能性』未来社、33頁参照。なお他にアイズ、エイなどの表記ゆれがある。) Áed |
877-878年 | ケネス1世の子。コンスタンティン1世の弟。ピクト王。在位一年余りで次の王ギリクに殺害された。 |
ギリク Giric |
878-889年 | 系統不明、ドゥンガルの子と言われ、前王アエドを殺して従兄弟のエヒズと共同でピクト王に即位したという。アルバ王を称した最初の王とする説もある。後世、アイルランドと全イングランドを征服し教会を保護したという伝説のグレゴリー大王と同一視された |
エヒズ(4カナ表記は木村正俊(2021)『スコットランド通史 政治・社会・文化』原書房335頁参照。他にヨーカ表記もある) Eochaid |
878-889年 | 父はストラスクライド王、母はケネス1世の娘。ギリクと共同でピクト王に即位したという |
ドナルド2世 Donald II |
889-900年 | コンスタンティン1世の子。ピクト王にかえてアルバ王を称した最初の王とされている。900年、ヴァイキングの襲撃を受けたダノター城で防衛戦を指揮し戦死した |
コンスタンティン2世 Constantine II |
900-943年 | アエド王の子。アルバ王。926年、イングランド王エセルスタンと会談し平和条約を締結、934年、エセルスタン王の侵攻に対抗、その後エセルスタン王の帰国に同行した。937年、ブルナンブルフの戦いでエセルスタン王に大敗し、943年、退位に追い込まれた |
マルカム1世 Malcolm I |
943-954年 | ドナルド2世の子。アルバ王。イングランドと同盟を結びつつ南下してノーサンブリアを劫略、領土の拡大に努めた。954年殺害された。 |
インダルフ Indulf |
954-962年 | コンスタンティン2世の子。アルバ王。962年、デーン人との戦いで戦死 |
ダフ Duff/Dub |
962-966/967年 | マルカム1世の子。アルバ王。966年または967年、殺害された。彼の生涯について詳細は不明だが、16世紀、ラファエル・ホリンシェッドによってダフ王暗殺の経緯が創作され、17世紀、ウィリアム・シェイクスピアはマクベスの物語に転用した |
クレン Cuilén |
966/967-971年 | インダルフ王の子。アルバ王。ダフ王を殺害したとする説もあるが定かでない。971年、ブリトン人との戦いで死んだともストラスクライド王国の王子により殺害されたとも言われる。 |
ケネス2世 Kenneth II |
971-995年 | マルカム1世の子。アルバ王。ノーサンブリア王国の滅亡(966年)を背景として、現在の首都エディンバラを含むロージアン地方を傘下に収めるなど勢力拡大に努めたが、995年、殺害された |
コンスタンティン3世 Constantine III |
995-997年 | クレン王の子。アルバ王。997年戦死した。同時代史料は少なく詳細は不明。事績の多くは十四世紀以降の記述による |
ケネス3世 Kenneth III |
997-1005年 | ダフ王の子。アルバ王。1005年、モンジーベアードの戦いでマルカム2世と戦い戦死 |
マルカム2世 Malcolm II |
1005-1034年 | ケネス2世の子。アルバ王。前王を殺害して即位、1018年カラムの戦いでイングランド軍に勝利しスコットランド東南部を獲得、ストラスクライド王国を併合、ロージアン地方から現在のイングランドとの境界付近にかけて支配を確立した。タニストリーに代わり自身の血統による相続を目指し孫ダンカン1世に王位を継承させた |
ダンケルド家
王名 | 在位期間 | 主な事績 |
---|---|---|
ダンカン1世 Duncan I |
1034-1040年 | マルカム2世の娘婿ダンケルド修道院長クリナンの子。1039年ダラム包囲に失敗、続いてマリ王国へ侵攻したが1040年、マリ王マクベスと現在のエルギン市郊外で会戦となり戦死した。彼の父の領地名からとって彼の子孫の血統はダンケルド家と呼ばれる |
マリ家
王名 | 在位期間 | 主な事績 |
---|---|---|
マクベス Macbeth |
1040-1057年 | マルカム2世の娘婿マリ王フィンドレイの子。1040年、侵攻してきたダンカン1世を討ち取りアルバ王に即位。教会の保護やローマへの巡礼を行い、安定した治世をもたらしたが、1054年、ノーサンブリア伯シワード率いるイングランド軍の侵攻を契機に体制が弱体化、1057年ランファナンの戦いでマルカム3世に敗れ戦死した。シェイクスピアの戯曲「マクベス」のモデル |
ルーラッハ Lulach |
1057-1058年 | マクベスの義子。マクベス王死後即位したが1058年、マルカム3世によって暗殺された。アルバ王にはマルカム3世が即位し、マリ王位は息子が継いだ。 |
スコットランド王
ダンケルド家
王名 | 在位期間 | 主な事績 |
---|---|---|
マルカム3世カンモー Malcolm III Canmore |
1058-1093年 | ダンカン1世の子。マクベス・ルーラッハ親子を倒して即位。スコット人の王(5“Scottorum basileus”(Archibald C. Lawrie. Early Scottish Charters: Prior to A.D. 1153.Glasgow,1905.p8.) )を称した。カンモーは「大頭」「偉大な指導者」の意。ノルマン・コンクエストにともない亡命してきたウェセックス王家のマーガレットと結婚。サクソン、ノルマン文化の受容を進めた。1093年、ノーサンブリア遠征中戦死。エディンバラ城築城など |
ドナルド3世 Donald III |
1093-1094年 | マルカム3世の弟。王号をアルバ王に戻すなど復古的な政策を打ち出す。彼の即位を不満に思ったイングランド王ウィリアム2世の介入により即位後すぐ廃位。のちに復位する。 |
ダンカン2世 Duncan II |
1094年 | マルカム3世と最初の妻インギビョーグとの間の子。1094年、イングランドで人質となっていたがウィリアム2世の後押しでドナルド3世に代わって即位。同年、前王ドナルド3世軍との戦いで戦死し、一年に満たない在位で終わった |
ドナルド3世 Donald III |
1094-1097年 | イングランドの後押しを受けた甥ダンカン2世を破って1094年、復位。マルカム3世とマーガレットの間の子エドマンドとの共同統治を打ち出したが、これを不満に思ったエドマンドの弟エドガーがイングランド王ウィリアム2世に支援されて反乱、1097年、ドナルドは再び廃位、失明させられた上で修道院に幽閉された |
エドガー Edgar |
1097–1107年 | マルカム3世の子。スコット人の王(6“Rex Scottorum”(Archibald C. Lawrie. Early Scottish Charters: Prior to A.D. 1153.Glasgow,1905.p14.) )に復す。イングランドからの支援で即位。ウィリアム2世への臣従を表明してイングランドでの儀礼にも参加。ノルウェー王マグヌス3世に西方諸島を割譲するなど融和外交を展開した |
アレグザンダー1世 Alexander I |
1107-1124年 | マルカム3世の子。前王の弟。前王の遺言により自身は北部、弟デイヴィッドが南部を統治した。イングランド王ヘンリ1世の娘シビラと結婚し親イングランド政策をとり、教会を庇護するなど安定した治世を行った |
デイヴィッド1世 David I |
1124-1153年 | マルカム3世の子。前王の弟。兄王と分割統治し、死後単独統治した。スコットランド王(7“Rex Scotiae”(Archibald C. Lawrie. Early Scottish Charters: Prior to A.D. 1153.Glasgow,1905.p57.))を初めて称す。ノルマン人人材を積極的に招聘してイングランド式封建制度を導入し行政組織を確立した。国内に多くの修道院を建設、司教区を編成して教会の組織化にも努めた。1147年マリ王国を併合。イングランドの内乱にも介入したがスタンダードの戦い(1138)の敗北以後は外交策に転じて領土を拡大、後のヘンリ2世を支援した。 |
マルカム4世 Malcolm IV |
1153-1165年 | デイヴィッド1世の孫。12歳で即位したが病気がちで24歳で亡くなった。相次ぐ反乱とアンジュー帝国の脅威に悩まされた。1157年、ヘンリ2世の脅しに屈し、ノーサンバランド、カンバーランドの南部領土を割譲した一方、1160-64年、マリ、ギャロウェイの反乱を鎮圧し北部に領土を広げた |
ウィリアム1世 William I |
1165-1214年 | 前王の弟。異名は獅子王。1174年、ヘンリ2世の子ヘンリ若王の反乱に同調してノーサンバランドへ侵攻するが敗北、捕虜となりイングランド軍のスコットランド駐留・賠償金支払いを約束(ファレーズ条約)。1189年、リチャード1世の十字軍遠征資金提供と引き換えに同条約は解消された。同条約体制への不満から反乱が頻発、鎮圧の過程で各地に城が築かれ、徴税機構が整うなど功罪両面ある治世となった |
アレグザンダー2世 Alexander II |
1214-1249年 | 前王の子。イングランドの第一次バロン戦争(1215-17年)に介入。1221年、ヘンリ3世の妹ジョアンと結婚。1237年ヨーク条約で国境問題を解決。1249年、ノルウェー王ハーコン4世とノルウェー領ヘブリディーズ諸島譲渡交渉するが失敗し征服のため遠征中病死。対外政策だけでなく内政を整え王国の全盛期を準備した |
アレグザンダー3世 Alexander III |
1249-1286年 | 前王の子。1263年、ラーグスの戦いでノルウェー軍を撃破、1266年、パース条約でマン島とヘブリディーズ諸島を獲得した。強力な王権を確立し安定した治世は中世スコットランド王国の全盛期とされる。最期は落馬死。子供が相次いで早逝し、孫娘のノルウェー王女マーガレットを指名した |
スヴェレ家
王名 | 在位期間 | 主な事績 |
---|---|---|
マーガレット Margaret |
1286-1290年 | アレグザンダー3世の長女マーガレットとノルウェー王エイリーク2世の間の子。通称「ノルウェーの乙女」。1286年、前王死後すぐにノルウェー居住のまま即位。イングランド王エドワード1世の嫡子エドワードとの婚約が決まり、1290年、ノルウェーからスコットランドへ赴く船上で体調を崩し死去。享年7歳。 |
ベイリオル家
王名 | 在位期間 | 主な事績 |
---|---|---|
ジョン・ベイリオル John Balliol |
1292-1296年 | ウィリアム1世の弟ハンティンドン伯デイヴィッドの長女の孫。後継者問題に介入して宗主権を獲得したイングランド王エドワード1世の後ろ盾で即位。エドワードがスコットランド軍を対仏戦争に動員しようとすると一転して反対に回り、1295年、フランスと「古来の同盟」を結ぶ。1296年、イングランド軍に捕らえられ退位 |
ブルース家
王名 | 在位期間 | 主な事績 |
---|---|---|
ロバート1世 Robert I |
1306-1329年 | ウィリアム1世の弟ハンティンドン伯デイヴィッドの次女の曾孫。キャリック伯。ウィリアム・ウォレス死後、対英戦争の指導者として台頭。1306年即位を宣言、ゲリラ戦を展開し、1314年、バノックバーンの戦いでエドワード2世率いる英軍を撃破、1320年、アーブロース宣言、1328年、ノーサンプトン条約でスコットランドの独立が実現。 |
デイヴィッド2世 David II |
1329-1371年 | 前王の子。五歳で即位。摂政マリ伯に反発した貴族連合が英王に介入を求め傀儡エドワード・ベイリオルが即位。1333年、ハリドン・ヒルの戦いで敗れ翌年フランスへ亡命。1341年、仏軍の支援を受け帰国し王権を回復。百年戦争開始後の1346年、ネヴィルズ・クロスの戦いで敗れ1357年まで捕虜としてイングランドに置かれ、留守を摂政ロバート・ステュアートが預かった。1371年、後継者無く死去。 |
ベイリオル家
王名 | 在位期間 | 主な事績 |
---|---|---|
エドワード・ベイリオル Edward Balliol |
1332-1356年 | ジョン・ベイリオルの子。イングランド王エドワード3世によって傀儡として即位、英王に臣従した。政権は不安定でイングランドへ逃亡と再侵攻を繰り返しつつ1336年頃までには実権を失い、1340年代にはデイヴィッド2世政権の支配が確立、1356年、形式上の王位請求権をエドワード3世に譲渡して退位した |
ステュアート家
王名 | 在位期間 | 主な事績 |
---|---|---|
ロバート2世 Robert II |
1371-1390年 | 母はロバート1世の娘。デイヴィッド2世の摂政として国政を主導し、前王死後即位。即位時55歳と高齢で身体的にも判断力も衰えが目立った。84年から息子のキャリック伯ジョン(後のロバート3世)が国政を代行したが、1388年の有力者ダグラス伯戦死、キャリック伯が事故で身体が不自由になったことで王権の弱体化が進んだ |
ロバート3世 Robert III |
1390-1406年 | 前王の子。84年から父王の代行として政務を執ったが、1388年、事故により身体の自由を失ったことで統治能力は衰えた。1390年、父王の死でジョンからロバートに改名して即位したが実権は弟ファイフ伯(オールバニ公)ロバートが握った。1406年、息子ジェームズがイングランドの捕虜となってから失意のうちに死去 |
ジェームズ1世 James I |
1406-1437年 | 前王の子。1406年、王位を狙うオールバニ公から守るため仏へ送られる途上イングランドに捕われ虜囚のまま即位。オールバニ公一族が実権を握った。留守中の1411年、西部諸島のマクドナルド氏族が反乱、1476年まで独立勢力化した。1424年に帰国後、オールバニ公一族を粛清、貴族を抑制し司法制度改革や貧困救済等精力的に国政改革を進めたが1437年暗殺された |
ジェームズ2世 James II |
1437-1460年 | 前王の子。王を支えた第五代ダグラス伯の遺児がエディンバラ城で殺害された「黒い晩餐会」事件(1440年)、第八・九代ダグラス伯の反乱(1452-55年)などを経て反対派貴族を一掃し強力な王権を確立。グラスゴー大学設立(1451年)。最新の大砲を大量導入し軍備を革新した。ロクスバラ城包囲戦中、大砲の暴発で事故死 |
ジェームズ3世 James III |
1460-1488年 | 前王の子。カルマル同盟クリスティアン1世の娘マーガレットと結婚し1472年、オークニー・シェトランド諸島の譲渡を受け、76年、マクドナルド氏族を服従させ全スコットランド統一。芸術・文芸を奨励しルネサンス文化が花開いたが、内政では寵臣政治で混乱して反乱が絶えず、88年、王子ジェームズを擁した貴族反乱鎮圧中戦死 |
ジェームズ4世 James IV |
1488-1513年 | 前王の子。ステュアート朝全盛期の王。芸術・文芸・学問を庇護しアバディーン大学等多数の大学を創立、義務教育の施行、印刷機の導入、ホリールード宮殿の建設、王立海軍の創設等功績多数。財政収入も倍増しスコットランドに繁栄をもたらした。ヘンリ7世娘マーガレットと結婚、後の同君連合に繋がった。1513年、ヘンリ8世がフランスに侵攻したため「古来の同盟」に従い英へ侵攻、フロッデンの戦いで戦死した |
ジェームズ5世 James V |
1513-1542年 | 父王が死んだとき1歳だったため王族オールバニ公ジョンが、24年からは王母マーガレットが摂政となった。28年、親政を開始。32年、後のスコットランド最高裁判所”College of Justice”設立。領土各地を巡幸して地方の豪族と関係を強化し地方裁判制度を整えた。二度目の妻がメアリ・オブ・ギーズ。プロテスタントを弾圧。1542年、ヘンリ8世との戦いで戦死 |
メアリ1世 Mary I |
1542-1567年 | 生後6日で即位。1548年、フランス王太子フランソワ(後のフランソワ2世)と婚約し渡仏、58年よりフランス王妃を兼ね、夫死後の61年、帰国。不在中は母メアリ・オブ・ギーズが摂政として国政を担った。1559年、ジョン・ノックス指導で宗教改革が開始、60年、対仏同盟「古来の同盟」終了。帰国後メアリ1世はプロテスタントを容認したが、65年、カトリックのダーンリー卿と結婚したことが宗教対立の火種となり、67年、退位した。1587年、亡命先のイングランドで刑死 |
ジェームズ6世 James VI |
1567-1625年 | メアリ1世の子。1歳で即位。イングランド王ジェームズ1世(1603-1625年)。同君連合初代君主。幼少期は集団指導体制で国政が動かされ、1582年、一時幽閉の後脱出し親政を開始。教会の組織化を進め国内を安定させた。同君連合成立後はスコットランドとイングランドのバランスを取りつつ王権神授説を採り絶対王政を進めた。徳川家康に国書を送り日英交易を開始(1613)。ガイ・フォークスの火薬陰謀事件(1605)等 |
チャールズ1世 Charles I |
1625-1649年 | 前王の子。ドイツ三十年戦争への介入による財政危機に対し議会が権利の請願を提出したため議会を閉会。スコットランド反乱を契機に清教徒革命(イングランド内戦)が勃発し、1649年、議会軍に捕らえられ処刑された |
チャールズ2世 Charles II |
1649-1651年 | 父王刑死後オランダへ亡命していたが、1649年、スコットランド長老派によって王に擁立され、50年帰国、51年戴冠式。同年、ウスターの戦いでオリヴァー・クロムウェル率いるイングランド軍に敗れ、国外へ脱出した。1660年の王政復古までフランスで亡命生活を送った |
ステュアート家(復興)
王名 | 在位期間 | 主な事績 |
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チャールズ2世 Charles II |
1660-1685年 | チャールズ1世の子。1660年、王政復古により復位。革命への反省から宗教寛容政策を取るがカトリック優遇との批判を招く。カトリックと疑われる王弟ヨーク公ジェームズを後継者とする提案に対し議会はトーリーとホイッグの二つの会派に分裂、後に二大政党に発展した |
ジェームズ7世 James VII |
1685-1688年 | 前王の弟ヨーク公ジェームズ。イングランド王としてはジェームズ2世。カトリック化政策を推進し議会を停止するなど強権を行使したため議会や軍の反発を招き、娘メアリと夫オレンジ公ウィリアムがオランダ軍を率いて上陸してくると戦わず退位した(名誉革命) |
メアリ2世 Mary II |
1689-1694年 | 前王の娘。夫はオレンジ公ウィリアム。名誉革命で兄王を退位させ夫とともに即位した。夫が外交や戦争で不在が多かったため国内に常在して政務を司った。 |
ウィリアム2世 William II |
1689-1702年 | イングランド王としては3世。名誉革命で妻とともに即位。議会による「権利の章典」を承認。1692年、グレンコーの虐殺事件。対仏同盟結成し大陸で戦争指揮をとった。アイルランドではウィリアマイト戦争、北米ではウィリアム王戦争を展開、スペイン継承戦争にも参戦した。最期は落馬死。 |
アン Anne |
1702-1707年 | メアリ2世の妹。1707年、合同法を施行しスコットランドとイングランドの議会を統合し初代グレート・ブリテン女王となった。持病の痛風と肥満で身動きがとれず、軍事外交はマールバラ公に、内政は大蔵卿ゴドルフィン伯爵に一任した。 |
イングランドとの統合以降の君主一覧は以下の記事参照
参考文献
- 青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社
- 今井宏(1990)『世界歴史大系 イギリス史(2)近世』山川出版社
- 木村正俊(2021)『スコットランド通史 政治・社会・文化』原書房
- 森護(1988)『スコットランド王国史話』大修館書店
- 森護(1994)『英国王室史事典』大修館書店
- ミチスン、ロザリンド(1998)『スコットランド史 その意義と可能性』未来社
- 常見信代(2001)「スコットランドと「運命の石」 : 中世における王国の統合と神話の役割(<特集>共同研究報告 : 欧米諸国における多文化の問題と日本の課題(続))」(『北海学園大学人文論集 (19)』65-93頁)
- 常見信代(2017)「史料と解釈 : スコットランド中世史研究の問題」(『北海学園大学人文論集 (62)』25-52頁)
- Kings and Queens of Scotland | Britannica
- Archibald C. Lawrie. Early Scottish Charters: Prior to A.D. 1153.Glasgow,1905.