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世界史ニュース

フランス王ルイ9世の死因はサラダを食べなかったから?調査結果が発表

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1270年、十字軍遠征の途上チュニスで客死したフランス王ルイ9世(聖王)の遺骨を調べていた法医学者チームが、王は壊血病あるいは、壊血病で衰弱した状態で別の病気に罹り合併症で亡くなったと発表した。Daily Mail Online、The Local Franceなどが報じている。

French Crusader King Louis IX died of SCURVY, expert claims
Experts led by celebrated French forensic pathologist Philippe Charlier examined a fragment of the King's jawbone (pictu...
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ビタミンC不足で死に至ったルイ9世

フランス王ルイ9世

フランス王ルイ9世

ルイ9世はカペー朝初代ユーグ・カペーから数えて九代目のフランス王(在位1229年~1270年)。イングランド王ヘンリ3世との和平など欧州の国際関係を安定させ、二度の十字軍を率いてアフリカへ遠征し、1270年、遠征先のチュニスで亡くなった。敬虔な信仰心で知られ、死後列聖されて聖王ルイの名で知られる。

フランスの著名な法医学者でイングランド王リチャード1世の心臓の調査でも知られるフィリップ・シャリエ(Philippe Charlier)博士率いる研究チームは、ノートルダム寺院に聖遺物として安置されているルイ9世のものと伝わる下顎の骨を、炭素年代測定法(炭素14法)を用いて本人のものであることを明らかにした。その下顎の骨を分析して壊血病による症状と一致する損傷を確認、博士は、ルイ9世が「壊血病に罹っていたことは明らかである」と述べた。

ルイ9世の下顎

ルイ9世の下顎
©Philippe Charlier

壊血病は食事にビタミンCが欠乏することで発症するが、博士は「彼の食事はあまりバランスがとれていなかった」と言う。遠征軍が上陸したチュニジアの郷土料理にはビタミンCの豊富なサラダと柑橘類の果物が多く含まれていたが、十字軍は現地の料理は口にせず、また遠征に際して野菜や果物を持って行かず肉中心の食事をとった。ルイ9世自身は極度の敬虔さから懺悔と断食を行っていた。

ルイ9世の死因は当時の記録からペストだと言われていたが、今回の調査で否定されることになった。シャリエ博士は「彼がペストで死んだことは歴史書に残っている」が「現代科学はそれを正すためにあります」と語った。

しかし、「壊血病は確かであるが一つの死因が他の死因を隠すこともある」としてその死因は壊血病あるいは、壊血病で衰弱した状態で別の病気に罹った可能性も指摘されている。死因は赤痢であるとする説もあり、専門家たちは現在、ルイ9世死後に切り分けられ、ワインやスパイスで煮られて保存された胃の調査に入っている。

この調査結果はオンライン・ジャーナル” Journal of Stomatology, Oral and Maxillofacial Surgery”で発表されている。

ScienceDirect

ルイ9世の死と遺骸の分割

ルイ9世の死の様子とその遺骸についてはジャック・ル・ゴフ「「われわれはエルサレムに向かう!」/チュニスで死の床にあった聖王ルイ9世の言葉――1270年」(パトリス・ゲニフェイ編『王たちの最期の日々 上巻』(原書房,2018年,原著2014年))が非常に詳しい。以下同書を参考にしてルイ9世の死と遺骸の行方についてまとめる。

ルイ9世王の聴罪司祭として臨終に立ち会ったジョフロワ・ド・ボーリューがその臨終の様子を記録している。

「体と声の力が少しずつ弱っていったが、王は可能なかぎりの努力を傾けて声を出し、ご自身がとくに信仰していた聖人たち、なかでも王国の守護聖人である聖ドゥニに力ぞえを求めた。このような状態であっても、われわれは、聖ドゥニに捧げる祈りの終わりの部分である『主よ、あなたに愛を捧げるわたしたちのため、地上の富貴をさげすみ、逆境をおそれぬ力をお授けください』を王が何度もくりかえして唱えるのを耳にした。王はいく度もこれらの言葉をくりかえした。王はまた、キリストの使徒、聖ヤコブに捧げる祈りの冒頭部分『主よ、あなたの民を救済し、お守りください』を数回くりかえし、ほかの聖人のことも敬虔にたたえた。神の僕であった王は、十字架の形に灰をまいた寝台の上に横たわったまま、至福のうちに創造主にその命をお返しした。それは神の子キリストが世界の救済のために十字架の上で息を引きとられた時間とぴったり符号していた。」(1ジャック・ル・ゴフ「「われわれはエルサレムに向かう!」/チュニスで死の床にあった聖王ルイ9世の言葉――1270年」(パトリス・ゲニフェイ編『王たちの最期の日々 上巻』(原書房,2018年,原著2014年))80-81頁より

1270年8月25日にチュニスで亡くなった王の遺骸をどうするか、サン・ドゥニ修道院に葬ることを支持する後継者フィリップ3世と、モンレアーレのシチリア王家大聖堂に葬ることを主張する王弟シチリア王シャルル・ダンジューの間で意見が分かれ、遺体を切り分けて骨はフィリップ3世とともにサン・ドゥニへ、肉と内臓は保存処理がなされてシャルル・ダンジューとともにシチリアへ運ばれることになった。ただ、心臓がどうなったかが謎で、シチリアに持ち去られたとも、サン・ドゥニに骨と一緒に運ばれたとも言われ、あるいはアフリカで保存されたともいわれ、これが後にルイがイスラーム教に改宗したという伝承の元になった。おそらくサン・ドゥニに運ばれたとするのが有力である。

シチリアに送られた内臓は1860年まで保存されていたが、ガリバルディの千人隊に追われたシチリア王フランチェスコ2世が持ち去り、1894年、同王の死に際してアフリカ宣教会に寄贈されチュニジアの大聖堂へ納められた。

1298年、ルイ9世が列聖されると、ルイの遺骨は聖遺物となり、その結果、フランス王家にとって贈り物の対象となり、骨は小分けにされて各地の主要教会に贈られて分散していった。1568年、プロテスタントとの宗教戦争が勃発したことで、反プロテスタントの象徴としてすべての骨がパリに集結、1789年、フランス革命が勃発してサン・ドゥニの王家墓所が荒らされ、遺骨は多くが散逸、破壊された。

今回、調査の対象となったのはこの散逸していた遺骨の中のノートルダム大聖堂で聖遺物箱の中に保管されていた下顎である。

遺体の分割は異教的風習を背景に、中世ヨーロッパでは特に偉人への敬意を示す埋葬方法として一般的な習慣であったが、1299年、教皇ボニファティウス8世がこれを禁じたため、ルイ9世の遺骸分割が最後の例となった。

『偉人の場合、ばらばらの場所に三つの墓――体の墓、心臓の墓、内臓の墓――があることは、不敬どころか、彼らがいかに傑物であったか、生前にどれほどの権勢を誇っていたかを証かすものであり、墓が複数あることで死後も権勢が保たれる、と考えられていた。フランスでは、こうした感覚と心臓を別に葬る風習は革命まで続いた。』(2ジャック・ル・ゴフ「「われわれはエルサレムに向かう!」/チュニスで死の床にあった聖王ルイ9世の言葉――1270年」(パトリス・ゲニフェイ編『王たちの最期の日々 上巻』(原書房,2018年,原著2014年))90-91頁より

著名な王の死因が明らかにされたという点とともに、ここから歴史を紐解くことでフランス史における死や遺体への考え方、死生観などへもアプローチできるニュースであるだろう。

参考ニュース・文献

脚注

  • 1
    ジャック・ル・ゴフ「「われわれはエルサレムに向かう!」/チュニスで死の床にあった聖王ルイ9世の言葉――1270年」(パトリス・ゲニフェイ編『王たちの最期の日々 上巻』(原書房,2018年,原著2014年))80-81頁より
  • 2
    ジャック・ル・ゴフ「「われわれはエルサレムに向かう!」/チュニスで死の床にあった聖王ルイ9世の言葉――1270年」(パトリス・ゲニフェイ編『王たちの最期の日々 上巻』(原書房,2018年,原著2014年))90-91頁より