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人物

チェウリン(ウェセックス王)

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チェウリン(Ceawlin)は三代目のウェセックス王(在位560-591/592年)。後にウェセックス王国となるゲウィッセ族の勢力を拡大し、ブリテン島に覇権を確立した八人のブレトワルダの一人に数えられる。

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初期のウェセックス王国

「ウェセックス王国地図」

「ウェセックス王国地図」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

ウェセックス王国
ウェセックス王国(Kingdom of Wessex)は六世紀から十世紀にかけてブリテン島に存在したサクソン人の王国。七王国の一つ。六世紀後半、テムズ川上流域で勃興し七世紀始め頃からブリテン島南部・南西部を支配下におさめ強国として台頭、マー

大陸からブリテン島へのゲルマン系の人々の大規模な移住はローマ帝国のブリテン島支配体制が崩れた五世紀半ばから六世紀前半にかけての時期に本格化した。ウェスト・サクソン人もこの中の集団の一つだが、ウェスト・サクソン人の移住からウェセックス王国の建国に至るまでの過程は明らかではない。

九世紀後半にウェセックス王アルフレッドの命で編纂が開始された「アングロ・サクソン年代記」によれば、西暦495年、チェアディッチとその息子キンリッチ1アルフレッド大王に仕えた修道士アッサーが著した「アルフレッド王の生涯」(893年頃)に書かれている王家の系譜ではキンリッチチェアディッチの息子クレオダの子、すなわちチェアディッチの孫であるとしている(アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、1-62頁))が五隻の船団を率いて現在のハンプシャー州南部に上陸したという。現地のブリトン人を駆逐すると、519年、チェアディッチは王となった。チェアディッチ王、キンリッチ王とその後をついだチェウリン王はブリテン島南西部に勢力を拡大する。これが後のウェセックス王国の起源とされるが、「アングロ・サクソン年代記」は三世紀以上後に書かれたもので記述を裏付ける他の同時代史料が無く、それぞれの事件の年代も疑問視されている。他の史料からある程度歴史的事実として確認できるのは七世紀前半、六代目のキュネギリス王(在位611-642年頃)からで、チェウリン王についてもその記述を裏付けることは出来ない。

従来、ウェセックス王国は「アングロ・サクソン年代記」の記述を踏まえてチェアディッチらが征服し後に王国の首都が置かれたハンプシャー州ウィンチェスター周辺に六世紀前半頃誕生したと見られていたが、近年のアングロ・サクソン系墓地の発掘・分析を中心とした考古学的な調査結果では、六世紀後半から七世紀前半にかけて、より内陸に入ったオックスフォードシャー南部のローマ時代の都市ドーチェスター・オン・テムズ(Dorchester-on-Thames)を中心としたテムズ川上流域に誕生したとみる説が有力となっている(2Hamerow, H. , Ferguson, C., Naylor, J. (2013), ‘The Origins of Wessex Pilot Project‘, Oxoniensia 78: 49-69./ Hamerow, H., Ferguson, C. ,Naylor, J. , Harrison, J.,McBride, A. ‘The Origins of Wessex: uncovering the kingdom of the Gewisse‘ , University of Oxford.)。初期のウェセックス王国はゲウィッセ(Gewisse)王国と呼ばれており、テムズ川上流域に勃興したブリトン系とみられるゲウィッセ族を中心として諸部族の統合と征服を経て六世紀後半から七世紀前半にかけてゲウィッセ王国=ウェセックス王国が誕生したと考えられている。ゲウィッセ王がウェスト・サクソン(ウェセックス)の王を称するのは七世紀後半のカドワラ王(在位685-688年)からであった(3Yorke, Barbara (1990), Kings and Kingdoms of Early Anglo-Saxon England, London: Routledge,p. 59)。

「ミルトン・ブローチ」

「ミルトン・ブローチ」
ドーチェスター オン テムズの西にあるミルトンのアングロ・サクソン人墓地で 1832 年に発見された七世紀頃のブローチ
Credit: Ethan Doyle White at English Wikipedia, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

事績

「アングロ・サクソン年代記」の八人のブレトワルダに関する記述部分の画像

「アングロ・サクソン年代記」の八人のブレトワルダに関する記述部分の画像
Public domain, via Wikimedia Commons


アングロ・サクソン年代記」の中でチェウリンが初めて登場するのは556年、キンリッチ王とともにベランブルフ(Beran byrg、現在のオックスフォードシャー北部のバンベリー城)でブリトン軍を破ったという記述である。560年、キンリッチ王が亡くなり、チェウリンが後を継いだ。キンリッチとチェウリンの関係は「アングロ・サクソン年代記」では明らかではないが、九世紀から十二世紀にかけての時期に作成された複数のウェセックス王家の系図ではキンリッチ王の息子であったとされている。

568年、チェウリン王は兄弟のクザとともに後のケント王エセルベルフトと戦い撃破、エセルベルフトはケントに退いたという(4エセルベルフトがケント王に即位するのは580年代と考えられているので即位前の出来事とみられるが年代については議論がある)。また、同年、ウィバンダン(Wibbandun)という場所でオスラフとクネッバという二人のエアルドールマンを殺したというが、この場所は特定されていない。571年、ウェセックスのクズウルフ(Cuthwulf)という人物がベドカンフォルド(Bedcanford)でブリトン軍を撃破しLygean-birg、 AEgeles-birg、Baenesington、 Egoneshamの四つの村を支配下に置いた。戦いを指揮したクズウルフという人物の素性(5クザの子に同名の人物がいるともクザと混同された表記ともされる)も戦地のベドカンフォルドの場所も不明(6伝統的にベッドフォードと考える説があったが疑問視されている)だが、支配下となった4つの村は現在のベッドフォードシャー州レンベリー(Lenbury)、オックスフォードシャー州エイルズベリー(Aylesbury)、ベンソン(Benson)、エインシャム(Eynsham)と考えられている。577年、チェウリンはクズウィネ(Cuthwine7アルフレッド王の生涯」(893年頃)にはクズウィネはチェウリンの子でクザの父とする系図があり関係性は史料間で混乱している(アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、62頁))という人物とともにデオルハム(Deorham)という場所でブリトン軍を撃破し、グロスター、サイレンセスター、バースの三つの町を占領、セヴァーン川下流域に勢力を拡大した。

ノーサンブリア王国の聖職者ベーダは「アングル人の教会史」(731年)で七王国時代のアングロ・サクソン諸王国に宗主権を行使した七人のブレトワルダの一人としてチェウリン王の名を挙げている。「アングロ・サクソン年代記」もベーダに倣いチェウリン王を八人のブレトワルダの一人とした。しかし、チェウリン王のブレトワルダとしての権力がいつから、どの程度の広がりを持ち、どのような体制であったかなど実態は全くわからない。上記の通り、史料に描かれるチェウリン王の在位期間は考古学的調査によるテムズ川上流域のオックスフォードシャー州ドーセット・オン・テムズを中心としてゲウィッセ(ウェセックス)王国が勃興した時期にあたり、「アングロ・サクソン年代記」のオックスフォードシャー周辺に勢力を拡大した記述と重なり合う面もある。チェウリン王の歴史性は議論があるが、同王が治めたとされる時期に後のウェセックス王国が誕生したと考えられている。

584年、チェウリン王とクザが率いるウェセックス軍がフェザンレア(Fethan-lea)と呼ばれる地でブリトン人と戦いクザが戦死、チェウリンは多くの戦利品を獲得して撤退したという。この戦いがチェウリン王体制の転機となったとみられ、591年、クザの子とされるチェオル(Ceol)が王に即位した。共治だったかチェウリン王が退位したかはわからないが、翌592年、現在のウィルトシャー州ワンズバラとみられるヴォーデンボルグ(Woddesbeorg)という場所で大規模な殺戮が行われた後、チェオル王によってチェウリンは追放され、593年、死去した。

参考文献

脚注

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