カドワラ(ウェセックス王)

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カドワラ(Cædwalla)は七世紀後半のウェセックス王国を治めた君主。659年頃生。在位685/686-688年。若い頃、国を追われて放浪した後、685年または686年、前王ケントウィネの退位に伴い帰国して即位。無類の戦上手で二年余りの短い治世の間にサセックス王国、ワイト島、ケント王国を相次いで征服しウェセックス王国の版図を過去最大に広げた。688年、突然退位してローマへの巡礼に旅立ち、ローマ教皇セルギウス1世から洗礼を受けた後、689年4月20日に亡くなった。遺骨はサン・ピエトロ大聖堂に埋葬されたという。

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七世紀末までのウェセックス王国

「ウェセックス王国地図」

「ウェセックス王国地図」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons


大陸からブリテン島へのゲルマン系の人々の大規模な移住はローマ帝国のブリテン島支配体制が崩れた五世紀半ば以降本格化したが、ウェセックス王国の建国に至るまでの過程は明らかではない。「アングロ・サクソン年代記」(九世紀後半)によれば、西暦495年、チェアディッチが五隻の船団を率いて現在のハンプシャー州南部に上陸したという。三代目のチェウリン王までの間にブリテン島南西部に勢力を拡大、後に王国の首都が置かれたハンプシャー州ウィンチェスター周辺に六世紀前半頃誕生したと見られていたが、「アングロ・サクソン年代記」以外に史料が無く、これらは疑問視されている。近年の考古学的な調査結果では、六世紀後半から七世紀前半にかけて、より内陸に入ったオックスフォードシャー南部のローマ時代の都市ドーチェスター・オン・テムズ(Dorchester-on-Thames)を中心としたテムズ川上流域に誕生したとみる説が有力となっている(1Hamerow, H. , Ferguson, C., Naylor, J. (2013), ‘The Origins of Wessex Pilot Project‘, Oxoniensia 78: 49-69./ Hamerow, H., Ferguson, C. ,Naylor, J. , Harrison, J.,McBride, A. ‘The Origins of Wessex: uncovering the kingdom of the Gewisse‘ , University of Oxford.)。

他の史料から実在した人物であると確認できる最初の王は六代目のキュネギリス王(在位611-642年頃)である。キュネギリス王はチェウリン王の兄弟クザ(Cutha)の孫にあたり、息子クウィチェルムと共同で王位に就いていた。キュネギリス王とその子供たちの時代のウェセックス王国は南西部に基盤を築きつつあったものの、当時ブリテン島全土へ覇権を確立したノーサンブリア地方の歴代の支配者たちとペンダ王の下で強勢を誇ったマーシア王国との覇権争いに脅かされ続けていた。

キュネギリス王の子チェンワルフ王(在位641/643-645年、648-672年)はマーシア王ペンダの妹を妃としていたが、645年、彼女と離婚して別の女性(2ベーダは名前を挙げていないが「アングロ・サクソン年代記」にあるチェンワルフ王死後に即位したサクスブルフ女王のことと考えられている(Foerster, Anne (2018). “Female Rulership: The Case of Seaxburh, Queen of Wessex“. Hypotheses.org.))と再婚した。これに対してペンダ王の侵攻を受け、ウェセックス王国は648年まで三年間ペンダ王の直接支配下に置かれた。チェンワルフ王死後、統一支配した王はおらず複数の指導者たちが並び立っていたと言われている(3高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、209頁)。685年、キュネギリス王の子供たちの最後の王ケントウィネが退位して、新たに即位したのがカドワラ王であった。

生涯

「聖ウィルフリッドに勅許状を与えるカドワラ王」(チチェスター大聖堂の壁画、ランバート・バーナード作)

「聖ウィルフリッドに勅許状を与えるカドワラ王」(チチェスター大聖堂の壁画、ランバート・バーナード作、1506-1536年頃)
Credit: Lambert Barnard, Public domain, via Wikimedia Commons

出自

ベーダアングル人の教会史」にはカドワラ王が689年に亡くなったとき約三十歳であったとあり(4Sellar, A.M.(1907). Bede’s Ecclesiastical History of England,LONDON GEORGE BELL AND SONS.,Christian Classics Ethereal Library, BOOK.V.CHAP. VII..)、ここから彼が生まれたのは659年頃と考えられている。「アングロ・サクソン年代記」の685年の条によると、カドワラ王の父はコエンベルト(Coenberht)という人物で半ば伝説的なチェウリン王の末裔であるという(5GILES, J.A. (1914).’THE ANGLO-SAXON CHRONICLE.‘,G. BELL AND SONS, LTD.)。名前はブリトン人の人名”Cadwallon”(6ウェールズ語読みでカドワソン、英語読みでカドワロン/カドワソン・アプ・カドヴァン(グウィネズ王))に由来していることから、ブリトン人の血を引く可能性などが推測されているが定かでない。

ベーダはカドワラ王のことを「ゲウィッセ王家の血を引く精力的な若者(7“a young man of great vigour, of the royal race of the Gewissae”Sellar, A.M.(1907)BOOK.IV.CHAP. XV.)」と紹介する。ゲウィッセ(Gewisse/Gewissae)とは初期のウェセックス王国を指して呼んだ呼称で、この名の由来は諸説あるが部族名あるいは氏族名に由来すると考えられ、歴史学上でも初期のウェセックス王国を指してゲウィッセ王国(Kingdom of the Gewissae)とも呼ぶことが多い。初めてウェスト・サクソン(ウェセックス)の王を称するのがカドワラ王で、カドワラ王治世下での領土の拡大が既存のゲウィッセ王号に代わる新たな称号の必要性に繋がったと考えられている(8Yorke, Barbara (1990), Kings and Kingdoms of Early Anglo-Saxon England, London: Routledge,p. 59)(9以後も代々の王がウェセックス王とあわせてゲウィッセ王を使った例が残り、十二世紀にもウィンチェスター周辺を指してゲウィッセと呼ぶ記録が残るなどウェセックス(ウェスト・サクソン)の王を称する様になっても並行してゲウィッセという王号および地域名が使われていた(Thomas William Shore(1906).’Origin of the Anglo-Saxon Race‘,Elliot Stock.pp.224-225.)。

即位まで

アングル人の教会史」によれば、カドワラは即位前ウェセックス王国を追放されていたという。カドワラが追放された理由は不明だが、当時のウェセックス王国は長期政権を築いたチェンワルフ王(672年没)死後、各地の有力者たちによって分割統治されていた。チェンワルフ王死後10年分裂が続き、この小領主たちが征服され駆逐された後にカドワラが即位することとなる(10高橋博 訳(2008)209頁)。この混乱の過程で国を追われていたとみられる。

「聖ウィルフリッド伝」(八世紀)によれば、カドワラが追放されたのはチルターンとアンドレッドの森であったという(11“Cædwalla first appears in the records as a noble exile in the forests of Chiltern and Andred(Vita Wilfridi, ch.42).”Kirby, D. P. (2020), The Earliest English Kings, London: Routledge, p. 100.)。チルターンは現在のロンドン北西部に広がるチルターン丘陵、アンドレッドの森はウィールド(The Weald)と呼ばれるイングランド南東部に存在した森林地帯で、いずれも当時のウェセックス王国の東部国境付近を指していたとみられる。685年頃、亡命中のカドワラは軍を率いてサセックス王国へ侵攻、迎え撃ったサセックス王エゼルウェルフを討ち取る勝利をおさめてサセックス王国各地を劫掠したが、ベルトゥン(Berhthun)とアンドゥン(Andhun)という二人のエアルドールマンの反撃によって撤退した(12高橋博 訳(2008)214頁)。

治世

「600年頃のブリテン島」

「600年頃のブリテン島」
credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons


アングロ・サクソン年代記」によれば、カドワラは685年頃から「王国を獲得しようと行動し始めた」(13大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、54頁)。その後、ケントウィネ王が退位して修道院に隠棲することとなり、カドワラが王位に就いた。カドワラ王は即位してすぐにサセックス王国へ再侵攻すると、前回敗北を喫したベルトゥンを殺害、サセックス王国を支配下に置いた。

686年、カドワラ王はワイト島へ侵攻、ワイト島の王家を滅ぼし征服した。このときワイト島の王アルワルドの二人の王子がウェセックス軍に勝利するなど奮戦したが、捕らえられて殺された。当時のワイト島について「アングロ・サクソン年代記」によれば、ウェセックス王国の始祖チェアディッチが530年にワイト島を征服、チェアディッチの死にともない二人の甥にワイト島が与えられたという(14大沢一雄(2012)29頁)が、この記述は裏付けがなく歴史性は定かでない。より近い時代に関する記述として、661年、マーシア王ウルフヘレがワイト島を征服、サセックス王アゼルワルドへ与えたという(15大沢一雄(2012)47頁)。「アングロ・サクソン年代記」ではこのときにワイト島住民がキリスト教に改宗されたとし(16大沢一雄(2012)47-48頁)、「アングル人の教会史」ではカドワラ王の征服後だとする(17高橋博 訳(2008)216-217頁)。カドワラ王は住民を徹底的に殺戮して抵抗を抑えつける一方、サセックス王国征服後に顧問としていた司祭ウィルフリッドの勧めに従いワイト島の四分の一を教会に寄進、修道院を設立するなどキリスト教への改宗を進めた。

同年、続いてケント王国へ侵攻、ケント王エアドリックに代わり、弟のムル(Mul)をケント王として擁立し、あわせてロチェスターの北東に位置するフーに修道院を建てて支配を固めたが、687年、ケント王国で大規模な反乱が勃発しムル王を始め12人が殺害された(18大沢一雄(2012)54頁)。このため、カドワラ王自らケント王国へ再侵攻して反乱を鎮圧したという。また、この間にカドワラ王は再度ワイト島へ侵攻しており、反乱鎮圧にあたっていたとみられる。このワイト島での戦いで負った傷が元で体調を崩し、退位を決意する。

688年、カドワラ王は退位するとキリスト教への改宗を望みローマへ巡礼の旅に出る。後を継いだのは同じくチェウリン王を祖とするイネ王で、以後37年続くイネ王時代にウェセックス王国は内政を整えアングロ・サクソン諸国の列強の一つとして地位を確立する。ローマを訪れたカドワラは復活祭の聖土曜日にローマ教皇セルギウス1世によって洗礼を受け、ペテロの名が与えられた。689年4月20日、ローマで亡くなりサン・ピエトロ大聖堂に葬られたという(19大沢一雄(2012)54-55頁/高橋博 訳(2008)275-276頁)。

参考文献

脚注