エゼルベルフト1世(ケント王)

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エゼルベルフト(Æthelberht)はアングロ・サクソン諸王国の一つケント王国の王(在位:580年頃-616年)。エゼルベルト、エセルベルトとも。八世紀の同名のケント王と区別してエゼルベルフト1世と呼ばれる。フランク王国の王族ベルタとの結婚を通じて大陸との密接な関係を築いた。596年、ローマからの宣教団を受け入れてアングロ・サクソン諸王国としては最初にキリスト教に改宗、カンタベリーに司教座を置いた。大陸との交易で栄え、ブリテン島に覇権を確立しブレトワルダの一人に数えられた。ゲルマン諸語で書かれた最古の部族法典エゼルベルフト法典を編纂した。キリスト教の聖人。

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ケント王国の発展

「ケント王国地図」

「ケント王国地図」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

ベーダ著「アングル人の教会史」(731年)や九世紀に編纂された「アングロ・サクソン年代記」などによると、ローマの支配体制が崩壊した後、北方のピクト人の脅威に対抗してブリトン人の王ヴォルティゲルンはサクソン人を招聘、西暦449年、アングル人とサクソン人が三隻の船でブリテン島へ上陸、その後アングル人、サクソン人、ジュート人の三部族が大挙してブリテン島へ到着した(1高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、38-39頁)。ヘンギストとホルサという兄弟がその指導者で、兄弟は北欧神話の主神ウォーデン(オーディン)の末裔で、多くの国の王家はウォーデンの血を引いているといわれる(2高橋博 訳(2008)39-40頁)。455年、兄弟はヴォルティゲルンと戦いホルサが殺されたものの、ヘンギストはケント王に即位、翌456年、ケントのクレイフォードでブリトン人を撃破して、ケントに支配を確立した。488年、ヘンギストの死後息子のアスクが王位を継承しケント人の王となったという(3大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、26-27頁)。

これらのエピソードはいずれも二百年以上後の記録に基づいており、裏付ける史料に欠けているため歴史的事実とは考えられてはいない。考古学的な成果は五〜六世紀以降、ケント地方にゲルマン系集団の移住があったことを明らかにしている。ケント王国があったブリテン島南東部を初めブリテン島東部・中部一帯には埋葬形式や副葬品など大陸と共通する特徴を持つアングロ・サクソン人墓地の遺構が分布している。ケント地方で代表的なフィングルシャム(Finglesham)のアングロ・サクソン人墓地は五世紀から八世紀にかけて使われ、遺骨のDNA調査でも多くが大陸からの移住者の特徴を持っており、五世紀から六世紀初頭にかけての大陸からケントへの継続的な移動を裏付けている(4Leggett, S.(2021).Migration and cultural integration in the early medieval cemetery of Finglesham, Kent, through stable isotopes. Archaeol Anthropol Sci 13, 171 (2021). DOI: 10.1007/s12520-021-01429-7)。

生涯

「カンタベリ大聖堂内のエゼルベルフト王像」

「カンタベリ大聖堂内のエゼルベルフト王像」
Credit: User:Saforrest, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

「ケント王エゼルベルフトのステンドグラス」(オックスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジ礼拝堂)

「ケント王エゼルベルフトのステンドグラス」(オックスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジ礼拝堂)
Credit: See description, Public domain, via Wikimedia Commons

即位と結婚

ベーダによればケント王国の初期の王はヘンギストから順にアスク、オクタ、エオルメンリクと続くが、これらの諸王については名前以外ほぼ不明で(5高橋博 訳(2008)83頁)、詳しい記録が残る最初のケント王がエオルメンリクの子で五代目の王となるエゼルベルフト王(在位580頃?-616年)である。

エゼルベルフト王の生年と即位時期は議論があるが、西暦560年頃に生まれ、580年頃にケント王に即位したとするのが通説として受け入れられている。エゼルベルフト王の事績において最も古い時期に関する記録は「アングロ・サクソン年代記」の568年の条にあるウェセックス王チェウリンに敗れケントへ追われたとの記録で、即位前の出来事とみられるが、568年とする年代については疑問視されている。

エゼルベルフトは即位以前の574年頃、メロヴィング朝パリ王カリベルト1世(Charibert I, 在位561-567年6メロヴィング朝フランク王国は建国者クローヴィス1世を継いだクロタール1世死後、子どもたちの間で四分割された。カリベルト1世はクロタール1世の三男でパリ周辺を支配する分王国の一つパリ王国の王。)の娘ベルタを妻に迎え、大陸と親密な関係を築いた(7「第三章 キリスト教への改宗」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、164頁))。婚姻に際してベルタ妃の信仰を保護する目的でフランク人司教リウドハルト(Liudhard)を伴う条件を受け入れ、王妃のためにカンタベリーに聖マーティン教会を設立した。

ベルタ妃との間には次のケント王エアドバルド(在位616-640年)とノーサンブリアのエドウィン王に嫁いだエゼルブルフの一男一女が生まれた。他に二人の子供だといわれる人物もいるが確かではない。

キリスト教への改宗

「エゼルベルフト王に説教する聖アウグスティヌス」

「エゼルベルフト王に説教する聖アウグスティヌス」
Doyle, James William Edmund (1864) “The Saxons” in A Chronicle of England: B.C. 55 – A.D. 1485, London: Longman, Green, Longman, Roberts & Green, pp. p. 25
Credit: James William Edmund Doyle, Public domain, via Wikimedia Commons

597年春、ローマ教皇グレゴリウス1世の命を受けたローマの聖アンデレ修道院の修道士アウグスティヌスが率いる宣教団40名がブリテン島南東部のサネット島に上陸した。エゼルベルフト王に書簡を送って滞在の許可を受け、数日後、王がサネット島を訪れ、野外でアウグスティヌスらと会談が行われた。屋外での会談となった理由は王が「どこかの家の同じ屋根の下に外来者を招き入れた場合、彼らが何かの魔術によって自分を欺いたり、打倒することがないように警戒していた」(8高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、44頁)からであったという。会談を経て王はケント王国での宣教団の布教活動を認め、カンタベリーに居住地と食料、生活必需品の提供を約束した。カンタベリーの司教座はこの597年を設立年としている。

598年、王妃ベルタが日々礼拝していた聖マーティン教会でアウグスティヌスらがミサや説教、布教活動を行うようになると、その姿に感銘を受けたエゼルベルフト王も改宗を決意した。

『布教者たちがこの教会で讃美歌を歌い、祈り、ミサを捧げ、説教し、洗礼を施し始めると、ついに王自身もこの信仰に回収する決意を固めた。(中略)聖人たちの汚れのない生活を目の当たりにし、またさまざまな奇跡によってその信憑性を確認させる甘美な魅力にとらわれた王は、大勢の家臣とともに喜んで洗礼を受けるのだった。』(9高橋博(2008)46頁

エゼルベルフト王は改宗の後、アウグスティヌスのためにカンタベリーに聖ペテロと聖パウロを奉献した教会の建設を命じ、アウグスティヌス死後に完成、後に聖オーガスティン修道院となった。以後、聖オーガスティン修道院は1538年にイングランド宗教改革で解体されるまでブリテン島南部における学問と文化の中心地として栄えることとなった。また、アウグスティヌスら宣教団によってカンタベリーに聖職者教育のための学校が設立されたと考えられており(10チャールズ=エドワーズ(2010)264頁)、1541年に設立されたカンタベリーのキングス・カレッジはこれを前身としているという(11History of the School“. The King’s School, Canterbury.)。

法典の編纂

「エゼルベルフト法典("Textus Roffensis"(ロチェスターの書))」(ロチェスター大聖堂図書館収蔵)

「エゼルベルフト法典(”Textus Roffensis”(ロチェスターの書))」(ロチェスター大聖堂図書館収蔵)
Credit: Ernulf, bishop of Rochester, Public domain, via Wikimedia Commons

エゼルベルフト王の事績として法典の編纂がある。王の名をとってエゼルベルフト法典と呼ばれ、”Textus Roffensis”(ロチェスターの書)と呼ばれる1122-24年頃にイングランドのロチェスターで編纂された写本に収録されている。フランク王国を始めとした大陸のゲルマン人諸国家がローマ法の影響下で相次いで制定したゲルマン部族法典の一つに位置づけられている。エゼルベルフト法典の編纂開始にローマ法の影響があることは確かだが、この法律自体にはローマ法の影響は見られないという(12高橋博 訳(2008)82頁/The Old English Newsletter,”The Laws of Æthelberht: A student edition“.The University of Massachusetts.)。また、他のゲルマン部族法典と違い、ラテン語ではなく現地語である古英語で執筆されている点も特徴的である。

エゼルベルフト法典がどのような目的で制定されたのか、なぜラテン語でなく古英語が使われたのかは不明である。法律を文書として残すことに意義があり、立法の記録ではなく自分たちの法を文書化することで大陸の先進的な諸国の仲間入りを果たすことを示す記念的事業であったのではないかともいわれる(13The Old English Newsletter,”The Laws of Æthelberht: A student edition“.The University of Massachusetts.)。エゼルベルフト法典は研究者によって分類の仕方で90条、85条、83条など分かれるが、内容は、教会と聖職者、王と王族、貴族、自由民、人身傷害、女性、半自由民、奴隷に対する罪の内容に応じた賠償金の額を定めたものである(14The Old English Newsletter,”The Laws of Æthelberht: A student edition“.The University of Massachusetts.)。

ベーダ著「アングル人の教会史」(731年)にはエゼルベルフト法典について「生前彼は賢明な配慮をもって住民に与えた恩恵に加えて、ローマ人の範例に倣って経験ある援助者たちの助言を受け入れ、厳正な法律の基準を確立した。それはイングランド人の言語で記され、現在に至るまで保持されている」(15高橋博 訳(2008)82頁)と紹介しており、”Textus Roffensis”収録の写本には法典の冒頭に「これらは、アウグスティヌスが存命中にエゼルベルフト王が制定した法令である」(16Attenborough, F.L. (1922), The Laws of the Earliest English Kings (Llanerch Press Facsimile Reprint 2000 ed.), Cambridge University Press.,p.5.)との一文が添えられている。アウグスティヌスは604年に亡くなっているのでエゼルベルフト法典の制定は597年から604年の間と考えられている(17The Old English Newsletter,”The Laws of Æthelberht: A student edition“.The University of Massachusetts.)。

エゼルベルフト王の覇権

アングル人の教会史」「アングロ・サクソン年代記」はともにブリテン島の諸王国に宗主権を行使したブレトワルダの一人としてエゼルベルフト王の名をあげている。「アングル人の教会史」によれば、エゼルベルフト王は「南部のすべての国を統治し、ハンバー川に至る全域を支配した」(18高橋博(2008)81-82頁)という。

エゼルベルフト王の覇権が具体的にどのような支配体制であったかは定かではないが、大陸との交易を背景とした豊かな経済力が支配の源泉となっていたとみられている。ローマ支配崩壊後大陸由来の貨幣はほとんど見つかっていなかったが、七世紀初頭のケント地方でビザンツやフランク王国の金貨が流通し始めたのが確認でき(19ハインズ、ジョン(2010)「第二章 社会、共同体、アイデンティティ」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、107頁)、ブリテン島南部のケント王国の宗主権下にあった地域の墓からは副葬品として豪華な装飾のブローチが多く発見される(20ハインズ(2010)112頁)など、エゼルベルフト王治世下のケント王国の豊かさが考古学的な発見で裏付けられている。

宗主権下の諸国への影響力を示す例として諸王へキリスト教への改宗を促したエピソードが記録に残る。エゼルベルフト王の甥にあたるエセックス王セアベルフトをキリスト教に改宗させ、エセックス王国のルンデンウィック(ロンドン)に司教座の設置を命じ、アウグスティヌス司教に仕えていた修道士メリトゥスを司教に任じた(21高橋博(2008)78頁)。また、イースト・アングリア王レドワルドもエゼルベルフト王の勧めに従いケント王国でキリスト教に改宗したという(22高橋博(2008)104頁)。エセックス王国ではエゼルベルフト王と甥のセアベルフト王が相次いで亡くなるとロンドン司教座は廃止され、メリトゥス司教も追放された。イースト・アングリア王国ではレドワルド王が改宗して帰国すると家臣や王妃の反対にあい早々に妥協の道を選び、神殿にはキリスト教の祭壇と古くからの北欧の神々のための祭壇が併存していたという。これらはエゼルベルフト王の覇権を背景とした改宗であったとみられている。

参考文献

脚注