ピクト人

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ピクト人(英語:Picts、ラテン語:Picti)はフォース川以北のスコットランド東部から北部にかけてローマ帝国のブリテン島侵攻以前から先住していた諸部族の総称で、ローマ帝国に対抗した先住諸部族の連合体から発展して政治的文化的統一を果たしたと考えられている。ピクト人の名称は三世紀頃からローマ人が用いるようになったもので「彩色された(刺青のある)人々」の意味。七世紀頃、有力部族の一つフォルトリウ族を中核として政治的に統一したとみられる。843年、ケネス・マカルピンがピクト王国とスコット人のダルリアダ王国を統一した。この統合王国は十世紀初め頃からアルバ王国を称するようになり、のちにスコットランド王国へ発展した。

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名称

「ピクト(ピクティ)」という名称の初出はローマ皇帝コンスタンティウス1世のブリテン島再征服を記念した西暦297年頃の称讃文(Panegyric)で、「彩色された人々」を意味し、ピクト人の刺青の習慣に由来すると考えられているが、「裸体で刺青をする好戦的な野蛮人」という含みを持つ蔑称であったとみられる(1立野晴子「ピクト人のシンボル・ストーン」(木村正俊(2018)『ケルトを知るための65章』明石書店、エリア・スタディーズ、249頁))。また、古アイルランド語では、ピクト人は〝Cruthin”,〝Cruthini”等と書かれており、Cruthinは、Pゲール語でブリトン人(ブリテン島の先住民全般)を意味する〝Britanni”に当たるQゲール語の Qritaniから派生したもので、Cruthinは,ローマに征服されたブリタニアの外に住んでいたブリトン人を意味していたと考えられている(2久保田義弘(2013)「中世スコットランドのピクト王国」(『札幌学院大学経済論集 6』1頁))。このように、ピクト人という名称はあくまでローマ人による呼び方であり、彼らが自分たちのことをなんと呼んでいたかは定かではない。

歴史

ローマ時代

「十六世紀頃に描かれたピクト人のイラスト」(ニューヨーク公共図書館収蔵)
Credit:Veen, Gijsbert van, Public Domain, The Miriam and Ira D. Wallach Division of Art, Prints and Photographs: Art & Architecture Collection, The New York Public Library. (1757 - 1772). Habit of a Pict. Ancient Pict. Retrieved from https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47e4-81b0-a3d9-e040-e00a18064a99

「十六世紀頃に描かれたピクト人のイラスト」(ニューヨーク公共図書館収蔵)
Credit:Veen, Gijsbert van, Public Domain, The Miriam and Ira D. Wallach Division of Art, Prints and Photographs: Art & Architecture Collection, The New York Public Library. (1757 – 1772). Habit of a Pict. Ancient Pict.

ピクト人に関する史料は非常に少なく、彼らが文字を持たなかったこともあり、特に初期のピクト人については謎に包まれている。「ピクト」の名称が登場する以前にブリテン島北部にいた先住民として知られるのが一世紀にローマ帝国の将軍アグリコラによるブリタニア北方遠征(79-84/85年)でローマ軍と戦ったカレドニイ(Caledonii)族である。カレドニイ族はセプティミウス・セウェルス帝(在位193-211年)とカラカラ帝(在位211-217年)によるブリタニア遠征(208-212年)で弱体化するまで一世紀余りの間たびたびハドリアヌスの長城を越えて侵攻、ローマ帝国北辺を脅かし続けた。

三世紀の軍人皇帝時代の混乱の中、286年に英仏海峡を守備していた軍人カラウシウスがブリタニア属州を掌握し皇帝を自称(在位286-293年)した。ディオクレティアヌス帝(在位284-305年)は帝国を東西に分割しそれぞれに正帝と副帝を置く四分統治体制(テトラルキア)を創始、293年、西方副帝コンスタンティウス1世(在位293-305年(西方副帝)、305-306年(西方正帝))はカラウシウスを破り、296年、後継者のアレクトゥスを滅ぼしてブリタニアの再征服に成功した。この戦勝を記念した西暦297年頃の称讃文(Panegyric)に初めてピクト人という名称が登場し、以後非常に活発に活動を開始した。306年、ピクト人征討のためコンスタンティウス1世はブリテン島への再遠征を敢行しピクト人へ痛撃を与えたが、遠征途上、エボラクム(ヨーク市)で亡くなった。後を継いだコンスタンティヌス1世(在位306-337年)は他の皇帝たちの反抗を受けたためブリテン島の駐留軍から大部分を大陸に割かざるを得ず、ブリテン島の情勢は不安定化した。

367年、後に「大陰謀(Great Conspiracy)」あるいは「蛮族の共謀(Barbarian Conspiracy)」と呼ばれる事件がおこる。同年冬、ローマ軍の一部の部隊の反乱とともにピクト人が南下、さらに時を同じくして西からアイルランドのスコット人、北から詳細不明のアッタコッティ族が一斉にブリテン島へと襲いかかり各地でローマ軍が壊滅、都市の多くが破壊・略奪され、368年、派遣されてきた将軍テオドシウス(後の皇帝テオドシウス1世)によって撃退された(3コンスタンティヌス朝時代、ブリテン島では「アルカーニー(arcani)」と呼ばれるローマ軍の偵察部隊の多くがピクト人に通じてローマ軍の情報を漏らし利益を得るという腐敗が横行するようになったが、この侵攻の際に「アルカーニー」の多くがピクト人と通じて侵攻を手引したと言われている)。これらに加えてブリテン島南岸からサクソン人の襲撃があったとも言われる。諸勢力間で示し合わせたものではないと現在は考えられているが、史料の限界から不明な点が多くよくわかっていない(4この事件は同時代の歴史家アンミアヌス・マルケッリアヌスの記述に依拠しており、何が起きたか歴史家によって見解が別れている/ケイシー、P・J(2011)「第四章 古代末期のブリテン島」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、117-119頁))。

ピクト王国の成立

ローマ軍がブリテン島から去った五世紀以降ピクト人に関する同時代の文献資料はほとんど存在せず、後世の記録が主要な情報源となっている。六世紀の聖職者ギルダスが書いた歴史書”De Excidio et Conquestu Britanniae”(ブリタニアの破壊と征服について)によれば、ローマ撤退後、ピクト人とスコット人らが旧ブリタニア属州へ侵攻を開始して各地が荒廃したためブリトン人の王がサクソン人を傭兵として対抗させたという。九世紀に編纂が開始された「アングロ・サクソン年代記」はこれが西暦449年の出来事でブリトン人の王の名はヴォルティゲルン、サクソン人の指導者はヘンギストとホルサという兄弟であるとしているが、これを裏付けることはできない。

七世紀末にアイオナ修道院長アダムナーンが書いた「聖コロンバ伝」によると、「ブリテンの尾根」がピクト人とスコット人の境界となっているという。「ドルム・アルヴァン(ラテン語:Druim Alban、アルバの尾根)」と呼ばれる山岳地帯の南にスコット人、北にピクト人が住んでいた。この「ドルム・アルヴァン」が現在のどこにあたるかは諸説あるがグランピアン山脈の南西部グレンロッキー近郊の山嶺というのが有力である(5Clarkson,Tim. (2015).”Druim Alban: the Spine of Alba)。ピクト王国は「ドルム・アルヴァン」を南限としてハイランド地方の南東部に南ピクト王国、北東部に北ピクト王国の2つに大きく分かれ、北ピクト王国はカイト(Cait),フィダッハ(Fidach)、ケ(Ce)の三王国、南ピクト王国はフォルトリウ(Fortriu)、フィブ(Fib)、キルキン(Circinn)、フォトラ(Fotla)の四王国から構成される(6木村正俊(2021)『スコットランド通史 政治・社会・文化』原書房、50頁/久保田義弘(2013)2-3頁)。

「ピクト王ブリデ1世と聖コルンバ」(ウィリアム・ホール作、1899年頃、スコットランド国立肖像画美術館収蔵)
Credit: William Hole, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

「ピクト王ブリデ1世と聖コルンバ」(ウィリアム・ホール作、1899年頃、スコットランド国立肖像画美術館収蔵)
Credit: William Hole, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons


「ピクト年代記」の十四世紀以降の写本に歴代ピクト王の一覧表が残され、初期の王たちについては他の情報源がなく実在したか不明だが、六世紀末のブリデ1世(Bridei I,在位580-584年)が他の資料にも登場する実在したことが有力な最初のピクト王と考えられている。アダムナーンは当時ブリテン島北部へのキリスト教布教を主導していた聖コルンバとブリデ1世が会談したと書いており、ブリデ1世が改宗したかは定かでないが、六世紀後半ピクト王国にキリスト教が広がったと見られる。これは考古学的にも裏付けられており、ハイランド地方イースターロスのタルバット半島にある漁村ポートマホマックで六世紀後半とみられるピクト王国最古の修道院遺跡が見つかっている(7University of York.(2003).”Tarbat Discovery Programme: Bulletins“.)。

七世紀後半からピクト人の諸王国の中で力を持つようになったのが現在のストラスアーンあるいはマリからイースターロスにかけての地域を支配(8伝統的にはストラスアーンと考えられてきたが、近年はマリやイースターロスにあった可能性も有力となっている)していたフォルトリウ王国である。フォルトリウ王国は対ローマ帝国連合の中核を担っていたウェルトゥリオネス族を起源とし、七世紀にノーサンブリア王国ダルリアダ王国など諸国との戦いの中でピクト王国における支配的な地位を確立した。685年、ドゥーン・ネフタン(ダンニヒェン)の戦いでノーサンブリア王国を撃退したブリデ3世(在位672-693年)がピクト王とフォルトリウ王を兼ねた最初の王とみられ、以後フォルトリウ王はピクト王と同義となる(9常見信代(2017)「史料と解釈 : スコットランド中世史研究の問題」(『北海学園大学人文論集 (62)』41頁))。

724年、息子二人を失ったピクト王ネフタン4世が甥のドルスト7世によって退位させられた事件を契機に王位継承を巡り四人の王が争う内乱となった。731年、この争いを勝ち抜いたオエンガス1世(在位731-761年)によってピクト王国が統一されブリテン島有数の強力な王国が誕生する。740年頃からオエンガス1世はイングランド中部の強国マーシア王エセルバルドと同盟を結んでノーサンブリア王国に対抗、750年頃までピクト=マーシア同盟がブリテン島全土に上級支配権を行使していたと考えられている(10チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)「第一章 王国と民を俯瞰する」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、70頁))。741年、ダルリアダ王国を支配下におき、756年にはノーサンブリア王国と同盟を結んでストラスクライドのアルト・カルト王国を撃破して臣従させた。

ダルリアダ王国との統合

ダルリアダ王国
ダルリアダ王国(Dalriada / アイルランド語"Dál Riata" ダール・リアタまたはリアダ)は六世紀頃から九世紀頃にかけて、ノース海峡を挟んでスコットランド西部アーガイル地方とアイルランド北東部アントリムにまたがる地域を支配した...

「西暦590年頃のダルリアダ王国(緑)」 Credit:Briangotts, Public domain, via Wikimedia Commons

「西暦590年頃のダルリアダ王国(緑)」
Credit:Briangotts, Public domain, via Wikimedia Commons

ダルリアダ王国はノース海峡を挟んでアイルランド北東部アルスター地方アントリムからスコットランド西部のアーガイル地方にまたがるスコット人の王国である。五世紀頃にアイルランドにいたスコット人がスコットランドに移住・征服してダルリアダ王国を建国したと伝わるがスコット人移住を示す考古学的な証拠はほとんど存在しないため、現在は疑問視されている(11スコット人移住・征服説は10世紀以降の文献に基づきゲール語のスコットランド西部への拡大がスコット人の移住によるものと言う前提があったが、1970年代からグラスゴー大学の考古学者レスリー・オルコック教授らが疑義を呈し、1980年代から行われたダルリアダ王国の首都ドゥナドの発掘調査でも移住の痕跡は発見されず、この発掘調査を指揮したユアン・キャンベル博士が2001年に発表した論文「スコットはアイルランド人か?”Were the Scots Irish?”」で否定し一石を投じた。(常見信代(2017)29-31頁/Campbell, Ewan.(2001). “Were the Scots Irish?” in Antiquity No. 75 . pp. 285–292.))。

ダルリアダ王国は六世紀後半アイダーン王(在位574-608年)の治世下で最盛期を迎える。575年、聖コロンバの仲介でアルスターの最大勢力だった北イー・ネールと同盟を結び後顧の憂いを断つとバーニシア王国やピクト王国など周辺諸国を相次いで撃破し領土を拡大した。しかし隆盛は長く続かず、アイダーン王死後の王位を巡る内紛と諸国の反抗で相次いで破れて弱体化し、637年、北イー・ネールとの同盟を破棄して北イー・ネールと対立するウライド王国と結び、現在の北アイルランド・ダウン州モイラで北イー・ネールと戦い敗北、程なくアイルランドのダルリアダ領を喪失した。その後も衰退に歯止めがかからず、736年、ピクト王オエンガス1世の攻撃に抗えず首都ドゥナドを占領され、741年、ピクト王国に従属を余儀なくされた。

ダルリアダ王国はピクト王国の従属下となってから盛り返すことはなく、792年を最後にピクト王がダルリアダ王を兼ねるようになったとみられ、839年、ヴァイキングの侵攻でピクト王家の人々が亡くなり、843年、ケネス・マカルピンがピクト王に即位してダルリアダ王国とピクト王国を統合する(12定説では九世紀にダルリアダ王国によるピクト王国の併合が起こってゲール語への置き換えなどゲール化が進み、839年のヴァイキングの侵攻でダルリアダ王家の人々が戦死して新たにダルリアダ王となったケネス・マカルピンがピクト王を兼ねるというスコット人によるピクト王国併合説が有力であったが、現在は否定的な説が有力となっている(常見信代(2017)35-38頁/久保田義弘(2013)71頁))。ピクト王国によるダルリアダ王国の併合の結果、スコット人の文化とピクト人の文化の融合が進み、ケネス・マカルピンがピクト王に即位したことで政治的統一に向かったと考えられているが、スコット人のピクト領域への移住はさらに古くから起きていたため、文化や言語の浸透は併合以前から徐々に進んでいた可能性が高い(13ブリデ3世の娘と結婚しピクト王ブリデ4世、ネフタン4世の父となった人物はダルリアダのコムガル家出身でコムガル家の領地もストラスアーンに近く、一族の一部がストラスアーンからファイフにかけて移住していたとみられる(常見信代(2017)37-38頁))。

十世紀初め頃、ドナルド2世(在位889-900年)あるいはコンスタンティン2世(在位900-943年)の時代からアルバ王を称するようになり、デイヴィッド1世(在位1124-1153年)がスコットランド王を名乗りスコットランド王国へと発展する。この過程でピクト語が衰退しゲール語が浸透、ゲール文化がロウランド地方を中心に広がってかつてアイルランド人/アイルランドを指していたスコット/スコウシア(スコットランド)がブリテン島北部の人々とブリテン島北部を指すようになった。このピクト文化がゲール文化に取って代わられる過程がどのように展開したかは当時の史料が少なくはっきりしない。

十世紀末からケネス・マカルピンとその子孫の諸王がダルリアダ王家の出身であるとする文書が登場し、アルバ王家はピクト人ではなくスコット人であるという共通認識が形成された。1249年に行われたアレグザンダー3世(在位1249-1286年)の即位式では王の祖先をダルリアダ王国伝説の建国者ファーガス大王(エルクの息子ファーガス)とし、さらにアイルランド伝説の諸王へと遡らせた。「つまりスコットランド王は,単にダール・リアダの正統な王統に属するだけでなく,アイルランドにそのルーツがあることを宣言したのである。」(14常見信代(2017)44頁)。ピクト人としてのアイデンティティはスコットランド王国成立にいたる過程で消えていくこととなった。

ピクト人のレガシー

ピクト人が残した遺産の代表的なものが「シンボル・ストーン」と呼ばれる様々な図像や文様が彫り込まれた石碑群である。六世紀頃から九世紀末にかけてピクト人の領域であったフォース川とクライド川を結ぶラインの北側に多く点在している。彫刻様式によってクラスIからクラスIIIまで3つに分類され、クラスIは最初期の七世紀以前に登場する「自然石や立石にピクト特有の抽象的な文様を刻む、装飾のほとんどない浅浮き彫りの石版」、クラスIIは七世紀頃から登場する「三つ巴文様や組み紐文様または渦巻き文様が加わり、さらに突起装飾や動植物文様の複雑に絡み合う高度なデザイン」が刻まれたもので「キリスト教のシンボリズムやピクト人の好んだテーマ『戦闘場面』のモチーフ」が主題となり、クラスIIIになると「クラスIのピクトのシンボルは消え、石版は細くなり、裏面の人物群も整然と配置」されてハイクロス様式が主流となる(15立野晴子(2018)250-251頁))。

「ピクト的シンボルには(i)ピクト国に生息する狼、蛇、牡鹿、馬などの生き物と神話的怪獣、(ii)日常生活で使われる大釜、鏡、櫛などの具象的道具類、(iii)<二重円盤とZ型棒>、<三つ組円盤>、<三日月とV型棒>などのピクト特有の抽象的図形がある」(16立野晴子(2018)250-251頁)

「アンガス州アバーレムノのクラスIシンボルストーン(六〜七世紀頃)」
Credit: Catfish Jim and the soapdish at English Wikipedia, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

「アンガス州アバーレムノのクラスIシンボルストーン(六〜七世紀頃)」
Credit: Catfish Jim and the soapdish at English Wikipedia, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

「アンガス州アバーレムノのクラスIIシンボルストーン(八〜九世紀半ば頃)の表面」
Credit: Otter, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

「アンガス州アバーレムノのクラスIIシンボルストーン(八〜九世紀半ば頃)の表面」
Credit: Otter, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

「アンガス州アバーレムノのクラスIIシンボルストーン(八〜九世紀半ば頃)の裏面」<br />Credit: Otter, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

「アンガス州アバーレムノのクラスIIシンボルストーン(八〜九世紀半ば頃)の裏面」
Credit: Otter, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

ハイクロス(高十字架)は七世紀頃から十二世紀頃にかけてアイルランド島とブリテン島北部を中心にウェールズ地方、コーンウォール地方などに広く見られる装飾が彫られた石製の十字架像で、初期はキリストを表すXとPの組文字カイロー(Chi-Rho)を花輪で囲む装飾が彫られ、後に聖人像や精緻な飾り文字などの浮き彫りがみられるようになった。他地方と違ってスコットランドではシンボルストーンから発展して様々なピクトのシンボルが彫られ、後にキリスト教のシンボルが取って代わるようになった(17木村正俊「ケルト十字架の装飾」(木村正俊(2018)『ケルトを知るための65章』明石書店、エリア・スタディーズ、247頁))。

ピクトのシンボルを使った装飾品も多く発見されている。イースト・ロージアン州ハッディントン市近郊の丘陵トラップレイン・ロウ(Traprain Law)で発見された大量の銀片は五世紀初めごろのもので、ローマ人が使った銀食器や貨幣を再利用するために押しつぶしたものとみられ、略奪品あるいはローマ軍から支払われた傭兵報酬であったとも考えられており、この発見品の中には再鋳造された円環が組み合わされたネックレスなどがある(18Traprain Law treasure“. National Museums Scotland. )。ファイフ州の丘陵地ラルゴのノリーズ・ロウ(Norrie’s Law)で1819年に発見された六世紀頃と推定されている宝物群はピクト人の装飾品としては最大の発見となった。発見後多数が散逸したが170点ほどが現存し、ほぼ銀片から構成されているが、ピクトのシンボルが描かれたプレート、大きなハンドピン、螺旋状の指輪、ねじれた輪が付いた大きなブローチの4点が代表的な宝物として知られる(19Norrie’s Law Hoard“. National Museums Scotland. )。

「ノリーズ・ロウの宝物の一つ、ピクトのシンボルが描かれた銀のプレート」(スコットランド国立美術館収蔵)
Credit: dun_degh, CC BY-SA 2.0  https://flickr.com/photos/60006733@N05/7831900056

「ノリーズ・ロウの宝物の一つ、ピクトのシンボルが描かれた銀のプレート」(スコットランド国立美術館収蔵)
Credit: dun_degh, CC BY-SA 2.0 https://flickr.com/photos/60006733@N05/7831900056

参考文献

脚注

  • 1
    立野晴子「ピクト人のシンボル・ストーン」(木村正俊(2018)『ケルトを知るための65章』明石書店、エリア・スタディーズ、249頁)
  • 2
    久保田義弘(2013)「中世スコットランドのピクト王国」(『札幌学院大学経済論集 6』1頁)
  • 3
    コンスタンティヌス朝時代、ブリテン島では「アルカーニー(arcani)」と呼ばれるローマ軍の偵察部隊の多くがピクト人に通じてローマ軍の情報を漏らし利益を得るという腐敗が横行するようになったが、この侵攻の際に「アルカーニー」の多くがピクト人と通じて侵攻を手引したと言われている
  • 4
    この事件は同時代の歴史家アンミアヌス・マルケッリアヌスの記述に依拠しており、何が起きたか歴史家によって見解が別れている/ケイシー、P・J(2011)「第四章 古代末期のブリテン島」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、117-119頁)
  • 5
    Clarkson,Tim. (2015).”Druim Alban: the Spine of Alba
  • 6
    木村正俊(2021)『スコットランド通史 政治・社会・文化』原書房、50頁/久保田義弘(2013)2-3頁
  • 7
    University of York.(2003).”Tarbat Discovery Programme: Bulletins“.
  • 8
    伝統的にはストラスアーンと考えられてきたが、近年はマリやイースターロスにあった可能性も有力となっている
  • 9
    常見信代(2017)「史料と解釈 : スコットランド中世史研究の問題」(『北海学園大学人文論集 (62)』41頁)
  • 10
    チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)「第一章 王国と民を俯瞰する」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、70頁)
  • 11
    スコット人移住・征服説は10世紀以降の文献に基づきゲール語のスコットランド西部への拡大がスコット人の移住によるものと言う前提があったが、1970年代からグラスゴー大学の考古学者レスリー・オルコック教授らが疑義を呈し、1980年代から行われたダルリアダ王国の首都ドゥナドの発掘調査でも移住の痕跡は発見されず、この発掘調査を指揮したユアン・キャンベル博士が2001年に発表した論文「スコットはアイルランド人か?”Were the Scots Irish?”」で否定し一石を投じた。(常見信代(2017)29-31頁/Campbell, Ewan.(2001). “Were the Scots Irish?” in Antiquity No. 75 . pp. 285–292.)
  • 12
    定説では九世紀にダルリアダ王国によるピクト王国の併合が起こってゲール語への置き換えなどゲール化が進み、839年のヴァイキングの侵攻でダルリアダ王家の人々が戦死して新たにダルリアダ王となったケネス・マカルピンがピクト王を兼ねるというスコット人によるピクト王国併合説が有力であったが、現在は否定的な説が有力となっている(常見信代(2017)35-38頁/久保田義弘(2013)71頁)
  • 13
    ブリデ3世の娘と結婚しピクト王ブリデ4世、ネフタン4世の父となった人物はダルリアダのコムガル家出身でコムガル家の領地もストラスアーンに近く、一族の一部がストラスアーンからファイフにかけて移住していたとみられる(常見信代(2017)37-38頁)
  • 14
    常見信代(2017)44頁
  • 15
    立野晴子(2018)250-251頁)
  • 16
    立野晴子(2018)250-251頁)
  • 17
    木村正俊「ケルト十字架の装飾」(木村正俊(2018)『ケルトを知るための65章』明石書店、エリア・スタディーズ、247頁)
  • 18
    Traprain Law treasure“. National Museums Scotland.
  • 19
    Norrie’s Law Hoard“. National Museums Scotland.