デイラ王国

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デイラ王国(またはディアラ王国、Kingdom of Deira)はティーズ川を北限、ハンバー川を南限とした現在のヨークシャー州東部にあたる地域に六世紀頃登場したアングル人の王国である。七世紀以降首都はヨークに置かれた。ティーズ川の北に登場したバーニシア王国と争い、604年頃バーニシア王エセルフリスに征服されたが、エドウィン王の頃にバーニシア王国を併合してノーサンブリア地方全体を支配した。エドウィン王死後バーニシア王国と再分裂して争うがバーニシア王オスワルド、同オスウィウによって繰り返し併合され、651年、オスウィネ(オズウィン)王の死でデイラ王家直系が絶えた後はバーニシア王家からデイラ王が出て、879年、デイラ王位は廃止、ノーサンブリア王国に統合された。

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デイラ王国の起源

「デイラ王国」

「デイラ王国」
Credit:Luigimalatesta, Public domain, via Wikimedia Commons

デイラ王国はハンバー川の北部、現在のヨークシャー州東部イーストライディング・オブ・ヨークシャーに六世紀頃から登場する。デイラ王国があった地域はローマ時代のブリトン人のパリシィ(Parisi)族の土地に相当するが、デイラ王国もパリシィ族の中心的な集落だったハンバー川沿いのローマ城塞ペチュアリア(”Petuaria”現在のブラフ(Brough)市)から徐々に内陸に版図を広げていったとみられる。ハンバー川沿いには五世紀半ば頃にはアングロ・サクソン人の墓地が多く見られることからローマ撤退後の早い時期からアングル人の入植が進んでいた。

デイラ王国の成立は六世紀半ば頃と見られ、「ブリトン人の歴史」には北欧神話の主神オーディンに始まる王家の系譜が書かれソエミル(Soemil)という王がバーニシアからデイラを分離したとある(1瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、55-56頁)が、六世紀半ば以前のバーニシア王国にあたる地域にアングル人がいたことを示す考古学的証拠がデイラ王国と比較して乏しく(2Henson, Donald.(2008).The early kings of Bernicia. Academia.Edu.)、近年ではバーニシア王国の建国時期を570年代まで遅らせる説もあり、これがバーニシア王国から分離して建国したことを示すのか、バーニシア王国以前からデイラ王国が存在していたが政治的には従属していたのかなど、事実関係は不明である。

記録上年代が比定できる最初の王は「ブリトン人の歴史」でソエミルの玄孫とされるエッレ(Ælle、またはエッラ”Ælla”)王である。エッレ王は「アングロ・サクソン年代記」で560年に即位したとの記録がある。エッレ王は590年以前、娘アッカ(Acha)をバーニシア王エセルフリスに嫁がせた。「アングロ・サクソン年代記」は588年にエッレ王が亡くなり以後五年間エセルリック王が統治して593年にバーニシア王エセルフリスがデイラ王位を継承したという(3大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、32頁)。一方、ベーダの「時間の計算について(ラテン語: De temporum ratione,英語: The Reckoning of Time)」(725年)では聖アウグスティヌスケント王国に到着した597年当時、エッレ王は存命であったといい、エセルフリス王は616(617)年に亡くなるが、その12年前にデイラ王に即位したとする他の史料もある。史料間の記述に矛盾があるため年代は議論があるが、「アングロ・サクソン年代記」の記述にあるデイラ王交代の年代は疑問視されており、エセルフリス王のデイラ王即位は604年または605年頃とみられている(4Nayland, Carla.”Origins of Northumbria: Dating Aethelferth’s annexation of Deira)。

エドウィン王の覇権

ノーサンブリアのエドウィン

「イースト・ライディング・オブ・ヨークシャーのスレッドミア村のセント・メアリー教会にあるエドウィン王のステンドグラス」
Credit:DaveWebster14, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons

ノーサンブリアのエドウィン(デイラとバーニシアの王)
エドウィン(英語:Edwin,古英語:Ēadwine,586年頃生-633年10月12日没)は七世紀始め、ノーサンブリア地方一帯を支配した君主。586年頃、デイラ王国のエッレ王の子として生まれたが、604年頃、バーニシア王エセルフリスによっ

エセルフリス王のデイラ王国支配は長くは続かず、616年または617年、亡命していたエッレ王の王子エドウィンを支援したブリテン島南部のイースト・アングリア王国アイドル川の戦いでバーニシア軍を撃破、エセルフリス王の戦死で支配体制が崩壊した。

戦後、イースト・アングリア王レドワルドの支援を受けたエドウィンがデイラ王に即位、続いてバーニシア王国を征服する。エドウィン王は即位後すぐの時期にまず西隣のブリトン人王国エルメット王国を征服、また、六世紀後半からエドウィン王時代の時期にエボラクム(ヨーク市)を中心に栄えていたブリトン人のエブラウク王国を征服、エドウィン王の時代にエオヴォルヴィク(Eoforwic)と呼ばれたヨーク市は中核都市として発展を遂げた(5Anglian York: History of York)。

624年頃、イースト・アングリア王レドワルドが亡くなるとエドウィンが名実ともにブレトワルダとしてイングランドに君臨した。ベーダアングル人の教会史」によればその勢威はケント王国を除くブリタニア全域に及び、マン島も支配下に置いたという。またアングルシー島へ攻撃を加えウェールズ地方も一部を支配下とした。チャールズ=エドワーズによれば、アングルシー島とマン島を支配することでアイリッシュ海を通じた地中海、イベリア半島、フランク王国のガリア地方との交易ルートへの参入が可能となり、さらにブリテン島西部やアイルランド東部沿岸での水軍の展開もできるようになったという(6チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、53-54頁)また、627年、キリスト教に改宗し領内での布教を許可、ノーサンブリア地方のキリスト教化を推し進めた。

バーニシア王国との争覇

「七世紀のノーサンブリア勢力図」

「七世紀のノーサンブリア勢力図」
credit: myself / CC BY-SA / wikimedia commonsより


633年、エドウィン王の覇権に脅威を覚えたグウィネズ王国のカドワソン王とマーシア王国ペンダ王が同盟を結び、10月12日、ハットフィールド・チェイスの戦いでグウィネズ・マーシア連合軍が勝利しエドウィン王と二人の王子が戦死した。勝利の勢いに乗ってカドワソン王はノーサンブリア各地を寇掠、混乱の中、デイラ王にはエドウィンの従兄弟オスリックが即位し、バーニシア王には前王エセルフリスの子エアンフリスが即位して両国の統一体制は崩壊した。しかし、634年、まずデイラ王オスリックがカドワソンとの戦いで戦死、続いてカドワソンとの和平交渉に赴いたバーニシア王エアンフリスも騙し討ちにあって殺害される。同年、ヘブンフィールドの戦いでエアンフリスの弟オスワルドカドワソン王率いるグウィネズ王国軍に勝利して戦乱を終わらせ、改めてバーニシアとデイラ両国の統一に成功した。しかし平和は続かず、642年、マーサフェルスの戦いでオスワルド王はマーシア王ペンダに敗れて戦死し、またも分裂の時代を迎える。

642年、オスワルド王の後を継いだ弟オスウィウがバーニシア王に即位するが、644年、前のデイラ王オスリックの子オスウィネ(オズウィン)が即位しデイラ王国は改めてバーニシア王国から独立を果たした。ベーダアングル人の教会史」(731年)によれば「オスウィネはデイラの国を大いに繁栄させ、七年間統治した。公正で、敬虔で、そのためすべての者に愛された」(7高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、139−140頁)と、善政を行ったがバーニシア王国との対立が深まりついに開戦に至った。オスウィウ王が集めた大軍の前に勝ち目が薄いと判断したオスウィネ王は軍を解散してこの戦いを回避し捲土重来を期すが、651年8月20日、オスウィネ王は少数の供を連れて北ヨークシャーのギリングにある信頼する重臣フムワルド(Humwald)の領地を訪れた際、裏切りにあって殺害される。このオスウィネ王の死によってデイラ王家の直系が絶えることとなった。

バーニシア王オスウィウは前のバーニシア王オスワルドの子アセルワルド(Œthelwald,在位651-655年)を空位となったデイラ王に即位させたが、アセルワルド王はマーシア王ペンダと同盟してオスウィウ王と対立するようになる。655年、マーシア王ペンダが周辺諸国から軍を動員した大軍勢でノーサンブリア地方へ侵攻、デイラ王アセルワルドもこの侵攻軍に加わりオスウィウ王を脅かした。追い詰められたオスウィウ王は少数の兵で一戦することを決断、655年11月15日、ウィンウェド(Winwæd)という名の川の近くでバーニシア王国軍がマーシア連合軍へ奇襲攻撃をかけた。戦いの際、大雨でウインウェド川は氾濫して戦場は水浸しと悪条件が重なっており、少数の精鋭からなるオスウィウ軍による雨中の奇襲で完全に虚を突かれたマーシア連合軍は序盤にグウィネズ王国軍がいち早く撤退、アセルワルド王率いるデイラ王国軍は戦場から距離を置いて戦闘に参加せず様子見に徹した。これによってマーシア連合軍はペンダ王が戦死するなど大敗した。

戦後、裏切りを重ねたアセルワルド王は廃位され、オスウィウ王は息子のアルフフリスをデイラ王に即位させ、デイラ王国を事実上バーニシア王国の下位王国とした。ハンバー川を南限、フォース川を北限とするイングランド北東部を指すノーサンブリアという地名が使われ始めるのは八世紀始めのことだが、オスウィウ王の直系によりデイラ王位が獲得された655年をもってデイラ王国はバーニシア王国と統一されノーサンブリア王国が成立したとみられる。デイラ王位はバーニシア王家直系によって継承され、ノーサンブリア王国の副王位として機能するようになった。664年、ウィットビー教会会議の結果アルフフリスはデイラ王から退位し、オスウィウ王の王子エッジフリスがデイラ王となった。オスウィウ王死後、エッジフリスが後を継いでノーサンブリア王に即位すると、エッジフリス王の弟エルフウィネがデイラ王に即位する。679年、トレントの戦いでエルフウィネ王がマーシア王国軍に敗れ戦死すると、以後デイラ王位は継承されず、名実ともにノーサンブリア王国の統一体制が確立した。

「700年頃の<a href=

ノーサンブリア王国地図」” width=”973″ height=”981″ class=”size-full wp-image-23283″ /> 「700年頃のノーサンブリア王国地図」
Credit: Ben McGarr, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

参考文献

脚注