ケント王国

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ケント王国(Kingdom of Kent)は五〜六世紀頃から九世紀末にかけて、ブリテン島東南部にあったアングロ・サクソン系の王国。七王国の一つ。いち早くキリスト教化して司教座が置かれたカンタベリ市、ロチェスター市が発展、フランク王国との親密な関係から大陸との交易で繁栄した。ブレトワルダの一人に数えられるエゼルベルフト王(Æthelberht , 在位?-616年)の時代に勢力を拡大したが、その後は強力な周辺諸国の台頭によって徐々に衰退し、八世紀半ば以降独立を喪失、871年、ウェセックス王国に併合された。

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建国伝説と大陸からの移住

「ケント王国地図」

「ケント王国地図」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

ノーサンブリア王国の聖職者ベーダが八世紀初めに著した「アングル人の教会史」によると、ブリトン人の王ヴォルティゲルンはピクト人の脅威に対抗してサクソン人を招聘、西暦449年、アングル人とサクソン人が三隻の船でブリテン島へ上陸、その後アングル人、サクソン人、ジュート人の三部族が大挙してブリテン島へ到着した(1高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫38-39頁)。ヘンギストとホルサという兄弟がその指導者で、兄弟は北欧神話の主神ウォーデン(オーディン)の末裔で、多くの国の王家はウォーデンの血を引いているといい(2高橋博 訳(2008)39-40頁)、ケント王エゼルベルフトの祖がヘンギストであるともいう(3高橋博 訳(2008)43頁)。また、九世紀に編纂された「アングロ・サクソン年代記」の449年の条で同様に、ブリトン人の王ヴォルティゲルンがヘンギストとホルサの兄弟を大陸から呼び寄せてピクト人と戦わせたとの記述がある。455年、兄弟はヴォルティゲルンと戦いホルサが殺されたものの、ヘンギストは王に即位、翌456年、ケントのクレイフォードでブリトン人を撃破して、ブリトン人はケントからロンドンに逃れた。488年、ヘンギストの死後息子のアスクが王位を継承しケント人の王となったという(4大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社26-27頁)。

これらのエピソードはいずれも二百年以上後の記録に基づいており、裏付ける史料に欠けているため歴史的事実とは考えられてはいない。ベーダの記述の参照元と考えられている、アングロ・サクソン系勢力の移住に関する記述がある最古の文献史料である六世紀の聖職者ギルダスが書いた「ブリタニアの破壊と征服について(De Excidio et Conquestu Britanniae)」(540年頃)では具体的な名前は記されず、ブリトン人の王が北方諸民族に対抗させるためサクソン人を呼び寄せたことが書かれている(5Gildas, De Excidio et Conquestu Britanniae, chapter XXIII , English Translation, The Project Gutenberg.)。また、ベーダが分類したジュート人ではなくローマ時代の地名であるカンティウムに由来する古英語カントワレ(”Cantware”「ケントの民」の意)という呼称で自らを呼んでいた(6ハインズ、ジョン「第二章 社会、共同体、アイデンティティ」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、116頁

考古学的な成果は五〜六世紀以降、ケント地方にゲルマン系集団の移住があったことを明らかにしている。ケント王国があったブリテン島南東部を初めブリテン島東部・中部一帯には埋葬形式や副葬品など大陸と共通する特徴を持つアングロ・サクソン人墓地の遺構が分布している。ケント地方で代表的なフィングルシャム(Finglesham)のアングロ・サクソン人墓地は五世紀から八世紀にかけて使われ、遺骨のDNA調査でも多くが大陸からの移住者の特徴を持っており、五世紀から六世紀初頭にかけての大陸からケントへの継続的な移動を裏付けている(7Leggett, S.(2021).Migration and cultural integration in the early medieval cemetery of Finglesham, Kent, through stable isotopes. Archaeol Anthropol Sci 13, 171 (2021). DOI: 10.1007/s12520-021-01429-7)。

エゼルベルフト王の治世

「カンタベリ大聖堂内のエゼルベルフト王像」

「カンタベリ大聖堂内のエゼルベルフト王像」
Credit: User:Saforrest, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

ベーダによればケント王国の初期の王はヘンギストから順にアスク、オクタ、エオルメンリクと続くが、これらの諸王については名前以外ほぼ不明で(8高橋博 訳(2008)83頁)、詳しい記録が残る最初のケント王がエオルメンリクの子で五代目の王となるエゼルベルフト王(在位580頃?-616年)である。即位時期については諸説あるが580年代頃とみられ、東西に分かれていたケント王国を統一、エセックス王国やイースト・アングリア王国に対し宗主権を行使するなどブリテン島南部の広い地域を勢力下に置き覇権を確立、ブレトワルダの一人に数えられた。またブリテン島最初のゲルマン部族法典であるエゼルベルフト法典を編纂し、統治体制を整えた。

エゼルベルフト王は即位以前(9574年頃とみられる(「第三章 キリスト教への改宗」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、164頁))にメロヴィング朝パリ王カリベルト1世(Charibert I, 在位561-567年10メロヴィング朝フランク王国は建国者クローヴィス1世を継いだクロタール1世死後、子どもたちの間で四分割された。カリベルト1世はクロタール1世の三男でパリ周辺を支配する分王国の一つパリ王国の王。)の娘ベルタを妻に迎え、大陸と親密な関係を築いた。考古学的にみても、多くの出土品からケント王国の物質文化におけるフランクの影響は非常に強く、六世紀後半、ケント王国は大陸との独占的な交易関係を通じて富を蓄え繁栄したと考えられている。

エゼルベルフト王はブリテン島の諸王国の中で最も早くキリスト教に改宗した王として知られる。エゼルベルフト王はベルタとの婚姻に際して王妃の信仰を保護する目的でフランク人司教リウドハルト(Liudhard)を伴う条件を受け入れつつも改宗には至らなかったが、聖マーティン教会を設立するなど寛容な態度であった。596年、ローマ教皇グレゴリウス1世はベネディクト派修道士アウグスティヌスら宣教団をケント王国へ派遣し、597年、一行はサネット島に上陸、エゼルベルフト王に宣教の許可を得て、ほどなくしてエゼルベルフト王自身もキリスト教に改宗、カンタベリに初の司教座が置かれて王国にキリスト教が広がることになった。

衰退

「600年頃のブリテン島」

「600年頃のブリテン島」
credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

616年、エゼルベルフト王が亡くなると同時にエゼルベルフト王の甥だったエセックス王セアベルフト(Sæberht, 在位?-616年)も死去、両王を後ろ盾にしていたロンドン司教メリトゥス(Mellitus)が追放されるなどケント王国からの離脱の動きが強くなる。616年または617年、イースト・アングリア王レドワルド(Rædwald, 在位599頃–624頃)はデイラの王子エドウィンを支援しアイドル川の戦いでバーニシア王エセルフリスを撃破、ノーサンブリア王国の建国を支援したことを契機に勢力を急拡大し、ケント王国にかわってイースト・アングリア王国が覇権を確立していく。

その後、イングランド北部にノーサンブリア王国、イングランド中部にマーシア王国、イングランド南西部にウェセックス王国が相次いで台頭したことでケント王国は衰退を余儀なくされた。特にケント王国の支配下でテムズ川沿いに栄えた交易城市ルンデンウィック(Lundenwic11ルンデンウィックは現在のロンドン市街コヴェント・ガーデンにあった港町。五世紀以降ローマ時代のロンディニウムが衰退したあと、その西側に集落が誕生して交易地として発展した。)が670年代にマーシア王国に占領されたことがケント王国衰退の契機となったとみられる。676年、マーシア王エゼルレッド1世(在位675-704年)の大規模侵攻でケント王国は蹂躙されて荒廃し、686年、ウェセックス王カドワラ(在位685-688年)によってケント王国は一時征服され、カドワラ王死後、ケントには諸勢力が分立して混乱に陥った。混乱を収拾したウィトレッド王(690頃-725年)死後、再びケントは諸王が乱立する状態となり、八世紀半ば以降マーシア王国の従属国となる。764年頃からはマーシア王オファの傀儡政権が建てられ、784年、最後のケント王エアルフムンド死後はオファ王によって直接統治下に置かれた。

最後のケント王エアルフムンドはウェセックス王家出身で、歴代のケント王家との関係は不明である。ケント王エアルフムンドの子エグバートは786年、ウェセックス王位を主張するがオファ王によって追われ、カール大帝の宮廷に亡命した。オファ王死後の802年、帰国してウェセックス王に即位したエグバートは国力を整え、825年、エレンダンの戦いマーシア王国を撃破すると戦勝の勢いのまま長男エゼルウルフ率いる軍勢をケント王国に派兵して故国を解放、自身とエゼルウルフを共同のケント王に即位させ、以後ケント王位はウェセックス王と王子が共同で立つこととなった。九世紀半ばからはケント地方はヴァイキングとの戦いの最前線となり、871年、アルフレッド大王の即位にともないウェセックス王国に完全に併合され王国としての歴史を終えた。

参考文献

脚注

  • 1
    高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫38-39頁
  • 2
    高橋博 訳(2008)39-40頁
  • 3
    高橋博 訳(2008)43頁
  • 4
    大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社26-27頁
  • 5
    Gildas, De Excidio et Conquestu Britanniae, chapter XXIII , English Translation, The Project Gutenberg.
  • 6
    ハインズ、ジョン「第二章 社会、共同体、アイデンティティ」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、116頁
  • 7
    Leggett, S.(2021).Migration and cultural integration in the early medieval cemetery of Finglesham, Kent, through stable isotopes. Archaeol Anthropol Sci 13, 171 (2021). DOI: 10.1007/s12520-021-01429-7
  • 8
    高橋博 訳(2008)83頁
  • 9
    574年頃とみられる(「第三章 キリスト教への改宗」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、164頁)
  • 10
    メロヴィング朝フランク王国は建国者クローヴィス1世を継いだクロタール1世死後、子どもたちの間で四分割された。カリベルト1世はクロタール1世の三男でパリ周辺を支配する分王国の一つパリ王国の王。
  • 11
    ルンデンウィックは現在のロンドン市街コヴェント・ガーデンにあった港町。五世紀以降ローマ時代のロンディニウムが衰退したあと、その西側に集落が誕生して交易地として発展した。