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ノーサンブリアのエドウィン(デイラとバーニシアの王)

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エドウィン(英語:Edwin,古英語:Ēadwine,586年頃生-633年10月12日没)は七世紀始め、ノーサンブリア地方一帯を支配した君主。586年頃、デイラ王国のエッレ王の子として生まれたが、604年頃、バーニシア王エセルフリスによってデイラ王国が征服されたため亡命し、イースト・アングリア王国レドワルド王に助けを求め、616年または617年、アイドル川の戦いでイースト・アングリア軍がバーニシア軍を撃破した後、デイラ王に即位、続いてバーニシア王国を征服した。さらに周辺諸国も相次いで支配下に置き、ブリテン島の広い地域にブレトワルダとして覇権を確立した。627年、キリスト教に改宗しイングランド北東部へのキリスト教布教を認めた。633年10月12日、ハットフィールド・チェイスの戦いでグウィネズ王国とマーシア王国の連合軍に敗れ戦死。死後、殉教者として聖人崇拝の対象となった。聖名祝日は10月12日。

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デイラ王国の王子時代

「七世紀のノーサンブリア勢力図」

「七世紀のノーサンブリア勢力図」
credit: myself / CC BY-SA / wikimedia commonsより

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ノーサンブリア王国地図」” width=”973″ height=”981″ class=”size-full wp-image-23283″ /> 「700年頃のノーサンブリア王国地図」
Credit: Ben McGarr, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

デイラ王国はティーズ川を北限、ハンバー川を南限とした現在のヨークシャー州東部にあたる地域に六世紀頃登場したアングル人の王国である。デイラの名はブリトン語由来で、ローマ時代にこの地域にいたブリトン人パリシィ族の版図とほぼ重なっている。デイラ王国の成立は六世紀半ば頃と見られ、「ブリトン人の歴史」には北欧神話の主神オーディンに始まる王家の系譜が書かれソエミル(Soemil)という王の頃にバーニシアからデイラが分離独立したとあるが、記録上年代が比定できる最初の王は「ブリトン人の歴史」でソエミルの玄孫とされるイッフィ(Iffi)ことエッレ(Ælle、またはエッラ”Ælla”)王である。エッレ王は「アングロ・サクソン年代記」で560年に即位したとの記録があり、エドウィンの父にあたる。

エドウィンに関する史料は限られており、ベーダアングル人の教会史」(731年)と「アングロ・サクソン年代記」(九世紀末)が主要な文献で、隣国バーニシア王国エセルフリス王によってデイラが併合されたときに難を逃れて亡命したという記録が最も古い時期の言及となる。生年や家族構成などは不明な点が多いが、父はデイラ王エッレ、母は不明で、バーニシア王エセルフリスの妻となった姉妹アッカ(Acha)と、ともに亡命を図った甥ヘレリックの親となった性別不明の人物の二人の兄弟姉妹がいた。

バーニシア王国による征服以前、エッレ王が亡くなるとエセルリック(Æthelric)という人物がデイラ王として統治し、その後バーニシア王エセルフリスがデイラ王となり、エドウィンらは亡命することとなった。エセルリックがデイラ王家とどのような関係であったかは不明である。「アングロ・サクソン年代記」は588年にエッレ王が亡くなり以後五年間エセルリック王が統治して593年にエセルフリスがノーサンブリア人の王国を継承したとする(1大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、32頁)。一方、ベーダの「時間の計算について(ラテン語: De temporum ratione,英語: The Reckoning of Time)」(725年)では聖アウグスティヌスがケント王国に到着した597年当時、エッレ王は存命であったという。また、「ブリトン人の歴史」によればエセルフリス王はバーニシア王として12年、デイラ王として12年の計24年統治したといい(2瀬谷幸男(2019)57-58頁)、亡くなった616年または617年のアイドル川の戦いから逆算するとエセルフリスは593年頃にバーニシア王に即位し、604年頃にデイラ王国を征服したことになる。これら史料間の記述の矛盾があるため年代は議論があるが、「アングロ・サクソン年代記」の記述にあるデイラ王交代の年代は疑問視されており、エセルフリス王のデイラ王即位は604年または605年頃とみられている(3Nayland, Carla.”Origins of Northumbria: Dating Aethelferth’s annexation of Deira)。

アイドル川の戦い

アイドル川

アイドル川
Credit: OpenStreetMap contributorsOpenStreetMap contributors, CC BY-SA 2.0 , via Wikimedia Commons


エセルフリス王によるデイラ王権の掌握にともない、エッレ王の子エドウィンとエドウィンの甥(エッレ王の孫)ヘレリック(Hereric)の二人の王族が国外に逃れた。ヘレリックはデイラ王国の西にあったブリトン人のエルメット王国に逃れたが亡命先で毒殺されたという(4高橋博(2008)233頁/ベーダはエルメット王国とは記しておらずブリトン人のケルティック王とだけあり、「ブリトン人の歴史」や「カンブリア年代記」などに同時代のエルメット王にケルディック王の名が確認できることからエルメット王国と考えられている)。これがエセルフリス王によるものかどうかは定かでない。一方、エドウィン王子は616年頃にイースト・アングリア王国に逃れるまで各地を放浪した。十二世紀以降の文献ではグウィネズ王国やマーシア王国などにいたという。

エセルフリスの迫害から逃れ各地を放浪していたエドウィンは616年頃イースト・アングリア王国レドワルド王(在位599頃–624頃)に保護を求めた。エドウィンがレドワルド王の下にいると知ったエセルフリス王は金銭を贈ってエドウィンの殺害を依頼するがレドワルド王はこれを拒否する。エセルフリス王は繰り返し使者を贈って報奨金の増額を提示するとともに、要請を拒否するならば一戦も辞さずと脅迫してきたため、恐れたレドワルド王はエドウィン殺害か引き渡しのいずれかを約束した。

しかし、王妃の諫言を聞いたレドワルド王は考えを改めてエセルフリス王と一戦することを決意、迅速に軍を招集して進撃を開始、虚を突かれたエセルフリスは十分に兵を集められないまま迎撃せざるを得ず、マーシアとノーサンブリアの境界となるイングランド中部ノッティンガムシャーを流れるアイドル川の東、現在レトフォード(Retford)と呼ばれる町の近郊で両軍が激突した。レドワルド王率いるイースト・アングリア軍は3つの部隊で構成され、そのうち一つはレドワルド王の王子レガンヘレ(Rægenhere)が指揮していた。対するエセルフリス王自ら率いる熟練兵で構成された少数精鋭のバーニシア軍はレガンヘレ部隊へ兵力を集中させて撃破、レガンヘレを戦死させるが、レドワルド王は動揺せず態勢を立て直してバーニシア軍を殲滅、エセルフリスは激しく勇戦するが自軍からはぐれ孤立したところを狙われて戦死、イースト・アングリア軍の勝利に終わった。 「アイドル川はイングランド人の血で染まった”the river Idle was stained with English blood”」と語り継がれるほどの激しい戦いとなった(5Henry of Huntingdon (1853). “The chronicle of Henry of Huntingdon”. Translated by Forrester, Thomas. Internet Archive.p.56.)。

アイドル川の戦い(616年)
アイドル川の戦い(Battle of the River Idle)またはアイドル河畔の戦いは616年(または617年)、イングランド中部ノッティンガムシャーを流れるアイドル川の東側で、レドワルド王率いるイースト・アングリア王国軍とエセルフリス王率いるバーニシア王国が戦った戦い。バーニシア王エセルフリスが戦死し、イースト・アングリア軍が勝利した。この結果、レドワルド王は大きく名声を高めてブレトワル...

ノーサンブリア統一と覇権の確立

「イースト・ライディング・オブ・ヨークシャーのスレッドミア村のセント・メアリー教会にあるエドウィン王のステンドグラス」

「イースト・ライディング・オブ・ヨークシャーのスレッドミア村のセント・メアリー教会にあるエドウィン王のステンドグラス」
Credit:DaveWebster14, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons


アイドル川の戦い後、帰国してデイラ王に即位したエドウィンは続いてバーニシア王国を征服、エセルフリス王の子供たちを追放して両王国を支配下に収めた。アイドル川の戦いブレトワルダとしての権威を確立したイースト・アングリア王レドワルドの後ろ盾を受けてスムーズに権力の確立が進んだとみられている。エドウィン王は即位後すぐの時期にまずデイラの西のブリトン人王国エルメット王国へ軍を進め甥のヘレリックを毒殺したケルティック王を殺害、同国を征服した。また、エドウィン王時代かそれ以前にエボラクム(ヨーク市)を中心に栄えていたブリトン人のエブラウク王国を征服、エドウィン王の時代にエオヴォルヴィク(Eoforwic)と呼ばれたヨーク市は中核都市として発展を遂げた(6Anglian York: History of York)。

624年頃、イースト・アングリア王レドワルドが亡くなるとエドウィンが名実ともにブレトワルダとしてイングランドに君臨した。ベーダアングル人の教会史」によればその勢威はケント王国を除くブリタニア全域に及び、マン島も支配下に置いたという。またアングルシー島へ攻撃を加えウェールズ地方も一部を支配下とした。チャールズ=エドワーズによれば、アングルシー島とマン島を支配することでアイリッシュ海を通じた地中海、イベリア半島、フランク王国のガリア地方との交易ルートへの参入が可能となり、さらにブリテン島西部やアイルランド東部沿岸での水軍の展開もできるようになったという(7チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、53-54頁

このようなエドウィン王の覇権に対して,626年、ウェセックス王クウィッチェルム(在位626-636年)がエドウィン王殺害のためエオメルという名の刺客を送った。エオメルはダーウェント川近くの別邸にいたエドウィン王を訪れて言葉巧みに王との面会を取り付け、毒薬を塗った剣を使ってエドウィン王の配下二人を殺害、エドウィン王にも傷を負わせたものの他の護衛に殺された。一命をとりとめ、快復したエドウィン王は軍勢を率いてウェセックス王国へ侵攻、大きな損害を与えた。ウェセックス王国との間にはマーシア王国が存在しているが、特に抵抗すること無く進軍を許していることから、この時期マーシア王国もエドウィン王の宗主権下にあったとみられる。

キリスト教への改宗

627年、エドウィン王はキリスト教に改宗し領内での布教を許可、ノーサンブリア地方のキリスト教化を推し進めた。この契機となったのがエドウィン王の結婚である。625年、エドウィン王はケント王エアドバルドに使者を立てて彼の妹エゼルブルフとの結婚を求めた。これに対しケント王はエドウィン王が非キリスト教徒である点に難色を示したため、王妃として迎えた際には彼女の信仰に敵対的な態度を取らないこと、彼女と従う者たちがキリスト教に基づく礼拝が可能なように取り計らうこと、エドウィン王の信じる信仰よりキリスト教の方がより神聖であると感じた場合には改宗する可能性があることを伝え、両者の結婚が実現した。

エドウィン王がウェセックス王国の刺客に襲われたのと同じ日、エゼルブルフ妃に娘エアンフレダが誕生し、エゼルブルフ妃に同行してヨークに来ていた聖職者パウリヌスは自身の祈祷のおかげで母子ともに無事だったと主張した。快復したエドウィン王はウェセックス王国への侵攻に際してパウリヌスに対し、無事に勝利して帰還することが出来ればキリスト教への改宗をすると約束する。同じ時期、ローマ教皇ボニファティウス5世(在位619-625年)からも改宗を勧める書簡が送られていたことも後押しとなった。

627年、エドウィン王は有力豪族や顧問団を招集、キリスト教への改宗の是非を問うた。ベーダアングル人の教会史」によれば、祭司長コイヴィ(Coifi)が率先して既存の信仰の有効性を否定してキリスト教への改宗を唱え、他の出席者も皆賛同したため、エドウィン王がキリスト教への改宗を決定し、コイヴィが自ら志願してこれまでの偶像や祭壇の破壊を行ったという。627年の復活祭の日、エドウィン王はヨーク市に木材で聖ペテロ教会を建てさせ、ヨーク司教となったパウリヌスによって洗礼を受けた。後日、聖ペテロ教会を改めて石造で建て直させたがエドウィン王は完成を見る事無く亡くなっている。以後、パウリヌスによってヨーク市を中心にキリスト教の布教が進められることとなった。

エドウィン王の死とその後

エドウィン王の改宗後、ノーサンブリアは安定した治世が実現したが、633年、エドウィン王の覇権に脅威を覚えたグウィネズ王国のカドワソン王とマーシア王国のペンダ王が同盟を結びノーサンブリアへ侵攻、エドウィン王自ら軍を率いて迎え撃ち、10月12日、サウスヨークシャーのドンカスター近郊あるいはノッティンガムシャーのカックニー近郊で両軍が激突、激しい戦いの結果エドウィン王と二人の王子が戦死した(ハットフィールド・チェイスの戦い)。

勝利の勢いに乗ってカドワソン王はノーサンブリア各地を寇掠、王妃エゼルブルフと子供たちや王族はパウリヌスとともにケント王国へ避難し、デイラ王にはエドウィンの従兄弟オスリックが即位したが、バーニシア王には前王エセルフリスの子エアンフリスが即位して両国の統一体制は崩壊した。しかし、634年、まずデイラ王オスリックがカドワソンとの戦いで戦死、続いてカドワソンとの和平交渉に赴いたバーニシア王エアンフリスも騙し討ちにあって殺害される。

同年、ヘブンフィールドの戦いでエアンフリスの弟オスワルドカドワソン王率いるグウィネズ王国軍に勝利してカドワソンを戦死させて戦乱を終わらせ、改めてバーニシアとデイラ両国の統一に成功した。しかし平和は続かず、マーシア王国との戦いは繰り返され、642年、マーサフェルスの戦いでオスワルド王はペンダ王に敗れて戦死、再び分裂と抗争の時代を経て、655年、オスワルドの弟バーニシア王オスウィウがウィンウェドの戦いでペンダ王を倒し、バーニシア王国デイラ王国を統一して初代ノーサンブリア王に即位、ノーサンブリア王国が建国され、ようやく混乱が鎮められた。

死後エドウィン王は殉教者としてブリテン島で崇拝されるようになり、彼の遺物も聖遺物として扱われた。ローマ教皇グレゴリウス13世(在位1572-1589年)によってローマの神学校ヴェネラヴィレ・コレージョ・イングリーゼ(イタリア語: Venerabile Collegio Inglese, ローマのヴェネラブル・イングリッシュ・カレッジ、1579年設立)に描かれることが許された(8Phillips, G. (1909). St. Edwin. In The Catholic Encyclopedia. New York: Robert Appleton Company.)。聖名祝日は命日である10月12日とされている。

参考文献

脚注

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