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キネザ・ウレディク

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キネザ・ウレディク(Cunedda Wledig)は中世ウェールズ諸王国の王家共通の祖先とされる半伝説的な王。四世紀後半〜五世紀前半頃、ブリトン人のウォタディニ族が支配していたフォース湾沿岸地域から戦士団を率いてウェールズ北部に渡りグウィネズ王国を建国したと言われ、彼の末裔が後のグウィネズ、ポウィス、デハイバース王家となったとされるが、彼から始まる系図は十世紀頃以降の創作とみられる。

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キネザに関する諸史料

キネザ・ウレディクに関する初出史料は九世紀初めに北ウェールズで編纂された「ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)」の62章で、グウィネズ王マエルグンの祖先キネザがマエルグン王より146年前、フォース湾南部地域にあたるマナウ・ゴドジン(Manaw Gododdin)からグウィネズへやってきて現地のスコット人を撃退したという。

“The great king, Mailcun, reigned among the Britons, i.e. in the district of Guenedota, because his great-great-grandfather, Cunedda, with his twelve sons, had come before from the left-hand part, i.e. from the country which is called Manau Gustodin, one hundred and forty-six years before Mailcun reigned, and expelled the Scots with much slaughter from those countries, and they never returned again to inhabit them.”(1 History of the Britons (Historia Brittonum),Translated by J. A. Giles,Released 2006,The Project Gutenberg.

訳:マイルクン(マエルグン)大王はグエネドタ(グウィネズ)地方でブリトン人の間に君臨した。なぜなら彼の高祖父キネザは十二人の息子たちとともにマイルクンが統治する百四十六年前に、左側の地域、すなわちマナウ・グストディン(マナウ・ゴドジン)と呼ばれる国からやって来て、多くの殺戮を行ってスコット人を追放し、彼らは二度とこれらの国に住まなくなったからである。

グウィネズ王マエルグンは540年頃に聖職者ギルダスによって書かれた「ブリタニアの破壊と征服について(De Excidio et Conquestu Britanniae)」に登場するアングルシーのマエルグンという君主に比定されている、六世紀前半に実在したとみられる君主で、ウェールズの伝承や物語にも多く登場する初期のグウィネズ王である。

十世紀から十一世紀頃に編纂されたと見られるハーレイアン系図(Harleian genealogies)はウェールズ諸王家の系図をまとめた写本群で大英図書館のハーレイアン・ライブラリー・コレクションの一つである。このハーレイアン系図ではキネザがグウィネズ王家の祖として位置付けられケルト神話の太陽神ベレヌスと同一視される架空の君主ベリ大王(Beli Mawr)の末裔であるとされた。キネザの子や孫がウェールズ地方を分割して支配し、各地の支配一族の祖となったという。領地を分割された子どもたちの数は系図によって八人、九人など違いがあるが、子どもたちの名はいずれも当該地域を支配した部族の名と同一のものとなっている(2CUNEDDA WLEDIG (fl. 450?), British prince“. Dictionary of Welsh Biography. National Library of Wales.)。

ブリトン人諸王国が栄えたスコットランド南部からイングランド北部にかけての一帯は後にウェールズ語で「アル・ヘーン・オグレッズ(古き北方)」あるいは「ア・ゴグレッズ(北方)」と呼ばれブリトン人の末裔を自認していたウェールズ諸王国の王家にとっての原郷であったため、(3森野聡子(2019)『ウェールズ語原典訳マビノギオン』原書房、357頁)、ウェールズ地方の諸王国の支配体制が確立すると、系図を作成する際にキネザが諸王家と「アル・ヘーン・オグレッズ(古き北方)」とを結びつける人物となった。

人物

キネザの出自や生涯に関しては全て数百年以上経た後世の文献に基づいているため、ほぼ歴史的な事実とは考えられていないが、最も古い「ブリトン人の歴史」にあるマナウ・ゴドジン地域から北ウェールズへ赴いてグウィネズに支配を確立した人物であるという点は受け入れられている。

称号のウレディク(Wledig)はローマン・ブリテン時代に遡るブリトン人の諸王に対して使われる王・領主の敬称で、中世ウェールズの伝承で伝説的な人物に多く使われ、キネザ・ウレディクの他には西ローマ皇帝マグヌス・マクシムスのウェールズ語名マクセン・ウレディク(Macsen Wledig)、ギルダスの「ブリタニアの破壊と征服について(De Excidio et Conquestu Britanniae)」でアングロ・サクソン人の侵攻に対抗した指導者アンブロシウス・アウレリアヌスのウェールズ語名エムリス・ウレディク(Emrys Wledig)などがある(4森野聡子(2019)訳注ix)。皇帝など上級君主の意味合いが強く、ウェールズの歴代君主ではキネザ以外には使われていない。また、後世の系図に基づいてキネザ・アプ・エデルン(Cunedda ap Edern、エデルンの子キネザ)と呼ばれることもある。

ハーレイアン系図などでキネザの祖父とされるパダルン・ベイスルッズ(Padarn Beisrudd)は「古き北方」生まれのローマ軍人で西ローマ皇帝マグヌス・マクシムスに仕えてウォタディニ族の指導者となったという。ウォタディニ族(後のゴドジン王国)の西側領土マナウ・ゴドジンの支配者となったキネザは子どもたちとともにウェールズ北部に移住、スコット人を駆逐してグウィネズ王国を建てた。ハーレイアン系図と同じ写本を構成する「カンブリア年代記(Annales Cambriae)」では、マエルグン王の死を547年としており、ここから「ブリトン人の歴史」にある146年遡って西暦400年ごろの出来事とみられているが、この時期については西暦370年以降430年頃までの間で幅がある(5EBK: King Cunedda of North Wales)。

キネザの死後、長子ティビオン(Tybion)の子でメイリオニズ(Meirionnydd、現在のメイリオネスシャー)の領主メイリオン(Meirion)によってキネザの息子たち九人に領地が分割された。子どもたちの名は全て地名に準じておりディー川からティフィ川までのウェールズ地方北部と西部にあたる領域の諸王国(メイリオニズ(Meirionydd)、アスヴェリオン(Ysfeilion)、リヴォニオグ(Rhufoniog)、ディノジング(Dunoding)、ケレディギオン(Ceredigion)、アヴロギオン(Afflogion)、ドグヴェイリング(Dogfeiling)、エデイルニオン(Edeyrnion))が創設され、グウィネズ王は息子の一人エイニオン・アルス(Einion Yrth)が継いだ(6CUNEDDA WLEDIG (fl. 450?), British prince“. Dictionary of Welsh Biography. National Library of Wales./EBK: King Cunedda of North Wales)。これらの諸王国はグウィネズ王国とケレディギオン王国(872年デハイバース王国に併合)に再編され、十世紀までに一族からグウィネズ王国、ポウィス王国、デハイバース王国の三王家が成立したとされる。

「中世ウェールズにおけるカントレヴ(小王国を基にした地方区分)地図」

「中世ウェールズにおけるカントレヴ(小王国を基にした地方区分)地図」
“Cantrefs of Wales”
ウェールズ古代歴史建造物王立委員会(Royal Commission on the Ancient and Historical Monuments of Wales)作成地図が改変されたもの
Credit: XrysD, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

参考文献

脚注

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