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ウィンウェドの戦い(655年)

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ウィンウェドの戦い(Battle of the Winwaed)は655年11月15日、マーシア王ペンダ率いる諸国連合軍とバーニシア王オスウィウ(オズウィ)の間で戦われオスウィウ王が勝利した戦い。ペンダ王始め多くの君主諸侯が戦死した。戦後ノーサンブリア地方のバーニシア王国デイラ王国という2つのアングル人国家が統合されて名実ともに統一ノーサンブリア王国が成立し、八世紀前半までノーサンブリア王国はブリテン島に支配的地位を築いた。また、ペンダ王死後マーシア王国もキリスト教を受け入れ、アングロ・サクソン社会のキリスト教化が進む契機となった。

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背景

「700年頃のノーサンブリア王国地図」

「700年頃のノーサンブリア王国地図」
Credit: Ben McGarr, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

ノーサンブリア地方の統一

ローマ帝国撤退後、後にノーサンブリア王国が成立するハンバー川からフォース川にかけての地域にブリトン人諸王国が栄えたが、六世紀後半からティーズ川を境界として北部にバーニシア王国、南部にデイラ王国というアングル人王国が登場、周辺のブリトン人王国を駆逐して勢力を拡大し、互いに争うようになった。バーニシア王国エセルフリス王が即位すると急速に勢力を拡大して604年頃、デイラ王国を征服してノーサンブリア地方に統一王権を樹立した。

しかしエセルフリス王はアイドル川の戦いでイースト・アングリア王レドワルドに破れ、代わってレドワルド王に支援されたデイラ王国の王子エドウィンデイラ王国バーニシア王国を統一して、レドワルド王死後はブレトワルダとしてイングランドに覇権を確立した。

ノーサンブリアの支配者とマーシア王国の覇権争い

マーシア王国はイングランド中央部、現在のミドランズ地方に六世紀末ごろまでに成立したアングル人の王国で、史料で言及される初めてのマーシア王はクレオダ王(Creoda,在位?-593年)だが、成立初期の歴史は定かではなく、イクリンガス朝(六世紀-796年)と呼ばれたマーシア王家がこの地に存在したアングロ・サクソン系の小王国・部族を糾合することで成立したとみられる。クレオダ王の孫ペンダ王(Penda,在位626年頃または633年頃-655年)の治世下でイングランド中部・南部に支配的な地位を築いてブリテン島屈指の勢力に急成長することになるが、治世初期あるいは即位前にあたるエドウィン王時代はエドウィン王の覇権に従属しており、ウェールズ北部のグウィネズ王国と結んでエドウィン王に挑戦する。

633年、ハットフィールド・チェイスの戦いエドウィン王はグウィネズ=マーシア連合軍に敗れ、戦死したため、バーニシア王国デイラ王国は分裂、翌634年、エセルフリス王の子オスワルドが少数の兵力を率いてバーニシア王国へ帰国、ノーサンブリアを寇掠するグウィネズ王カドワソンを倒し、バーニシア王に即位してノーサンブリアを統一すると、ブレトワルダとしてブリテン島に君臨した。

マーシア王ペンダはオスワルド王の覇権に対して力を蓄え、636年頃から640年頃の間でイースト・アングリア王国へ侵攻してエグリック王と前王シグベルフトを殺害して後顧の憂いを絶ち、642年改めてオスワルド王と戦端を開く。642年、マーサフェルスの戦いで勝利、オスワルド王を殺害した。ペンダ王の勢威は益々盛んとなり、ベーダアングル人の教会史」も「アングロ・サクソン年代記」も彼をブレトワルダとしていないが、事実上イングランドに覇権を築いた。

開戦へ

オスワルド王死後、バーニシア王にはオスワルドの弟オスウィウが即位したが、644年頃、前のデイラ王オスリックの子オスウィネ(Oswine,またはオズウィン)がデイラ王に即位してまたも統一体制が崩れることとなった。バーニシア王即位直後の時期にオスウィウケント王国に亡命していたエドウィン王の娘エアンフレダを妻に迎え、デイラ王位獲得への野心を明らかにしたが、再独立したデイラ王オスウィネは善政を行ってデイラ王国を繁栄させたため、651年頃、両国の対立が深まりついに開戦に至った。

同年にはマーシア王ペンダがバーニシア王国の首都バンバラの近くまで侵攻するなどバーニシア王国デイラ王国マーシア王国など諸国との戦いが激化していた。オスウィウ王が集めた大軍の前に勝ち目が薄いと判断したオスウィネ王は軍を解散してこの戦いを回避し捲土重来を期すが、651年8月20日、オスウィネ王は少数の供を連れて信頼する重臣の領地を訪れた際、裏切りにあって殺害された。オスウィウ王は兄オスワルドの子アセルワルド(Œthelwald,在位651-655年)をデイラ王に即位させたが、アセルワルド王はマーシア王ペンダと同盟してオスウィウ王と対立するようになる。

戦い

コック・ベック渓谷

コック・ベック渓谷
ウィンウェドの戦いの戦地として有力視されている
Credit:David Pickersgill / Cock Beck valley / CC BY-SA 2.0

655年、ペンダ王は周辺諸国からも軍を動員しグウィネズ王国やイースト・アングリア王国などの同盟軍を含む30人もの将軍を引き連れた大軍勢でバーニシア王国へ侵攻する。連合軍はバーニシア軍の三十倍の兵力であったという。「ブリトン人の歴史」の64章によると、ペンダ王率いる連合軍はノーサンブリアのユデウ(Judeu)あるいはウルブス・ユデウ(Urbs Iudeu)という都市を包囲したという(1瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、58-59頁/ History of the Britons (Historia Brittonum),Translated by J. A. Giles,Released 2006,The Project Gutenberg.)。この都市がどこであったかは不明だが、スターリングとする説が有力候補となっている(2Aitchison, Nick (2023). “Urbs Giudi: text, translation and topography“. Anglo-Saxon England: 1–41.)。

ベーダが記録するところによると、オスウィウ王は「ペンダがその軍勢とともに帰国し、オスウィウの国の領土を根絶するほどの破壊をおこなわないことを条件に、講和の代償として想像以上に膨大な大量の財産や贈り物を提供することを約束」(3高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、165頁)し、さらに息子のエッジフリスを人質としてペンダ王の王妃の元に送るなどしたたが、ペンダ王は侵攻を止めなかったため、追い詰められたオスウィウ王は少数の兵で一戦することを決断する。

「オスウィウは野蛮な王とは和平を結べず、神の慈悲を請うことにした。彼はうずくまって誓いを立てた。『異教徒がわたしたちの贈り物を受け取らないからには、それを受け入れてくださる救世主に捧げたいと思います』と。さらに彼は自分に勝利を授けてくださるなら、自分の王女を聖なる処女として主に捧げること、また修道院建設用地として十二の所領地を贈呈することを誓約した。」(4高橋博(2008)165頁

ベーダ「「アングル人の教会史」」ではペンダ王はオスウィウ王からの財宝を贈る申し出を拒否しているが、「ブリトン人の歴史」ではペンダ王はユデウ包囲のあとオスウィウ王からユデウ市が所有していた財宝を受け取り、諸将に分配したといい、この分配を受けてウィンウェドの戦いの前夜、グウィネズ王国軍が無断で連合軍から離脱して帰国したという(5瀬谷幸男訳(2019)58-59頁/ History of the Britons (Historia Brittonum),Translated by J. A. Giles,Released 2006,The Project Gutenberg.)。

財宝を受け取ったことで包囲が解かれて連合軍が帰路についていたか、さらに継戦するために転進していただけかはわからないが、655年11月15日、ウィンウェド(Winwæd)という名の川の近くで両軍が戦いになった。戦地は定かではないが、現在のウェスト・ヨークシャー州リーズ近郊のどこかであったと考えられている。伝統的にはリーズ市の東ウィンムーア(Whinmoor)のあたりとする説が信じられているが、ウィンムーアのさらに東にあるワーフェ川(River Wharfe)の支流コック・ベック(Cock Beck)の方が有力視されている(6Bantoft, Arthur(1986). “The Battle of Winwaedfield“.The Barwicker No.1,Barwick-in-Elmet Historical Society.)(7コック・ベックは薔薇戦争中の1461年3月29日に行われたタウトンの戦いの戦地としても知られている)。

ペンダ王はオスウィウが攻めてくるとは考えておらず、さらに戦いの際、大雨でウインウェド川は氾濫して戦場は水浸しと悪条件が重なっていた。少数の精鋭からなるオスウィウ軍による雨中の奇襲で完全に虚を突かれたマーシア連合軍は、オスウィウ王の甥アセルワルド王率いるデイラ王国軍が戦場から距離を置いて様子見に徹したことも重なって一気に総崩れとなり、マーシア王ペンダを始めとしてイースト・アングリア王エセルヘレら30人の将軍がことごとく戦死、壊滅した。

「ウィンウェドの戦い」(アルフレッド・ピアース作、1922年、from "Hutchinson's Story of the British Nation")

「ウィンウェドの戦い」(アルフレッド・ピアース作、1922年、from “Hutchinson’s Story of the British Nation”)
Credit: Alfred Pearse, Public domain, via Wikimedia Commons

戦後

オスウィウ王はウィンウェドの戦いで様子見に徹した甥アセルワルドに変えて息子のアルフフリスをデイラ王に即位させ、679年までデイラ王位はバーニシア王家直系によって継承され、名実ともにノーサンブリア王国の統一体制が確立する。オスウィウ王の覇権はブリテン島全土に及び、ノーサンブリア王国では安定的な治世を実現した。オスウィウ王の呼びかけで行われたウィットビー教会会議でローマ、アイルランド、ノーサンブリアの教会制度が足並みを揃えることとなり、続くハーフォード教会会議(672年)で全イングランドへ拡大、ノーサンブリアはキリスト教文化の最先端地域となった(8青山吉信(1991)「第4章 イングランド・スコットランド・ウェールズの形成」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、107-110頁))。オスウィウ王死後、七世紀後半から八世紀半ば頃まで「ノーサンブリア・ルネサンス」と呼ばれる文化・芸術活動の隆盛期が始まり(9Northumbrian Renaissance – The Anglo-Saxons)、ノーサンブリア王国は最盛期を迎える。

ウィンウェドの戦いに勝利したオスウィウ王は勢いにのってマーシア王国に侵攻して一時支配下に置いた。マーシア王国の支配は、658年、大規模な反乱によってオスウィウ王配下の総督らが追放されペンダ王の子ウルフヘレ(Wulfhere,在位658-675年)がマーシア王に擁立されたことで三年経たず終焉を迎えたが、ノーサンブリア王国マーシア王国に対して引き続き優越的な地位を保った。このような中で長くキリスト教化を拒んでいたマーシア王国もキリスト教を受け入れたため、この戦いはアングロ・サクソン社会における旧来のゲルマン的な信仰の衰退と、本格的なキリスト教化の進展の契機となった。

参考文献

脚注

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