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バドン山(モンス・バドニクス)の戦い

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バドン山の戦い(Battle of Mount Badon)またはモンス・バドニクスの戦い(Battle of Mons Badonicus)、あるいはモンス・バドニスの戦い(Battle of Mons Badonis)は五世紀後半から六世紀前半の間のある時期、ブリテン島でブリトン人の軍勢とサクソン人の軍勢が戦いブリトン軍が勝利した戦い。この戦いの結果サクソン人の侵攻は一時停滞したとされるが、史料が少なく戦闘の日時や場所、詳細については定かではない。後世、ブリトン軍を率いたのが伝説のアーサー王であったと言われるようになり、アーサー王物語群に組み込まれて様々な逸話が付け加えられ現代まで長く語り継がれた。

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史料の中のバドン山の戦い

「バドン山の戦い」(オーウェン・モーガン・エドワーズ作、1911年)

「バドン山の戦い」(オーウェン・モーガン・エドワーズ作、1911年)
Credit: Owen Morgan Edwards, Public domain, via Wikimedia Commons


バドン山の戦いに関する最初の記述は六世紀の聖職者ギルダスが書いた「ブリタニアの破壊と征服について(De Excidio et Conquestu Britanniae)」(540年代)に見られる。ギルダスによると、ローマ人貴族アンブロシウス・アウレリアヌス(Ambrosius Aurelianus)がブリトン人を組織してサクソン人の侵攻に対抗した。以後ブリトン軍はサクソン軍に連勝、バドン山の戦いでの勝利まで続いたという。しばしば丘陵地での野戦であったように言われるが、ギルダスは「包囲戦」と記していることから、山上に築かれた砦を巡る攻防戦であったとみられる(1“Badon is often described as being a battle by medieval sources, but Gildas actually calls it a siege. The idea of Badon as a siege atop a great hill is not frequently returned to until well into the modern period, but it catches on quickly; most modern authors place at least a makeshift fort on top of Badon hill.”Boyer, Sam.(2004).The Battle of Mount Badon(Camelot Project,University of Rochester))。次に登場する文献は八世紀の聖職者ベーダが著した「アングル人の教会史(Historia ecclesiastica gentis Anglorum)」(731年)である。ベーダによると、ローマ出身の穏健な人物アンブロシウス・アウレリアヌスに鼓舞されたブリトン人たちは侵入者たちと戦って勝利を重ねるようになり、バドン山の戦いで大勢の敵を倒したという。

九世紀初め頃の修道士ネンニウスによる写本「ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)」(828年頃)でバドン山の戦いには非常に具体的な描写が加えられた。ケント王国の建国者と伝わるヘンギスト王死後、サクソン人諸国家が台頭したためブリトン人の諸王が連合してアルトゥール(アーサー)という人物を指揮官に立て、十二回に渡りサクソン人と戦って勝利を重ねた。その最後の戦いがバドン山の戦いであるという。バドン山の戦いではアルトゥール一人で960人の敵兵を斃したという(2伝ネンニウス著/瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、51-52頁/960人という数について、フィリップ・ヴァルテールによれば「ゲルマン神話の楽園ヴァルハラに住む戦士団を想起させるものである」という。ヴァルハラの戦士たちの数も120人の八倍にあたる960人であるとされている(ヴァルテール、フィリップ(2018)『アーサー王神話大事典』原書房、289-290頁))。これが後のアーサー王、ブリトンの軍事指導者アルトゥールが初めて登場した記述である。十世紀から十三世紀にかけてウェールズ地方で成立した「カンブリア年代記(Annales Cambriae)」には516年、バドン山の戦いが行われたことが短く記録されている(3Ingram, James,(1912).Medieval Sourcebook: The Annales Cambriae (Annals of Wales).Fordham University./また665年の条には第二次バドン山の戦いがあったとも記録されているがどのような戦いだったのか不明)。

中世盛期に入り、十二世紀始め、修道士マームズベリーのウィリアムが著した「歴代イングランド王の事績(Gesta Regun Anglorum)」(1125年)によると、ブリトン人の王ヴォルティゲルン死後、後を継いだローマ人のアンブロシウスを援助したアーサーによって「蛮族」の脅威が抑えられ、バドン山の戦いではアーサーは一人で900人の「イングランド人」を殺す活躍をみせ、勝利を収めたという(4Boyer, Sam.(2004).The Battle of Mount Badon(Camelot Project,University of Rochester))。ここではサクソン人ではなくイングランド人と呼ばれている。同時期、聖職者で歴史家のハンティンドンのヘンリによって書かれた「アングル人の歴史(Historia Anglorum)」(1133年頃)によると、ブリトン王国で軍の総帥である将軍アーサーが十二回に渡るサクソン人との戦いにことごとく勝利し、最後のバドン山の戦いでも勝利するが、この戦いでブリトン人の死者は440人だったという。その後、ジェフリー・オブ・モンマス「ブリタニア列王史(Historia Regum Britanniae)」(1133-38年)によってバドン山の戦いは大いに脚色されてアーサー王の伝説に組み込まれ、これに影響を受けたウァース「ブリュ物語(Roman de Brut)」(1160年頃)、ラヤモン「ブルート(Brut)」(1200年頃)などを経て物語として多くのアーサー王文学作品で語り継がれた。

歴史性

バドン山の戦いがいつ行われた戦いなのか明らかではない。ギルダスは「ブリタニアの破壊と征服について(De Excidio et Conquestu Britanniae)」の執筆時点でバドン山の戦いから44年と1ヶ月が経過したといい、この記述に従うと540年代に書かれたとみられる同著の執筆時期から遡って490年代半ば頃から500年代半ば頃の間となるが、ギルダスのいう44年という数字は当時の暦法の差から単純に受け取る事はできず、解釈について諸説ある。一方、ベーダはバドン山の戦いが行われたのがブリテン島にアングロ・サクソン人が進出してきて44年目のことだったという(5高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫、41頁)。ベーダはブリテン島へのアングロ・サクソン人の侵攻は449年から456年の間の出来事であったとしているため、493年から500年の間のこととみられるが、基準となるベーダがいうアングロ・サクソン人の侵攻開始時期に対しては裏付けがなく歴史的信頼性がない。他「カンブリア年代記」には516年との記述もある。これらの点から五世紀後半から六世紀前半の間のいずれかの時期であった以上のことは不明である。

バドン山がどこにあったのかもギルダスやベーダらは言及しておらず不明である。十二世紀に描かれたジェフリー・オブ・モンマスの「ブリタニア列王史」は多くの創作が入っており内容の解釈については慎重に扱われているが、彼はその中でバドン山の戦いがバースで行われたと書いている。ローマ時代公共浴場が置かれたバースの地名は古英語でバーゾン(Baþon/Baðon)と呼ばれており、Badonicus/Badonisの地名の由来として有力視されている古サクソン語バドゥ(badu)他ゲルマン系諸言語にも共通する「戦い」を意味する言葉から転じたものが由来と考えられていることからバース近郊をバドン山の戦いが行われた戦地と考える説が伝統的に有力視されてきた(6ヴァルテール、フィリップ(2018)『アーサー王神話大事典』原書房、289-290頁)。他に同様の地名の由来を持つウィルトシャーのバドベリーにある丘砦遺跡リディントン・キャッスルやドーセットの丘砦遺跡バドベリーリングなど多くの候補地があり、どこで行われた戦いだったのかも不確かである。

参考文献

脚注

  • 1
    “Badon is often described as being a battle by medieval sources, but Gildas actually calls it a siege. The idea of Badon as a siege atop a great hill is not frequently returned to until well into the modern period, but it catches on quickly; most modern authors place at least a makeshift fort on top of Badon hill.”Boyer, Sam.(2004).The Battle of Mount Badon(Camelot Project,University of Rochester)
  • 2
    伝ネンニウス著/瀬谷幸男訳(2019)『ブリトン人の歴史ー中世ラテン年代記』論創社、51-52頁/960人という数について、フィリップ・ヴァルテールによれば「ゲルマン神話の楽園ヴァルハラに住む戦士団を想起させるものである」という。ヴァルハラの戦士たちの数も120人の八倍にあたる960人であるとされている(ヴァルテール、フィリップ(2018)『アーサー王神話大事典』原書房、289-290頁)
  • 3
    Ingram, James,(1912).Medieval Sourcebook: The Annales Cambriae (Annals of Wales).Fordham University./また665年の条には第二次バドン山の戦いがあったとも記録されているがどのような戦いだったのか不明
  • 4
    Boyer, Sam.(2004).The Battle of Mount Badon(Camelot Project,University of Rochester)
  • 5
    高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫、41頁
  • 6
    ヴァルテール、フィリップ(2018)『アーサー王神話大事典』原書房、289-290頁