「タラ・ブローチ」

スポンサーリンク

「タラ・ブローチ」(Tara Brooch)は七世紀後半から八世紀初頭、アイルランドで制作されたブローチ。円環部分と長い留め金ピンから構成される島嶼芸術(Insular art)特有の準環状ブローチで、精巧な金線細工(filigree)が施された豪華な工芸品であるため、高い地位の人物のために作られたとみられる。発見状況は不明な点が多く、1850年頃にアイルランド東部ミーズ県ベティスタウンの海岸で発見されたという。その後所有者となった宝石商ジョージ・ウォーターハウスによって中世アイルランド王家の聖地タラの丘を想起させる「タラ・ブローチ」と名付けられて大々的に喧伝され、当時盛り上がりを見せていたケルト復興運動(Celtic Revival)のアイコンとして注目された。アイルランド国立博物館収蔵。

スポンサーリンク

特徴

「タラ・ブローチ(前面)」(アイルランド国立博物館収蔵)

「タラ・ブローチ(前面)」(アイルランド国立博物館収蔵)
Credit: Sailko, CC BY 3.0 , via Wikimedia Commons

「タラ・ブローチ(裏面)」(アイルランド国立博物館収蔵)

「タラ・ブローチ(裏面)」(アイルランド国立博物館収蔵)
Credit: Sailko, CC BY 3.0 , via Wikimedia Commons


「タラ・ブローチ」は円環部分と長い留め金ピンから構成され、円環部分は直径約8.6センチメートル、留め金ピンは長さ約22センチメートル、重さ224.36グラム。金メッキが施された銀製で、赤や青の色ガラス、琥珀などで装飾されている。円環部分に施された精緻で豪華な金線細工(フィリグリー,filigree)は個々に成形された28個の区画に動物模様や組紐模様、渦巻き、螺旋、曲線など島嶼芸術に特徴的な「ヒベルノ・サクソン様式(または後期ケルト様式)」の模様が描かれた金板が重層的に固定されている。

It is made of cast and gilt silver and is elaborately decorated on both faces. The front is ornamented with a series of exceptionally fine gold filigree panels depicting animal and abstract motifs that are separated by studs of glass, enamel and amber. The back is flatter than the front, and the decoration is cast. The motifs consist of scrolls and triple spirals and recall La Tène decoration of the Iron Age.

A silver chain made of plaited wire is attached to the brooch by means of a swivel attachment. This feature is formed of animal heads framing two tiny cast glass human heads.(アイルランド国立博物館公式ページより(1The ‘Tara’ Brooch. National Museum of Ireland.))

(鋳物と金メッキの銀製で、両面に精巧な装飾が施されている。正面には、ガラス、エナメル、琥珀の鋲で区切られた動物や抽象的なモチーフを描いた非常に繊細な金線細工のパネルが連なって装飾されている。背面は正面よりも平らで装飾は鋳造されている。モチーフは渦巻き模様と三重螺旋模様からなり鉄器時代のラ・テーヌ装飾を想起させる。

編んだ針金で作られた銀の鎖が旋回する留め具によってブローチに取り付けられている。この特徴は2つの小さな鋳造ガラスの人間の頭部を縁取る動物の頭部で形成されている。)

同じく金線細工の繊細さで知られるスコットランド南西部ノース・エアシャーのハンターストンで発見された八世紀初頭のものとみられる「ハンターストン・ブローチ」との類似や、「タラ・ブローチ」の動物模様の装飾と七世紀末から八世紀初め頃にノーサンブリア王国で作られた装飾写本「リンディスファーン福音書」の動物模様との類似などから「タラ・ブローチ」の制作年代は七世紀後半から八世紀初頭と推定されている(2ラング、ロイド/ラング、ジェニファー(2008)『ケルトの芸術と文明』創元社、156-160頁)。

「タラ・ブローチ」の金線細工の技術について調査したホイットフィールドからは「繊細な細工であるだけでなく非常に正確であるため拡大しても製造上の欠陥がわからない」(3“Not only is the work carried out on a minute scale, it is also so exact that it can be greatly magnified without revealing flaws in manufacture. “Whitfield, Niamh (2009)“‘More like the work of fairies than of human beings’: the filigree on the ‘Tara’ brooch, a masterpiece of late Celtic metalwork”, ArcheoSciences, 33 | 2009, 235-241.)との高い評価が与えられており、アイルランド国立博物館も「タラ・ブローチは中世初期のアイルランドの金属工芸の最高峰といえる」と評している(4“Tara Brooch can be considered to represent the pinnacle of early medieval Irish metalworkers’ achievement. “The ‘Tara’ Brooch. National Museum of Ireland.)。また、十九世紀にタラ・ブローチを見たロンドン・タイムズ紙の記者は「人間の仕事というより妖精の仕事のようだ」と感嘆するコメントを掲載した(5“more like the work of fairies than of human beings” (O’Neill, 1863: 54).(Whitfield, Niamh (2009)))。

発見から流行まで

「タラ・ブローチ」は、1850年頃にアイルランド東部ミーズ県ベティスタウンの海岸で農民の女性によって発見されたといわれているが発見場所も発見時の状況も不明である。実際には内陸部で発見されたが地主との法的紛争を避けるために女性の家族が事実を改竄したという説もあるが定かではない(6O’Brien, Sean.(2017).”What you should know about the Tara Brooch, one of Ireland’s greatest treasures.“.Irish Central.)。その後、ダブリンの宝石商ジョージ・ウォーターハウスがブローチを買い取り、彼によって「タラ・ブローチ」と名付けられて大々的に宣伝がなされた。ウォーターハウスは当時盛り上がりを見せていたケルト復興運動に乗じて中世前期のケルト的なイメージの工芸品のレプリカを販売する事業を展開しており、このブローチにも神話や中世を連想させる名前を付けた。

「タラ・ブローチ」という名前は中世前期のアイルランド王家の聖地タラの丘に由来する。タラの丘は現在のミーズ県スクリンにある丘陵で、新石器時代から祭祀の場として使われ中世に入るとアイルランドの宗主権を象徴する神聖な場所とされた。アイルランド上王は「タラ王」の称号で呼ばれ、諸王は「タラ王」の地位を争った(7盛節子・田付秋子(2018)「第1章 先史時代から初期キリスト教時代」(上野格/森ありさ/勝田俊輔(2018)『世界歴史大系 アイルランド史』山川出版社、28頁))。またフィオナ騎士団の物語群や聖パトリックの伝承などアイルランドの様々な神話・伝承・文学の舞台として登場する。タラの名が選ばれたのは「このブローチをアイルランドの高貴な王ゆかりの地と結びつけるためであり、彼らの子孫であるというアイルランドの中流階級の幻想を膨らませることを十分に意識していた」(8O’Brien, Sean.(2017))。タラ王と「タラ・ブローチ」の関係を示すような証拠は無く、ウォーターハウスの宣伝戦略の結果として付けられた名前であった。

ウォーターハウスは「タラ・ブローチ」の縮小したレプリカを作成、1851年のロンドン万国博覧会、1853年のダブリン大工業博覧会、1855年のパリ万国博覧会に出品して大いに注目を集めた。特に1853年にはヴィクトリア女王がダブリン大工業博覧会を訪れて「タラ・ブローチ」のレプリカを複数購入、大いに知名度が高まりケルト復興運動を象徴する工芸品としての地位を築いた。1868年までウォーターハウスが所有していたが、その後、ロイヤル・アイルランド・アカデミーに売却され、アイルランド国立博物館設立後は同館に移された。

参考文献

脚注