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ワット・タイラーの乱(1381年)

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「ワット・タイラーの乱(Wat Tyler’s Rebellion)」は1381年6月、イングランド王国で人頭税導入に反対して元兵士のワット・タイラーや聖職者ジョン・ボールらに率いられた農民たちが蜂起した事件。英語ではシンプルに”Peasants’ Revolt”(農民の反乱)の名で呼ばれることが多い。同時期フランスでおきたジャックリーの乱(1358年)などとともに、中世後期を代表する農民反乱である。反乱自体はすぐに鎮圧されたが、特に農奴制の廃止や労働権の保障、自由契約、特権身分の撤廃など、中世的な社会制度の根本的改革を求めた点で特筆される。

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百年戦争下の財政危機

1337年、イングランド王のフランス側領地アキテーヌ公領の臣従礼を巡る対立から始まった百年戦争は序盤こそイングランド王エドワード3世とその子エドワード黒太子の活躍で優位に進めたものの、1370年代に入るとフランス王シャルル5世と名将ベルトラン・デュ・ゲクラン元帥の活躍で征服地のほとんどを喪失する一方、戦費ばかりが増大してイングランド王国は財政危機に瀕していた。

エドワード3世は百年戦争の戦費を度重なる臨時課税と羊毛取引の際の関税、および大商人からの借入に頼っていたが、治世末期の財政・政治危機はこれらが限界を迎えたことにあった。1375年に英仏間で休戦が結ばれたものの休戦明けにはカスティーリャの参戦など軍事情勢の悪化が著しく、戦時体制確立のため行政機構は大きくならざるを得ず、また愛妾アリス・ペラーズへの浪費など、宮廷費も拡大していた。羊毛生産は1370年代に入って大きく減少傾向を示していたから、自ずとさらなる重税を課さざるを得ない。1376年の議会では愛妾アリス・ペラーズや侍従長・宮内府長官ら閣僚の弾劾・追放、および三年間の関税徴収などが決定された。

イングランドの民生は著しく疲弊していた。1348~1349年にヨーロッパ全土で猛威を振るったペストは、地域によって差があるが、イングランドでは概ね30パーセントから45パーセントの死亡率となり、その後も1361年、1369年、1375年と繰り返し襲来してイングランドの農村を壊滅状態にした。労働力の著しい減少は当然労働賃金の上昇や労働者の離散につながるが、これを恐れる大土地所有者の求めに応じて、1351年、労働者の移動の制限と賃金の凍結などを定めた労働市場を規制する法を制定した。

このような慢性的な財政問題を残して、1377年、エドワード3世が亡くなり、王太子エドワード(黒太子)も前年に亡くなっていたため、弱冠10歳で孫のリチャード2世が即位することになった。

人頭税の導入と庶民の不満

1377年から1380年まで、フランス軍の攻勢の前に戦局は引き続き悪化の一途を辿っていた。それでも止めるに止められないのは諸侯の意見の大勢が戦争継続だったからである。彼らは戦功による報酬や身代金の獲得、略奪など戦争で得られるであろう利益を強く求めていた。

戦費徴収のため1377年、1379年と二度の人頭税が課され、1380年には三度目の人頭税が承認されたが、この際、『議会は、新しい人頭税の必要性に疑問を呈しただけでなく、非常に稀なことだが、この課税水準は「耐えられないもの」、すなわち人々が担うことのできる以上のものだと述べた。』(1キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、294頁

『第一回では十四歳以上の男女一人当たり四ペンス、第二回では十六歳以上の俗人男女に各人の経済力に応じてひとり四ペンスから十マルクまでが課された。第三回では十五歳以上の男女一人当たり一シリングが課され、一徴税区内一人一ポンド以内で富者が支払不能者の負担分を代納することが認められてはいたが、平均税率は第一回の三倍であり、第二回にもまして多数の脱税者がでた。』(2城戸毅「イングランド身分制国家の展開」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社)379頁

農民反乱の勃発

1381年5月20日、ロンドン北東エセックス州ブレントウッドで民衆が領主館の記録を焼き払った事件が前触れで、5月30日、議員のジョン・バンプトンが現地に到着して調査を開始すると、6月2日、これに反発して民衆が納税拒否者裁判の陪審員三人を殺害し農民反乱が始まった。同じころ、ケントのロチェスター城でも納税拒否者の解放を求めて農民が押し掛け、エセックスとケント両地域からロンドンへ向けて農民たちが向かい各地からこの反乱集団に合流し始める。

反乱の指導者となったワット・タイラーの経歴は謎に包まれているが、従軍経験がある兵士だったという。彼とともに思想的指導者となったのがヨークの司祭だったジョン・ボールである。司祭を辞して各地を放浪し、『ゆくさきざきで支配層の腐敗堕落を指弾し、農民に立ち上がるようよびかけて歩いた。一三六〇年代に破門されたが、これに屈せず身分や階級の撤廃と富の共有を説き、一揆の直前には政府に拘留されてケントの監獄にいた』(3城戸毅(1991)379頁)という。

6月12日、一揆集団はグリニッジ近くのブラックヒースに到着し、史上名高いジョン・ボールの演説が行われた。

『アダムが耕しエバが紡いだとき、誰が貴族だったのか“When Adam delved and Eve span, Who was then a gentleman?” 』(4Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Ball, John“. Encyclopædia Britannica. 3 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 263.

6月13日、ロンドンに入った一揆勢にロンドン市民も加わって修道院を襲撃し、重臣ジョン・オブ・ゴーントのサヴォイ宮殿を焼き払い、監獄が襲われて囚人が解放された。

『彼らは社会の変革を求め、全ての貴族制度の廃止を欲していたが、国王に対して不忠をなしているわけではなく、争いの相手は国王ではないと主張していた。それどころか、彼らは揃ってリチャードに対して忠誠を誓っていた。彼らが見るところ、リチャードは君側の奸に囲まれており、そこから直ちに救い出される必要があった。事態の核心には困難があり、必要とあらば国王に直接申し入れ、一筆ふるって事態を収束せしめるというのが彼らの意図するところであった。』(5ロイル、トレヴァー(2014)『薔薇戦争新史』彩流社、41頁

リチャード2世とワット・タイラー

「ワット・タイラーの乱で農民らと会談に向かうリチャード2世」(ジャン・フロワサールの年代記、フランス国立図書館収蔵)

「ワット・タイラーの乱で農民らと会談に向かうリチャード2世」(ジャン・フロワサールの年代記、フランス国立図書館収蔵)
Public domain, via Wikimedia Commons

イングランド王リチャード2世は当時14歳とまだ若かったが、率先して行動し、6月14日、ロンドン塔を出たリチャード2世はロンドン市長サー・ウィリアム・ウォルワースを供にして農民反乱軍との面会に臨み、反乱軍は農奴制の廃止や自由契約、農民の移動の自由、農地の固定賃借料の制定などを求め、リチャード2世はこれらの条件を受け入れ、追って文書で確約した上で反乱に参加した農民たちを罪に問わず故郷に帰れるよう取り計らうことなどを約束して両者は合意に至った。

しかし、同じころ、暴発した民衆がロンドン塔を襲撃、人頭税施行の責任者だった尚書部長官カンタベリー大司教サイモン・サドベリー、大蔵卿サー・ロバート・ヘイルズらを捕らえ処刑した上で首級をロンドン橋で晒すという事件が起きていた。

6月15日、スミスフィールドでリチャード2世とワット・タイラーの会談が取り行われたが紛糾した。ワット・タイラーは国王に礼を行わず対等の者として挨拶した上で、教会所有地の没収などより過大な要求を行ったという。両者の議論が平行線をたどる中、ウォルワースは会談の場に馬で乗りこむと、ワット・タイラーを刺殺してしまった。同時代の年代記作家らが記録するところによれば、圧倒的多数の群衆が暴発して命の危険すらある中、動揺する群衆を前に、リチャード2世は馬上から『朕は諸君らの指導者だ。朕に続け』(6ロイル(2014)44頁)と堂々とした振る舞いを見せ、直後、武装兵が到着して群衆は解散させられた。7月2日、リチャード2世は6月14日の約束の撤回を宣言し、ジョン・ボールら首謀者が逮捕、処刑された。

「ワット・タイラーの乱」の意義

中世ヨーロッパ世界で争議の原因となってきた身分制度・労働・地代・課税・公共圏・裁判などの諸問題が、疫病や戦乱などの危機的状況や経済的混乱、制度的限界を迎えたことで、十四世紀から十五世紀にかけて集中的、暴力的な農民反乱という形態で発生した。

『野心的な大衆運動は、その志を完全に実現することはできなかったが、段階的な変化の要因として、究極的な到達への道を支えた』(7ロイン、ヘンリー・R.(1999)『西洋中世史事典』東洋書林、376頁

ワット・タイラーの乱は同時代のフランスでおきたジャックリーの乱(1358年)などとともに、中世後期を代表する農民反乱である。特に農奴制の廃止や労働権の保障、自由契約、特権身分の撤廃など、中世的な社会制度の根本的改革を求めた点で特筆される。

参考書籍

脚注

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