ブルナンブルフの戦い(937年)

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ブルナンブルフの戦い(Battle of Brunanburh)は、937年秋、イングランド王アゼルスタン率いるイングランド軍がダブリン王国・アルバ(スコットランド)王国・ストラスクライド王国連合軍を撃破した戦い。アゼルスタン王の全イングランド統一(927年)によって成立したばかりのイングランド王国を脅かす脅威が排除され、以後のイングランドにおける統一王国体制確立を決定づけた画期となった戦い。または「アングロ・サクソン年代記」の937年の条に収録された73行からなる古英語で書かれた詩のこと(1The Battle of Brunanburh | Anglo-Saxon, Viking, 937 AD . Britannica.)。

「アングロ・サクソン年代記」の937年の条に収録されたブルナンブルフの戦いの古英語詩の冒頭

「アングロ・サクソン年代記」の937年の条に収録されたブルナンブルフの戦いの古英語詩の冒頭
Credit: Public domain, via Wikimedia Commons

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背景

八世紀末から始まったヴァイキングのブリテン諸島侵攻に対し、ウェセックス王国による反撃と再征服が進められ、アゼルスタン王時代の927年、残ったノーサンブリア地方の征服が完了、全イングランドの統一に成功する。しかし周辺諸国の反発を招いて、927年7月12日、現在のカンブリア州ペンリス近郊にあったイーモント橋にアゼルスタン王、アルバ王コンスタンティン2世、ストラスクライド王オワイン、デハイバース(2十世紀当時南部を除くウェールズ地方の大半を勢力下に置いた王権)王ハウェル、バンバラ伯(3ノーサンブリア王国崩壊後ノーサンブリア地方北部にあったアングロ・サクソン勢力)エルドレッド1世ら諸王侯が集まり講和会議が開かれ七年間の休戦、バンバラ伯のイングランド臣従などが決められた。征服後、アゼルスタン王は初めてイングランド王(Rex Anglorum)の称号を使う(4The Electronic Sawyer: Online Catalogue of Anglo-Saxon Charters,S400., London, British Library, Add. 15350, ff. 70r-71r (s. xii med.),)など、このイングランド統一が実現した927年にイングランド王国が成立したと考えられている。

934年、休戦期間の終了にあわせてアゼルスタン王はスコットランドへ侵攻した。このとき、なぜスコットランドへ侵攻したのかは不明で様々な説が唱えられている。アゼルスタンの王位継承に反抗していた異母弟エドウィンが933年に亡くなり国内の反国王派を完全に排除出来たこと、アゼルスタンによって追放されたヨールヴィーク最後の王でダブリン王グスフリスがこの年亡くなったこと、ウェールズ諸王からの服従も得られたことなどの条件が整ったためノーサンブリア地方の覇権を確実なものとするため侵攻に乗り出した説と、かねてからノーサンブリア地方に野心を持っていたアルバ王国が和平条約を破ったためアゼルスタンが侵攻を開始したとする説で、後者については十二世紀の歴史家ウスターのジョンやマームズベリーのウィリアムらが記しているがそれを証明する記録は無い。

いずれにしてもアゼルスタンは万端準備を整え、デハイバース王ハウェルらウェールズ地方の四人の王を始め従えて大規模な軍勢を率いてスコットランドへ侵攻、フォース湾まで支配を広げた。コンスタンティン2世は息子を人質として差し出し、アゼルスタン王の帰還にも同行することとなる。935年、サイレンセスターで開かれたアゼルスタン王の勅許状公布式にはコンスタンティン2世を始めストラスクライド王オワイン、デハイバース王ハウェルら諸王が副王(subregulus)として出席、これはアゼルスタン王を上級君主として認めたことを示している。

ブルナンブルフの戦い

937年8月、アゼルスタン王によって征服されたノーサンブリア地方南部のデーン人王国ヨールヴィーク最後の王でアイルランドのダブリン王だったグスフリスの後を継いでダブリン王となったオーラフ・グスフリースソンがアルバ王コンスタンティン2世、ストラスクライド王オワインと同盟を結び、ノーサンブリア地方の旧領奪還を目指して船団を組織しダブリンを出航、同年秋、イングランドに上陸した。十二世紀のダラムのシメオンの著作”Libellus de exordio”によればダブリン王軍は615隻の船団であったという。

ダブリン王国軍がヨーク周辺に勢力を伸ばし、アルバ王国軍やストラスクライド王国軍がロージアン地方へと進出する中、アゼルスタン王は十分な軍の編成が完了するまでのあいだ最低限食い止めつつ準備を整えていたとみられ、マームズベリーのウィリアムによると、アゼルスタン王は抵抗せずこれらをなすがままにして荒廃が進んだ後、一気に大軍を編成して反撃に出た。このときわざと退却して連合軍を奥地まで引きずり込んだともいう。

彼の最後の戦いは、シトリックの息子アンラフ(オーラフ5実際にはオーラフの父はグスフリスでグスフリスの先代の王がシトリック、シトリックとグスフリスは祖父を同じくする親族とみられる)との戦いであった。アンラフ(オーラフ)は、再び反乱を起こした前出のコンスタンティンとともに、王国を手に入れようと彼の領土に侵入した。アゼルスタンは、猛烈な襲撃者を打ち負かすことでより大きな名誉を得ようと、わざと退却したが、この大胆な若者は無法な征服を企て、今やイングランド奥地まで進んでいた。
“His last contest was with Anlaf, the son of Sihtric, who, with the before-named Constantine, again in a state of rebellion, had entered his territories under the hope of gaining the kingdom. Athelstan purposely retreating, that he might derive greater honour from vanquishing his furious assailants, this bold youth, meditating unlawful conquests, had now proceeded far into England,”(6Giles, J. A. (1847).William of Malmesbury’s Chronicle of the Kings of England.,Project Gutenberg.CHAP. VI.

ダブリン王国・アルバ王国・ストラスクライド王国連合軍とアゼルスタン王率いるイングランド軍はブルナンブルフ(Brunanburh)と呼ばれる地で激突、「この島で、かつて、これ以前に(中略)これほどの殺戮がおこなわれたことはなかった」(7大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、122頁)ほどの激しい戦いとなり、イングランド軍が勝利した。連合軍は多数の犠牲を出してダブリン王オーラフとアルバ王コンスタンティン2世は敗走、ストラスクライド王オワインは消息不明だがおそらく戦死したとみられる。

ブルナンブルフの位置については現在まで議論が続き、イングランド中北部ヨークシャーのバーンズデールやブリンスワース、スコットランド南部ダンフリース・アンド・ガロウェイのロッカビー村近郊など各地に候補地があるが、近年ではリヴァプール近郊のウィラル半島に位置するブロムバラ説が有力となっている(8Humphrys, Julian.(2023). Brunanburh: The Battle That Forged England. HistoryExtra./Blakemore, Elin.(2023).England was born on this battlefield. Why can’t historians find it? National Geographic.)。

「ブルナンブルフの戦いはイングランド史に重大な転機をきざんだ。デーン人の侵入により解体した『七王国』の政治的旧秩序にかわって、統一王国出現の決定的画期となったからである。アゼルスタンは発給した地権書のなかで『イングランド王』『全ブリタニア王』と称したが、それにふさわしい実力と政治的状況をつくりだした。」(9青山吉信「第5章 イングランド統一王国の形成」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、162頁)

参考文献

脚注