ノルマン・コンクエスト(1066年)

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「ノルマン・コンクエスト(Norman Conquest)」は、1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世率いるノルマンディー公国軍がイングランドへ侵攻、ヘースティングズの戦い(1066年10月14日)の勝利によってイングランド王位を獲得し、以後1070年代半ばにかけてイングランド全土を征服していった一連の軍事行動、および、征服の過程でアングロ・サクソン人からノルマン人へと支配層が入れ替わることで生じた、イングランドの政治、行政、社会、文化の様々な変化のこと。

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背景

ノルマンディー公国と北フランスの覇権争い

「ノルマンディー公国の領土(911年から1050年まで)」

「ノルマンディー公国の領土(911年から1050年まで)」
Credit: FlyingPC (talk · contribs), Morningstar1814 (talk · contribs), CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons


ノルマンディー公国はヴァイキングの侵攻に悩む西フランク王シャルル単純王が911年、ヴァイキングの首長ロロにキリスト教への改宗と臣従を条件にルーアン周辺を封土として与えたことに始まる。ギヨーム1世(在位927-942)、リシャール1世(在位942-996)の時代に海上交易の繁栄を背景とした強力な領邦権力として確立され、十世紀末、リシャール2世(在位996-1026)がノルマンディー公を名乗り、名実ともにノルマンディー公国が成立した。

1035年、ロベール1世(在位1027-35)死後ギヨーム2世(後のイングランド王ウィリアム1世)が公位につくと幼い新公に対し有力貴族らが反乱を起こし、これにフランス王アンリ1世、アンジュー伯ジョフロワ2世ら周辺諸侯が介入、長期に渡って戦闘状態となる。1047年、ギヨーム2世はヴァル・エス・デュヌの戦いで反乱を鎮圧、1053年、フランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダと結婚、フランドル伯との同盟関係を確立して、1054年のモートマの戦い、1057年のヴァラヴィルの戦いでフランス王・アンジュー伯軍を撃破、公領の支配を固めた。

1060年、フランス王アンリ1世、アンジュー伯ジョフロワ2世が相次いで亡くなり、フランス王位は八歳の幼君フィリップ1世が継ぎ、摂政として義父のフランドル伯ボードゥアン5世が補佐することとなって融和ムードが高まり、一方アンジュー伯家は後継を巡って内紛となり大きく勢力を減退させた。1063年、アンジュー伯との境界にあったメーヌ地方を獲得してアンジュー伯の脅威を取り去り、さらに1064年、ノルマンディー公国の背後を脅かしつつあったブルターニュ公国へ遠征、ブルターニュ公コナン2世を下して影響下に置いた。

ノルマンディー公国とフランス王・アンジュー伯との三つ巴の対立状態が続く中で、ギヨーム2世は公国の支配を確立し、さらに周辺諸勢力を一時的に抑えることに成功していた。イングランド王国という後背地を獲得できれば、他の周辺諸勢力に対して非常に大きな優位を確立することが可能となる。以上のように当時の情勢はノルマンディー公がイングランド征服を実行する上で非常に有利な条件が揃っていた。

イングランド王位継承問題

1002年、イングランド王エゼルレッド2世(在位978-1016)は、圧力を増すデーン人に対抗するべくリシャール2世の姉妹エマ・オブ・ノーマンディーを妻に迎え、イングランドとノルマンディーの関係を強化した。二人の間に長子アルフレッドと、後にエドワード証聖王となる次子エドワードが産まれた。1002年から続いたデンマーク軍によるイングランド侵略は、1016年、エゼルレッド2世とその子エドマンド剛勇王の死によってアングロ・サクソン人王朝に替わりデーン人王朝が誕生した。イングランド王に即位したクヌート大王はエゼルレッド2世の未亡人エマ・オブ・ノーマンディーを二人目の妻とし、二人の間に男子ハーザクヌート(1英語”Harthacnut”,デンマーク語”Hardeknud”ハーデクヌーズ)と女子が産まれた。

1035年、クヌート大王が亡くなると、デンマーク王位とイングランド王位はハーザクヌートが継いだが、ハーザクヌートはノルウェー王マグヌス1世との戦いのためイングランドへ向かえず、異母兄弟ハロルドが摂政としてイングランドを統治した。しかし、イングランド諸侯やハロルドの母エルフギーフの後押しでハロルドがイングランド王に即位した(ハロルド1世)。また、クヌート大王の死の前年、ノルウェー王として父王と共治していたスヴェン・クヌートソンが追放されてクヌート大王の前のノルウェー王オーラヴ2世の子マグヌス1世がノルウェーに帰還して即位しており、結果、北海帝国は3つに分裂した。

1039年頃、ハーザクヌートとマグヌスの間で、もしどちらかが直接の相続人なしに亡くなった場合、もう一方が王国を継承することに同意する取り決めがなされた(2Simkin,John.(1997).The Battle of Stamford Bridge,Spartacus Educational./十三世紀の「ヘイムスクリングラ」の「マグヌス善良王のサガ」によれば「ふたりが生きている限り、兄弟のよしみを誓い、両者間で和睦をむすんだ。そしてもしも一方が子を残さずに死んだ場合は、生き残った方が他方の土地と人々を受け継ぐことにした」(スノッリ・ストゥルルソン/谷口幸男 訳(2010)『ヘイムスクリングラ−北欧王朝史(三)』プレスポート・北欧文化通信社、351頁))。1040年、ハロルド1世が亡くなったことでハーザクヌートはイングランドに渡りイングランド王として即位したが、わずか二年後の1042年に亡くなった。死に際してイングランド王位はマグヌス1世ではなく、ハーザクヌートの同母兄弟でクヌート大王の前のイングランド王エセルレッド2世の子エドワード(証聖王)に継承された。マグナス1世は異議を唱えたがイングランド王位を得ることは叶わず、1047年に亡くなり叔父のハーラル3世がノルウェー王となった。マグヌス1世の後を継いだハーラル3世はエドワード証聖王死後、この約定を受け継いだとして王位継承権を主張した。

エドワード証聖王は若くして亡命生活を送っていたこともあり、未婚のままイングランド王に即位した。1045年、有力貴族のウェセックス伯ゴドウィンの娘エディスと結婚する。ゴドウィンはクヌート大王によって伯に抜擢された新興貴族の一人でイングランド南部を支配下に収め、クヌート死後歴代イングランド王即位に際して強い影響力を発揮し、事実上イングランド最大の一門となっていた。初期、エドワード証聖王はゴドウィン家と対立したが1050年代にゴドウィン家排除のクーデターが失敗したあとは、ゴドウィンの子ハロルド・ゴドウィンソンとの協調関係を築いて政権運営を行った。しかし、一貫して妻エディスとは距離を置き、熱心なキリスト教徒であったこともあり、子供が産まれることはなかった。

1056年、エドワード証聖王はクヌートによって国外に追放されハンガリー王国で過ごしていた義兄エドムンド剛勇王の子エドワード・アシリングをイングランドに呼び戻して後継者としようとしたが、エドワード・アシリングは帰国直後に病死し、まだ幼い遺児エドガー・アシリング(1054年頃生-1125年以降没)が残された。エドガー・アシリングは以後エドワード証聖王以外の唯一の王族として生育される。

ウィリアム1世の命で1070年頃に書かれたギヨーム・ド・ジュミエージュ著「ノルマン人諸公の事績録」やウィリアム1世に仕えた司祭ギヨーム・ド・ポワティエが1070年以降に書いた「ノルマン人の公ウィリアムの事績録」など、複数のノルマンディー側史料では生前エドワード証聖王ギヨーム2世をイングランド王位の継承者とする約束をして(3鶴島博和(2015)『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』山川出版社、20-22頁ハロルド・ゴドウィンソンもノルマンディー公への臣従を承諾していたと主張している(4鶴島博和(2015)46-47頁)。これらの著作はウィリアム1世の征服を正当化する傾向が強いため事実か否かは定かではないが、エドワード証聖王が約束したならばハロルド・ゴドウィンソンがノルマンディーを訪れた1064年の直前頃か、ウェセックス伯ゴドウィンの一門がエドワード証聖王と対立した期間中で「アングロ・サクソン年代記」にノルマンディー公ギヨーム2世が大軍を率いてイングランドを訪れたという記述がある1052年の可能性がある(5大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、205頁/Battle of Hastings,Britannica.)。

イングランド征服(1066年)

前哨戦

「スタンフォード・ブリッジの戦い」(ピーター・ニコラ・アルボ作、1870年、北ノルウェー美術館収蔵)

「スタンフォード・ブリッジの戦い」(ピーター・ニコラ・アルボ作、1870年、北ノルウェー美術館収蔵)
Peter Nicolai Arbo: The Battle of Stamford Bridge. 1870. Nordnorsk Kunstmuseum.
Credit:Peter Nicolai Arbo, Public domain, via Wikimedia Commons


1066年1月5日、エドワード証聖王が亡くなった。子供の無かったエドワード証聖王の後継候補としては重臣で王妃エディスの兄弟ハロルド・ゴドウィンソンエドワード証聖王の異母兄エドムンド剛勇王の孫エドガー・アシリング、ノルウェー王ハーラル3世、ノルマンディー公ギヨーム2世の四人がいた。当時十代前半だったエドガー・アシリングは若すぎるとして退けられ、イングランドで開かれた賢人会(ウィタン)によってハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王に推され、翌6日、ハロルド2世として即位したことで、王位継承を巡る戦いが勃発する。

エドワード証聖王の死とハロルド2世の即位はすぐに周辺諸国の知るところとなり、ノルマンディー公ギヨーム2世から即位に対する非難が伝えられる(6鶴島博和(2015)93頁)。使者は1064年にハロルド2世とノルマンディー公の間で約束されたハロルド2世の妹と公との婚姻の履行と王位継承の約束を破ったことを非難、ハロルドは妹は死んだため約束は履行出来ないなど使者の言を退けた。その後再度ギヨーム2世は使者を送って軍事行動の可能性をちらつかせたが交渉は決裂、遠征準備に取り掛かった。ハロルド2世はノルマンディーに多数の密偵を送って情勢を探らせ(7鶴島博和(2015)95頁)、ドーヴァー城を増強しイングランド南部に兵力を集めるなど、ノルマンディー公国との開戦に向けた準備が進められている。ハロルド2世が「今までこの国のいかなる王も集めたことがないような海陸の大部隊を集めた」(8大沢一雄(2012)220頁)と「アングロ・サクソン年代記」は書き記す。

1066年4月24日頃、ハレー彗星があらわれ人々は異変の前兆と語り合ったという(9大沢一雄(2012)220頁)。その直後、前年失政でノーサンブリア伯を解任・追放されていたハロルド2世の弟トスティグ・ゴドウィンソンが60隻の艦隊を率いてワイト島を攻撃、サンドウィッチを占領した後、ハンバー川河口まで進出してリンゼーで住民を多数虐殺した。マーシア伯エドウィンが陸上部隊を率いてこれを撃破、トスティグは12隻ほどに減った船団で敗走し、スコットランドへ逃れた。

1066年9月初旬、スコットランドでトスティグ・ゴドウィンソンはノルウェー王ハーラル3世に臣従した。ハーラル=トスティグ連合軍は9月中旬ヨーク近辺へ上陸し、9月20日、マーシア伯エドウィンとノーサンブリア伯モーカー率いるイングランド軍が迎え撃ったがハーラル=トスティグ連合軍が勝利した(フルフォードの戦い)。9月24日、ヨーク市に入ったハーラル3世とトスティグは同市から人質と食糧を提供させた上で、ヨーク市民を自軍に編成してイングランド征服に従事させる旨の講和条約を結び、早々とヨークを出て南下を開始、人質が集められると約束されたスタンフォード・ブリッジへと進んでいった。

1066年9月8日、なかなか攻めてこないノルマンディー軍に対する長期の臨戦態勢を維持出来なくなり、ハロルド2世は一旦軍を解散する。このようなタイミングで北から侵攻してきたのがハーラル3世で、この対応のためハロルド2世は集められるだけの軍を集めて北へ向かっていた。ハロルド2世がいつノルウェー軍の侵攻を知ったかは不明だが、ハーラル=トスティグ連合軍がヨークを出た9月24日には、ロンドンにいたはずのハロルド2世率いるイングランド軍主力がおよそ300キロメートル以上離れたヨークの南16キロメートル付近のタドカスターに到着しており、非常に短期間に軍勢を移動させていた。9月25日、人質引き渡しの場所であるダヴェント川に架かるスタンフォード橋の付近で逗留していたハーラル=トスティグ連合軍を、ハロルド2世率いるイングランド軍が急襲する。ノルウェー王ハーラル3世とトスティグ・ゴドウィンソンの両指揮官が戦死し、300隻を数えたノルウェー軍はわずか24隻にまで減らされて撤退、機動力に優れたイングランド軍の圧勝で終わった(スタンフォード・ブリッジの戦い)。

「ノルマン・コンクェスト1066年の地図」 Credit:Amitchell125 at English Wikipedia, CC BY 3.0 , via Wikimedia Commons

「ノルマン・コンクェスト1066年の地図」
Credit:Amitchell125 at English Wikipedia, CC BY 3.0 , via Wikimedia Commons

ヘースティングズの戦い

「ヘースティングズの戦い布陣図」

「ヘースティングズの戦い布陣図」
鶴島博和(2015)『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』山川出版社、156頁より


9月28または29日、ノルマンディー公ギヨーム2世率いるノルマンディー軍がイングランド南岸ペヴェンジーに上陸、ハロルド2世も急ぎロンドンへ戻り、ノルマンディー軍を迎え撃つ準備を整えた。両軍ともヘースティングズへ主力を進め、10月13日、ハロルド2世率いるイングランド軍はヘースティングズからほど近いカルドベックの丘の稜線に布陣、対するギヨーム2世率いるノルマンディー軍はカルドベックの丘の南、テラムの丘に布陣した。両軍とも5000~7000名前後だったと推測されている。歩兵中心のイングランド軍に対して騎兵中心のノルマンディー軍という特徴があった。

イングランド軍は両翼をフェルドと呼ばれる民兵が、中央を王の親衛隊であったハスカールと呼ばれる護衛部隊が構成し、丘の稜線に沿って重装歩兵による五列の密集戦列を組み、盾をお互いに組み合わせて壁を作りその隙間から槍を突き出す「盾の壁」と呼ばれる堅固な防御陣形を敷いている。総指揮官ハロルド2世の下、弟イースト・アングリア伯ギリスと同じく弟のケント伯レオフワインの二人が副将を務める。ケント地方からの志願兵は王から高い信頼を寄せられて第一陣を務めた。ノルマンディー軍は中央をギヨーム2世率いる親衛隊とノルマン人部隊から構成される本隊、左翼をブルターニュ軍、右翼には留守を守る重臣ロジェ・ド・ボーモンの子ロベール・ド・ボーモンが率いるフランドルやブーローニュなど多様な出身地からなる騎兵混成部隊の三部隊に分け、最前列がクロスボウで武装した歩兵、二列目が重装歩兵、三列目が騎兵という布陣で、丘上に陣取るイングランド軍の前面に展開した。

10月14日朝9時頃、ノルマンディー軍の攻勢によってヘースティングズの戦いは始まった。序盤は地の利を生かしたイングランド軍が優勢となり、ノルマンディ軍は不利な地形とイングランド軍の堅い守りに阻まれて攻めあぐねることになった。戦線が膠着するなか、ノルマンディー軍にギヨーム2世戦死の噂が駆け巡り、動揺が走る。ギヨーム2世はすかさず兜を投げ捨てて馬を走らせ、自らの健在をアピールして戦線の崩壊を防いだ。

「バイユーのタペストリー第51場、兵士たちを鼓舞するノルマンディー公ギヨーム2世」

「バイユーのタペストリー第51場、兵士たちを鼓舞するノルマンディー公ギヨーム2世」
Public domain, via Wikimedia Commons


戦況はノルマンディー軍が不利な情勢で推移したが、午後、ギヨーム2世は逃亡を装っての後退を指示し、二度に渡り偽装撤退からのイングランド軍の追撃を反転迎撃して殲滅する作戦を成功させ、堅守でノルマンディー軍を退け続けたイングランド軍の戦線が一気に崩れた。さらにギヨーム2世は弓兵に高く矢を上に放つよう指示し、頭上からの矢の雨にイングランド軍が次々と倒れる。さらにその矢の一本がハロルド2世の右目に刺さった。王はその矢を自ら引き抜き、痛みをこらえて指揮を執り続ける不屈ぶりを見せつけ、その王の雄姿に鼓舞されるように、まだイングランド軍はケントとエセックスの精鋭を中心に激しく抵抗、攻勢にでるノルマン軍を再度押し返す。これに対してギヨーム2世自ら千名の精鋭で密集隊列を組み激しい攻勢に出て、この乱戦の中でハロルド2世が戦死、戦いは終結した。

ヘースティングズの戦い(1066年)
ヘースティングズの戦い(Battle of Hastings)は1066年10月14日、イングランド南部の港町ヘースティングズの近郊、現在のイースト・サセックス州バトルで行われた、ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランド王ハロルド2世に勝...
「バイユーのタペストリー」
「バイユーのタペストリー(英語 “Bayeux Tapestry”,仏語 “Tapisserie de Bayeux” 」は1066年10月14日、ノルマンディー公 ギヨーム2世(のちのイングランド王ウィリアム1世)とイングランド王ハロルド...

戦後、マーシア伯エドウィン、ノーサンブリア伯モーカー、ヨーク大司教エルドレッド、カンタベリー大司教スティガンドらイングランドの聖俗諸侯はエドガー・アシリングを新王に推戴してノルマンディー軍に抵抗したが、反抗はそれ以上波及せず、12月、彼らが拠点としていたハートフォードシャー州バーカムステッドでノルマンディー軍に降伏した。12月25日、ノルマンディー公ギヨーム2世はロンドンのウェストミンスター寺院において、ヨーク大司教エルドレッドの手で王冠を被せられイングランド王に即位した(ウィリアム1世)。

イングランドの抵抗と鎮圧(1067-1075)

1067-68年の諸反乱

1067年3月、ウィリアム1世はイングランドの統治をこの年新設されたヘレフォード伯に任じられた重臣ウィリアム・フィッツオズバーンと王の異父弟バイユー司教オドに任せてノルマンディー公国へ帰国する。このときエドガー・アシリング、マーシア伯エドウィン、ノーサンブリア伯モーカー、ハンティンドン伯ワルセオフ、ヨーク大司教エルドレッド、カンタベリー大司教スティガンドら旧体制の有力者たちを同行させた。

ウィリアム1世がイングランドを離れた後、イングランド各地で反乱が多発した。シュロップシャーの豪族(セイン)エアドリック・ザ・ワイルド(Eadric the Wild、野人エアドリック)がウェールズ地方のポウィス=グウィネズ王ブレジン・アプ・カンヴァン(Bleddyn ap Cynfyn、在位1063-75)と同盟を結んでヘレフォードで反乱を起こした。撃退されてウェールズに退くが抵抗を続けてたびたびイングランド西部に侵攻、1069年にはシュルーズベリー城を包囲し、同年、スタフォードの戦いでウィリアム1世に敗れその後は臣従した。

12月6日、ウィリアム1世はイングランドへ戻り、エアドリックの反乱に対処するとともに、1068年春になるとハロルド2世の母ギータ・トルケルスドッティルを擁する反乱軍がエクセターで蜂起したためウィリアム1世自ら軍を率いてエクセターへ向かい、18日間の包囲を経て降伏させる。こののちギータはフランスへ亡命した。さらにアイルランドへ亡命していたハロルド2世の遺児たちが船団を率いてブリストルを攻撃してきたがイングランド軍に撃退されている。1068年5月11日、ウィリアム1世の妻マティルダがイングランドへ赴きウェストミンスター寺院で王妃として戴冠、さらなる権威の確立に務めるとともに、各地に城を築いてイングランドの混乱平定に乗り出した。

1068年後半、エドガー・アシリングがノーサンブリア伯ゴスパトリックとともにノーサンブリアで蜂起した。ゴスパトリックはノーサンブリア地方の有力な領主の一族でウィリアム1世に多額の金銭を払ってモーカーに替わりノーサンブリア伯に叙されるなど表向き忠誠心を見せていた人物であった。時を同じくして元ノーサンブリア伯モーカー、マーシア伯エドウィンらもウェールズの支援を受けてマーシアで反乱を起こしたがどちらも程なくして鎮圧される。エドガー・アシリングと妹マーガレットらアシリングの一族はゴスパトリックとともにスコットランドへの亡命に成功、スコットランド王マルカム3世を頼った。エドガー・アシリングらはマルカム3世に援助を請い、マルカム3世と妹マーガレットとの結婚が条件として提示された。スコットランドの協力を得た彼らは再び捲土重来を期す。

「北イングランドの荒廃化(1069-70年)」

ウィリアム1世は叛いたゴスパトリックに変えてノルマン人のロベール・ド・コミーヌをノーサンブリア伯に任じ北方の統治を任せたが、1069年初頭、コミーヌはダラムで反乱に直面し九百人の兵士とともに殺害される。続いてエドガー・アシリング率いるノーサンブリア人の反乱軍がヨーク市を包囲したため、ウィリアム1世自ら大軍を率いてこれを撃破し、エドガー・アシリングはスコットランドへ撤退した。

エドガー・アシリングはデンマーク王スヴェン2世に支援を求め、1069年夏、スヴェン2世の王子三人らが指揮する240隻の船団を派遣してハンバー川からイングランド上陸に成功、エドガー・アシリング、ゴスパトリック、ハンティンドン伯ワルセオフら率いる反乱軍と合流してヨーク市を占領する。同時期、イングランド南西部では前述のエアドリック・ザ・ワイルドとウェールズの連合軍がシュルーズベリー城を包囲しており、スタフォードの戦いで彼らを撃破すると、12月、ウィリアム1世は「集められる限りの軍勢を率いて」(10大沢一雄(2012)230頁)北進する。越冬に適した地が無かったためハンバー川河口沖の船上に退いていたデンマーク軍に交渉を持ちかけて春に出発することを条件に大金と海岸略奪の許可を約束し、ノーサンブリア軍と離反させると、手薄となっているヨーク市を再奪還した。

1069年冬、ウィリアム1世は反乱軍の活動を断つため、後世「北イングランドの荒廃化(Harrying of the North)」(11“Harrying of the North”と呼ばれる戦乱の日本語訳は定訳が無いがここではハーヴェー附録の年表から「北イングランドの荒廃化」を採用した。なお日本語版wikipediaは「北部の蹂躙」という訳で立項されているが同訳の根拠となる文献等は不明。)と呼ばれることになる焦土戦術を実行した。ウィリアム1世はヨークシャー全土に部隊を分散派遣して農産物や集落の破壊と略奪を命じ全土を荒廃させた。十二世紀の歴史家オルデリク・ヴィターリスはこの作戦によって十万人以上が餓死したと書いており、被害規模については現在まで議論があるが、後にウィリアム1世が作成させた「ドゥームズデイ・ブック」でも1086年時点でヨークシャーの全所有地のほぼ3分の2が荒廃し8万頭の牛と15万人が失われていたことが記録されている(12Morris, Marc.(2019). Was William the Conqueror a war criminal? The brutal story of the Harrying of the North. HistoryExtra.)。1070年までにノーサンブリアでは旧アングロ・サクソン系貴族の土地の大部分が取り上げられてノルマンディー地方出身の有力者たちに再分配されて支配層の大幅な入れ替えが進められ、反乱の芽は完全に摘まれていった(13城戸毅「第六章 イングランド封建国家」(青山吉信編(1991)『イギリス史〈1〉先史~中世 (世界歴史大系)』山川出版社、212頁))。

全イングランドの平定

1070年春、デンマーク王スヴェン2世がデンマーク軍に合流すると春撤退の約束を破棄してウォッシュ湾へ船団を向けイーリー島に上陸、同地を拠点にイングランド東部で反ノルマン軍を率いるヘリワード・ザ・ウェイク(Hereward the Wake)と合流し、ピーターバラ修道院を略奪した。ウィリアム1世はあらためてスヴェン2世と交渉、条件で合意してデンマーク軍は帰国した。

ヘリワード・ザ・ウェイクは1070年頃から72年頃にかけてイーリー島を拠点にイングランド東部でノルマン人支配への抵抗運動を率いた人物だが、その伝承には誇張や創作が多く含まれているため情報源の正確性は評価し辛い人物である。伝承の多くは後にロビン・フッド伝説に大きな影響を与えた。「アングロ・サクソン年代記」の記録によれば、1070年のピーターバラ修道院の襲撃のあと、71年、モーカーらが合流してイーリーで激しく抵抗しウィリアム1世の討伐を受けた。モーカーらは捕らえられたがヘレワード・ザ・ウェイクは逃げ延びさらに抵抗したという。このとき、合流前にモーカーとともに蜂起したマーシア伯エドウィンは部下の裏切りで殺されている。また、捕らえられたモーカーは87年頃に亡くなるまで生涯を獄中で過ごすこととなる。

1072年、ウィリアム1世はエドガー・アシリングを保護するスコットランドへ遠征を実施した。この頃までにマルカム3世はエドガーの妹マーガレットを王妃として迎え、多くのアングロ・サクソン人亡命者を受け入れ宮廷のアングロ・サクソン化改革を実施して体制の強化に努めていた。イングランド軍とスコットランド軍はフォース湾を挟んで対峙したあと現在のパース・アンド・キンロス州アバネシーで王同士会談し、和睦した(アバネシー条約)。条件は詳しくわかっていないがマルカム3世がウィリアム1世に臣従し、王子ダンカンが人質としてイングランドに送られるかわりにカンブリアの支配権を認められるような内容であったとみられる。この結果、エドガー・アシリングはスコットランドに居られなくなりフランドルへ再亡命した(14Edgar The Aetheling.Britannica.)。

同年、ゴスパトリックもイングランドから追放されて翌73年、フランドルで客死。ワルセオフもウィリアム1世に降伏してノーサンブリア伯に任じられる(15ノーサンブリア伯ワルセオフは1075年の「伯爵たちの反乱(Revolt of the Earls)」に連座して1076年に処刑される)などアングロ・サクソン系勢力の抵抗を指揮していた主要人物はほぼ失脚するかウィリアム1世に臣従し、アングロ・サクソン人の組織的抵抗は沈静化、ノルマン人による支配体制が確立されていくが、1075年のノルマン系貴族による反乱「伯爵たちの反乱(Revolt of the Earls)」など征服にともなう混乱は1070年代半ばまで続いた。

ノルマン・コンクエストの影響

歴史上「ノルマン・コンクエスト」と呼ばれるこの事件によって従来密接だったスカンディナヴィア世界とブリテン諸島の関係が切り離される一方、フランス北部と密接に結び付けられることとなり、フランスからブリテン諸島にかけての範囲に共通の文化を持つ貴族社会が成立した。イングランド王国はノルマンディー公国と一体化して複合国家となるが、イングランドはあくまで属領にすぎず、本土であるノルマンディ防衛の資金・兵員供給地とするための体制が確立されていく。このノルマンディー公国とノルマン支配下のイングランド王国をあわせて「アングロ=ノルマン王国(Anglo-Norman regnum)」と呼ぶことが多い。また、フランスにおいて、ノルマンディー公はフランス諸侯としてフランス王の宗主権の下で臣従を求められる立場であり、一方でイングランド王はフランス王の宗主権の外にある。このギャップが以後のヨーロッパ史における英仏関係を動かす要因となっていく。

1070年代までに旧アングロ・サクソン系貴族の土地の大部分が取り上げられてノルマンディー地方出身の有力者たちに再分配された。1086年より作成が開始された「ドゥームズデイ・ブック」によれば、1086年時点でウィリアム1世の所領が全イングランドの17パーセント、司教や修道院長など聖職者の所領は合わせて26パーセント強で残りは俗人有力者たちとなるが、これらの中でも最も有力な二〇人の俗人と十二人の聖職者の中にアングロ・サクソン人は一人もおらず(16キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、6-7頁)、アングロ・サクソン人からノルマン人へ支配層の大幅な入れ替わりが起きた。この現象は「土地保有革命(Tenurial Revolution)」と呼ばれているが、土地保有革命の有無や変化については議論がある(17ハーヴェー、バーバラ(2012)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(4) 12・13世紀 1066年~1280年頃』慶應義塾大学出版会、350-351頁)。

このような支配層の入れ替わりにともない、後に封建制に発展する臣従礼による従士制と恩貸地の授与、知行地と軍役などの制度が導入された。征服以前からイングランドには役務の対価としての土地所有権が存在していたが、土地所有者層はノルマン人に限られ、騎士の務めによってその領地を保有することで土地の所有権と軍役の導入が制度として整えられた(18Norman Conquest. Britannica.)ことでイングランドで封建制度が本格的に発展することとなった。ノルマン・コンクエスト後のイングランドにおける封建制の発展について、二十世紀初め頃の学説は「ノルマン・コンクエスト」の結果すでに封建制が確立していたノルマンディー地方から移植されたと考えられていたが、近年はノルマンディー地方でも封建制は未発達でイングランドとノルマンディー地方双方で十二世紀頃にかけてゆっくりと発展していったとされている(19城戸毅「第六章 イングランド封建国家」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、 210頁)/ハーヴェー(2012)352-353頁/塙浩(1979)「ノルマンディ公領の統治構造史(一〇三五年まで) 近来の研究成果を辿って」(『法制史研究 1979 29号』1-68頁)33-36頁)。

征服の過程で生じた様々な反乱を鎮圧し抑止するために築城技術のフランスからの移転が進み、「モット・アンド・ベイリー式城塞」がイングランド全土に建てられた。「モット・アンド・ベイリー式城塞」は土・木製または石造の居館となる城塔を自然の丘陵地あるいは人工の盛り土(モット” Motte”)の上に築き、その周囲に木製の防御壁で囲まれた城庭(ベイリー” Bailey”)を持つ。「ロンドン塔」など一部の例を除いて、当時はほとんどが木造の簡易的な城だが、迅速な築城が可能なため、早期にイングランド全土に築かれて防衛と地域統治の拠点としてノルマン人による征服と支配体制の確立のため非常に有効に機能し、征服の過程で構築された城塞網の存在は封建制度の進展に大きな影響を及ぼした。

行政機構には発展していたイングランドの儀礼や文書行政、司法制度は残されつつ、フランスの制度も導入されることになった。文書行政の面ではエドワード証聖王の制度が継承されたが王の家政組織はフランク風の役職が導入され、領主層に続いて地方行政官(シェリフ)も1071年までに大部分がノルマン人となった(20城戸毅「第六章 イングランド封建国家」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、213頁)。法制度はイングランドの慣習法が引続き運用されたが「御猟林法」など新たな法律も施行された。公文書は征服以前は古英語とラテン語が用いられていたが、征服後はラテン語のみとなり、話し言葉も古英語にかわり北フランスの言語(ノルマン・フレンチ)がイングランドの主要言語となった。ノルマン朝を継いだフランス諸侯アンジュー伯アンリ・プランタジュネのイングランド王即位(ヘンリ2世(在位1154-89))に始まるプランタジネット朝で強まり、ロマンス語系語彙の増加を経て公的な場での英語の復活は十四世紀後半以降のこととなった。このときに流入したフランス語の語彙は多く英語に導入され現在の英語の基礎を形作ることとなった。

参考文献

脚注