ヴァイキング「大軍勢(大異教徒軍)」の侵攻(865-878年)

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「大軍勢(英語”The Great Army”古英語”micel here”)」または「大異教徒軍(英語”The Great Heathen Army”古英語”mycel hæþen here”)」は複数の指導者に率いられたスカンディナヴィア半島出身の戦士による連合軍。865年からイングランドへ侵攻しノーサンブリア王国イースト・アングリア王国を相次いで滅ぼしイングランドの東半分を征服、アルフレッド大王率いるウェセックス王国と繰り返し戦い、878年、エディントンの戦いで破れた後、指導者の一人グスルムとアルフレッド大王との間の協定に基づき、ウェセックス王国とヴァイキングの間でイングランドを二分する勢力を確立した。880年代までに軍勢は衰退し、イングランドから大陸へ転進した。

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「大軍勢」の登場

「ヴァイキングのロングシップ(オーセベルグ船)」(九世紀頃、ノルウェー文化史博物館収蔵)

「ヴァイキングのロングシップ(オーセベルグ船)」(九世紀頃、ノルウェー文化史博物館収蔵)
Oseberg ship, Kulturhistorisk museum , Oslo, Norway.
Credit: Daderot, Public domain, via Wikimedia Commons

八世紀末から始まるヴァイキングの活動(ヴァイキングのリンディスファーン襲撃(793年))は九世紀半ばから本格化した。850年代までは個々の集団がブリテン諸島から大陸沿岸にかけて襲撃や略奪を行っていたが、865年、ヴァイキング勢力は複数のデーン人指導者からなる連合を組み、一つの大規模な集団、「アングロ・サクソン年代記」の記述に基づいて「大軍勢(英語”The Great Army”古英語”micel here”)」または「大異教徒軍(英語”The Great Heathen Army”古英語”mycel hæþen here”)」と呼ばれる集団として活動を開始する。

「大軍勢」は伝説上のヴァイキング、ラグナル・ロズブロークの子供たち骨なしイーヴァル、ハーフダン・ラグナルソン、ウッバの三人のヴァイキングによって率いられていたと言われている。彼らが兄弟であったとするのは十三世紀のラテン語文献「デンマーク人の事績(Gesta Danorum)」(サクソ・グラマティクス著)やアイスランドのサガ「ラグナル・ロズブロークのサガ」(十三世紀)などによるものである。「アングロ・サクソン年代記」には870年の条で「大軍勢」の指導者の一人としてハーフダンが登場するが出自は不明でラグナルの子(=ラグナルソン)であったかは明示されていない。また、878年の条にイングワル(Ingwar(1または ヒングワル”Hingwar”、あるいは「アルフレッド王の生涯」(893年頃)では”Inwar”))とハーフダンの兄弟が指揮する部隊がウェセックス軍に敗北したとする記録があり、このイングワルが骨なしイーヴァル、名前のない二人の兄弟とされる人物がウッバに当てはめられて語られるようになった。

ハーフダンは後に王としての実績や出土した貨幣もあり、伝承上の人物ラグナル・ロズブロークの子であったかは不明なものの実在の指導者であったと考えられているが、他の二人が伝承にいう骨なしイーヴァルとウッバであったかは不明である。実在した有力な指導者はノーサンブリア王に即位してヨークを中心としたノーサンブリア地方南部にヨーク王国(ヨールヴィーク)を築いたハーフダンと、ウェセックス王アルフレッドと戦い、後に和平条約を結んで旧イースト・アングリア王国を領したグスルムの二人で、それ以外に「アングロ・サクソン年代記」(九世紀末)や「アルフレッド王の生涯」(893年頃)など近い時代の文献史料に戦闘に参加し名前として登場するバッグセッジ(Bægsecg)、アンウィンド(Anvind)、オスキュテル(Osscytil)などの首領たちがいる。

「大軍勢」の起源としてよく知られるエピソードは「ラグナル・ロズブロークのサガ」で描かれれる物語で、伝説的なヴァイキングだったラグナル・ロズブロークがイングランドへの略奪行の際にノーサンブリア王エラによって捕らえられ殺害されたため、息子の骨なしイーヴァルら兄弟が復讐のためイングランドへ侵攻、一度は敗北するものの最後には復讐を遂げてエラ王を殺害しイングランドを支配することになるという、父の復讐が目的だったとするものであるが、これは疑問視されている。864年、西フランク王シャルル禿頭王が各地の要衝に城塞の建築を命じたことで寇掠が容易ではなくなった結果、大陸のヴァイキングがイングランドへの集中を促すことになり、小規模なヴァイキング集団の指導者たちが協力して一つの大軍を形成するようになったと、歴史家ピーター・ソーヤーは言う(2“He had bridges built across the Seine and Loire to hinder the passage of enemy sips, and he fortified towns and abbeys. The Lower reaches of those rivers, together with other coastal areas, were, in effect, left to the mercy of raiders, some of whom remained in the Loire valley for many years. Most of the religious communities and many bishops in the exposed regions sought safety in other parts of Frankia. These changes encouraged many Vikings to concentrate on England instead of Frankia. Several Viking leaders joined forces in the hope of winning status and independence by conquering England, which then consisted of four kingdoms. “(Sawyer, Peter (2001). The Oxford Illustrated History of the Vikings. Oxford University Press.p.11.))。

蹂躙される諸王国(865-870)

大軍勢(大異教徒軍)の軍事行動地図

大軍勢(大異教徒軍)の軍事行動地図
credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons


865年、ケント地方に上陸した「大軍勢」に対しケントの人々は和平を求めて金銭を支払ったがヴァイキングたちはこの約束を反故にしてケント地方東部全域を寇掠した。その後、大軍勢はイースト・アングリア王国へ侵攻して宿営地を設けて越冬する。このときイースト・アングリア王国に対し馬の提供と引き換えに和平を約束した。

866年、イースト・アングリア王国を去った大軍勢はハンバー川を越えてノーサンブリア王国へ侵攻、ヨーク市に迫った。ヴァイキングの侵攻を受けたノーサンブリア王国では方針を巡って対立が起こりオズベルフト王が追放されて王家の生まれではないというエラという人物が新たに即位しヴァイキングとの戦いを継続するが、867年、前王オズベルフトとエラ王ともにヴァイキングに殺害されヨーク市は占領、同年中にノーサンブリア王国南部はヴァイキングの支配下となった。十二世紀初頭の修道士・歴史家ダラムのシメオンによれば、このときエグバートという人物が傀儡のノーサンブリア王として立てられた(3Stevenson,Joseph. (1855). The Historical Works of Simeon of Durham. Church Historians of England, volume III, part II. p.489.)。また、ノーサンブリア人は北部に逃れて独立勢力を築いたとみられるが十世紀始めにバンバラを中心としたバンバラ伯領の存在が確認できるまで史料が無く不明である。

同867年、「大軍勢」はマーシア王国のノッティンガムに侵攻して越冬用の宿営地を築く。マーシア王ブルグレッドはウェセックス王エゼルレッドに救援を求め、翌868年、エゼルレッド王と王弟アルフレッド率いるウェセックス王国軍がノッティンガムを包囲して「大軍勢」と対峙したが戦闘には至らず和平を結び、翌869年、「大軍勢」もヨークへ退却した。

870年、「大軍勢」はマーシアを横断してイースト・アングリア王国へ侵攻、ノーフォーク州セットフォードに越冬用の宿営地を築いた。イースト・アングリア王国は戦いを挑んだがホクスンの戦いでイースト・アングリア王エドマンドが戦死し、イースト・アングリア王国全土がデーン人の支配下となった。「大軍勢」は王国全土を蹂躙してまわり多数の修道院や都市が破壊され、人々が虐殺された。

アッシュダウンの戦い(871)

「アッシュダウンの戦い」(Hughes, T (1859). Scouring the White Horse; Or, the Long Vacation Ramble of a London Clerk.) Credit: Richard Doyle (died 1883), Public domain, via Wikimedia Commons

「アッシュダウンの戦い」(Hughes, T (1859). Scouring the White Horse; Or, the Long Vacation Ramble of a London Clerk.)
Credit: Richard Doyle (died 1883), Public domain, via Wikimedia Commons

アッシュダウンの戦い(871年)
アッシュダウンの戦い(Battle of Ashdown)は、871年1月8日、ウェセックス王エゼルレッドと弟アルフレッドが率いるウェセックス王国軍が、「大軍勢(または大異教徒軍)」の名で知られたヴァイキング連合軍に勝利した戦い。 前段階 ...

イースト・アングリア王国を制圧した「大軍勢」は、スカンディナヴィア半島からの増援と合流、871年初頭、バッグセッジとハーフダン・ラグナルソンの二人の首領に率いられてウェセックス王国への侵攻を開始する。テムズ川南部バークシャーのエアルドールマンであるエゼルウルフがテムズ川沿いに堡塁を築いて迎え撃ち、エングルフィールドと呼ばれる地で激戦となり撃退した。四日後、エゼルレッド王と弟アルフレッド率いるウェセックス軍本隊が到着し、敵が籠もるレディングの城塞を攻撃するが、エゼルウルフが戦死するなど大きな損害を受けて撤退を余儀なくされた。態勢を立て直したウェセックス軍は四日後の871年1月8日、アッシュダウンと呼ばれる地に集結する「大軍勢」に戦いを挑み快勝、「大軍勢」はバッグセッジ他五人の首領が戦死した。

敗走したヴァイキング軍はハーフダンの指揮下で立て直し、アッシュダウンの戦いの二ヶ月後に行われたマートンの戦いではエゼルレッド王とアルフレッド率いるウェセックス軍が敗北、その直後おそらく戦傷が元でエゼルレッド王が死去し、アルフレッドが後継者として即位した。アッシュダウンの戦いを含むウェセックス軍とヴァイキングの戦いは871年の一年間で八度繰り返された後、五年間の休戦協定が結ばれた。

「大軍勢」の分裂と衰退(871-877)

「レプトンのヴァイキング戦士の墓で発見された剣」(ダービー博物館収蔵)

「レプトンのヴァイキング戦士の墓で発見された剣」(ダービー博物館収蔵)
Credit: Roger from Derby, UK, CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, via Wikimedia Commons

ウェセックス王国との休戦後、「大軍勢」はノーサンブリアに戻って反乱を鎮圧、傀儡エグバートを追放し新たにリクシジ(Ricsige)という人物を王に立てた(4Stevenson,Joseph. (1855). The Historical Works of Simeon of Durham. Church Historians of England, volume III, part II. p.492.)。その後、872年冬にロンドン、873年にリンジーに侵攻してレプトンで越冬、874年、マーシア王国へ侵攻してマーシア王ブルグレッドが王国の放棄を余儀なくされてローマへ亡命する。「大軍勢」は王族ではないマーシア王国の廷臣の一人ケオルウルフという人物を傀儡王を立て、876年、マーシア王国の東半分を事実上支配下に置いた。

875年、大軍勢は二つの勢力に別れて一方は871年の対ウェセックス戦争を指揮したハーフダン指揮下でノーサンブリア方面へ移動して北部の支配体制を強化し、もう一つのヴァイキング軍はグスルムという名のデーン人他二人が指導者となってケンブリッジへ侵攻、同年、ウェセックス王国軍がヴァイキングの補給船団を襲撃、876年、エクセターでウェセックス王国とデーン軍は休戦条約を締結する。

ヨークへ戻ったハーフダンはピクト王国やストラスクライド王国との戦いを経て、876年、リクシジ王死後ノーサンブリア王を称するようになる。名実ともにヴァイキングのヨーク王国(ヨールヴィーク)が成立した。この年、ハーフダン王はヴァイキングたちに耕作に従事するよう命じている。以後、「アングロ・サクソン年代記」にはハーフダン王の記述は登場しないが、アイルランドの「アルスター年代記」(5The Annals of Ulster at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts)に登場する異教徒の王アルバン(Albann)をハーフダンと同一人物と考える説が有力視されており、この説に従うと875年、アルバン(ハーフダン)はヴァイキングのダブリン王国を支配していたエイステイン王を殺害するが、877年、ストラグフォード湖の戦いで異教徒(ヴァイキング)同士の戦いで戦死したという(6“A skirmish at Loch Cuan between the fair heathens and the dark heathens, in which Albann, king of the dark heathens, fell.”The Annals of Ulster at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts)。ハーフダン王の消息と同様に、「アングロ・サクソン年代記」でも以後、ノーサンブリア地方に関する記述が894年まで見られなくなるが、ダラムのシメオンによれば883年にグスレッドという新王が即位したという(7Stevenson,Joseph. (1855). The Historical Works of Simeon of Durham. Church Historians of England, volume III, part II. p.492.)。

エディントンの戦い(878)

「エディントンの戦い(エサンドンの戦い)の記念碑」

「エディントンの戦い(エサンドンの戦い)の記念碑」
Photo © Phil Williams (cc-by-sa/2.0)
https://www.geograph.org.uk/photo/367815

エディントンの戦い(878年)
エディントンの戦い(Battle of Edington)またはエサンダンの戦い(Battle of Ethandun or Eðandun)は、878年5月上旬、アルフレッド大王が率いるウェセックス王国軍が、「大軍勢(または大異教徒軍)」...

878年1月、休戦期間の終了とともにグスルム率いる「大軍勢」がウィルトシャー北部チッペナムのウェセックス王領に侵攻して占領下に置き、ここを拠点としてウェセックス王国の征服に乗り出した。危機に瀕したアルフレッド大王は一時サマーセットの沼沢地であるアセルニーに避難を余儀なくされた。ヴァイキングがウェセックス王国内の支配領域を広げる間、アルフレッド大王は窮乏生活を余儀なくされながらも同地に要塞を築いて態勢の立て直しに尽力、5月初め頃(8復活祭の日(3月23日)の七週間後)、反撃のためアセルニーを出てセルウッドの森と呼ばれる森林地帯の東にあった「エグバートの石(Ecgbryhtesstan)」と呼ばれる場所で軍の徴募と編成に乗り出し、翌日アイリー・オーク(Iley Oak)という場所へ出て、二日にはエサンダン(Ethandun/Eðandun)と呼ばれる地へ進軍する。ここでグスルム率いる「大軍勢」と戦いが繰り広げられることになった。

このエサンダンはウィルトシャーのエディントンとみられている。アルフレッド大王はグスルムら「大軍勢」主力が占領下に置いた王領チッペナム奪還に向けてサマーセット州にあったアセルニーを出て北上、チッペナム方面へ向かった(9小田卓爾(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、190、246-247頁/リーズ、B.A.(1985)『アルフレッド大王 イギリスを創った男』開文社出版、146-147頁)。ウェセックス軍の動きを捕捉したグスルムは軍をわざわざチッペナムに呼び寄せるのではなく、行軍途上のウェセックス軍を討つため自らも出撃してエディントン付近に集結、北上してきたウェセックス軍と会戦した(10小田卓爾(1995)247頁)。ウェセックス軍の圧勝に終わり、グスルムら「大軍勢」は降伏した。

また、同878年、ハーフダンの兄弟らが率いるヴァイキングの軍団がデヴォン州北部でウェセックス王国に臣従する現地の領主らによって討伐されるカンウィトの戦い(Battle of Cynwit)が起き、アッサーによればこのとき1200名の死者が出たという。

デーンローの成立

降伏したグスルムらは多数の人質をウェセックス王国に差し出した上で、ウェセックス王国領からの撤退と指導者グスルムがアルフレッド大王によってキリスト教へ改宗することを約束した。三週間後、グスルムは三〇人の家臣を引き連れてアセルニー近郊のアラーという場所でアルフレッド大王に謁見、洗礼を受け、八日目にウェドモアに移り、計十二日間滞在したあと、ウェセックス王国を去った。彼らは880年まで現在のグロスターシャーの都市サイレンセスターに逗留してから、ヴァイキングの領土となっているイースト・アングリアまで退いた。

以後、886年から890年までの間の時期に、アルフレッド大王とグスルムとの間でウェセックス王国とデーン人の領土の境界を画定し、平和貿易や人命金などを定める協定が結ばれた。厳密には878年の休戦協定をウェドモア条約、文書化されたこの条約をアルフレッド=グスルム条約となるが、一般的には両方をまとめてウェドモア条約と呼ばれている。

以後、イースト・アングリアのグスルム王国、ノーサンブリアのヨーク王国(ヨールヴィーク)、両勢力の中間に位置してデーン人ヴァイキングの城塞都市として発展したダービー、レスター、リンカーン、ノッティンガム、スタンフォードの5つの自治都市(The Five Boroughs、邦訳では五大都市、五市地方など)からなるデーン人の領土「デーンロー」とアングロ・サクソン人のウェセックス王国とにイングランドが二分されていった。

「九世紀のウェセックス王国とデーンロー」

「九世紀のウェセックス王国とデーンロー」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

「アルフレッド大王像」(ウィンチェスター市、Sir William Hamo Thornycroft製作、1899年)

「アルフレッド大王像」(ウィンチェスター市、Sir William Hamo Thornycroft製作、1899年)
© Odejea, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

「大軍勢」残党のその後

880年以降「大軍勢」の残存勢力はイングランドを去り矛先を大陸に向けた。西フランク王国では840年頃から北フランス周辺に対しヴァイキングの侵寇が本格化し、856年、861年、865年と相次いで本格的に修道院が攻撃に晒された。864年には西フランク王シャルル禿頭王が各地の要衝に城塞の建築を命じ、本格的な対ヴァイキング戦争が開始される。845年と861年の二度に渡ってパリが包囲を受け、860年代から870年代にかけてセーヌ川、ロワール川沿いの主要都市で相次いで攻防戦が行われている。この時期のヴァイキングの侵寇と「大軍勢」の関係は定かではないが、880年以降「大軍勢」がフランスでのヴァイキングの攻勢の主力となる。

アングロ・サクソン年代記」の880年の条によると、この年、ロンドン南西部フラムにあったデーン人の部隊が英仏海峡を渡ってヘントへ進軍したという。881年、この部隊が西フランク軍と衝突、その後ムーズ川に沿って内陸に進み一年間駐屯、その後884年まで川沿いにコンデやアミアンなどに侵寇を繰り返した。最大の戦いとなったのが885-886年にかけて行われたパリ包囲であった。885年、ベルギー中西部ルーヴェンにあったヴァイキング軍が約700隻の船団でセーヌ川を北上、ルーアンを略奪した後パリの中心であるシテ島とサンルイ島を包囲した。島には要塞化された武装橋が架けられ、シテ島の中心に行けないよう防衛陣が築かれている。パリ伯ウード率いる防衛側は200名ほどの寡兵で一年に渡って防衛戦を戦い抜き、最後はシャルル肥満王が貢物を贈ることで和平が結ばれ、ヴァイキングはブルターニュ地方へと転進した(11ベネット、マシュー他(2009)『戦闘技術の歴史2 中世編』創元社、244-249頁)。その後、890年代には東フランク王国へ侵寇、893年、再びイングランドに戻るが897年頃までに「大軍勢」の勢力は衰微していったとみられる。

この頃までにヴァイキング内で新たな指導的立場となっていたロロが911年、ノルマンディー地方に領地を獲得して後のノルマンディー公国が誕生、イングランドのデーンローは順次ウェセックス王国に征服され、927年、アゼルスタン王によって全イングランドがウェセックス王国の下で統一されイングランド王国が成立した。その後度々スカンディナヴィア勢力によってヨーク王国は復活と再征服を繰り返しつつイングランド王国に統合されていった。

参考文献

脚注

  • 1
    または ヒングワル”Hingwar”、あるいは「アルフレッド王の生涯」(893年頃)では”Inwar”
  • 2
    “He had bridges built across the Seine and Loire to hinder the passage of enemy sips, and he fortified towns and abbeys. The Lower reaches of those rivers, together with other coastal areas, were, in effect, left to the mercy of raiders, some of whom remained in the Loire valley for many years. Most of the religious communities and many bishops in the exposed regions sought safety in other parts of Frankia. These changes encouraged many Vikings to concentrate on England instead of Frankia. Several Viking leaders joined forces in the hope of winning status and independence by conquering England, which then consisted of four kingdoms. “(Sawyer, Peter (2001). The Oxford Illustrated History of the Vikings. Oxford University Press.p.11.)
  • 3
    Stevenson,Joseph. (1855). The Historical Works of Simeon of Durham. Church Historians of England, volume III, part II. p.489.
  • 4
    Stevenson,Joseph. (1855). The Historical Works of Simeon of Durham. Church Historians of England, volume III, part II. p.492.
  • 5
    The Annals of Ulster at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts
  • 6
    “A skirmish at Loch Cuan between the fair heathens and the dark heathens, in which Albann, king of the dark heathens, fell.”The Annals of Ulster at University College Cork’s CELT – Corpus of Electronic Texts
  • 7
    Stevenson,Joseph. (1855). The Historical Works of Simeon of Durham. Church Historians of England, volume III, part II. p.492.
  • 8
    復活祭の日(3月23日)の七週間後
  • 9
    小田卓爾(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、190、246-247頁/リーズ、B.A.(1985)『アルフレッド大王 イギリスを創った男』開文社出版、146-147頁
  • 10
    小田卓爾(1995)247頁
  • 11
    ベネット、マシュー他(2009)『戦闘技術の歴史2 中世編』創元社、244-249頁