エゼルベルフト法典

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エゼルベルフト法典(Law of Æthelberht)は六世紀末頃にケント王エゼルベルフトが編纂したとされる法典。ゲルマン部族法典の一つに位置づけられるが同時代に編纂された諸法典がラテン語で書かれたのに対し、古英語で書かれている点が特徴で、現存する中ではゲルマン諸語で書かれた最古の法典である。初期のアングロ・サクソン社会における社会慣習、女性の地位、身分の分化など当時の社会を窺い知ることが出来る重要な史料であると同時に、後世編纂される様々なアングロ・サクソンの諸法典が参考にしており、現在の英国法体系に繋がる先駆的な法典と評価されている。

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ケント王国とエゼルベルフト王

「ケント王国地図」

「ケント王国地図」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons


ケント王国はユトランド半島付近から移住してきたゲルマン系の人々によって六世紀頃ブリテン島東南部、現在のケント州一帯に建てられたアングロ・サクソン系王国の一つである。いち早くキリスト教化してフランク王国との親密な関係を築き、大陸との交易で繁栄した。

ケント王国最盛期の王がこの法典を編纂したとされるエゼルベルフト王(在位580頃?-616年)である。エゼルベルフト王は東西に分かれていたケント王国を統一、周辺諸国に対し宗主権を行使してブリテン島南部の広い地域を勢力下に置き覇権を確立、ブレトワルダの一人に数えられた。また、エゼルベルフト王はメロヴィング朝パリ王カリベルト1世の娘ベルタを妻に迎えフランク王国との親密な関係を築いた。597年にベネディクト派修道士アウグスティヌスら宣教団がケント王国に上陸すると王はキリスト教に改宗して宣教の許可を与え王国にキリスト教が広がることになった。

写本と制定背景

「エゼルベルフト法典("Textus Roffensis"(ロチェスターの書))」(ロチェスター大聖堂図書館収蔵)

「エゼルベルフト法典(”Textus Roffensis”(ロチェスターの書))」(ロチェスター大聖堂図書館収蔵)
Credit: Ernulf, bishop of Rochester, Public domain, via Wikimedia Commons

現存する最古のエゼルベルフト法典は”Textus Roffensis”(ロチェスターの書)と呼ばれる1122-24年頃にイングランドのロチェスターで編纂された写本に収録されている。”Textus Roffensis”はアングロ・サクソン時代から十二世紀初頭頃までのイングランドの様々な法令・系図などの公文書が集成された写本で、エゼルベルフト法典は同写本の冒頭の第一フォリオから第三フォリオに収録されている。写本に収録されているエゼルベルフト法典は他の文書と比較しても古い古英語の綴りが多く見られるという(1The Old English Newsletter,”The Laws of Æthelberht: A student edition“.The University of Massachusetts.)。

八世紀のノーサンブリア王国の修道士ベーダが著した「アングル人の教会史」(731年)にはエゼルベルフト法典について「生前彼は賢明な配慮をもって住民に与えた恩恵に加えて、ローマ人の範例に倣って経験ある援助者たちの助言を受け入れ、厳正な法律の基準を確立した。それはイングランド人の言語で記され、現在に至るまで保持されている」(2高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、82頁)と紹介しており、”Textus Roffensis”収録の写本には法典の冒頭に「これらは、アウグスティヌスが存命中にエゼルベルフト王が制定した法令である」(3Attenborough, F.L. (1922), The Laws of the Earliest English Kings (Llanerch Press Facsimile Reprint 2000 ed.), Cambridge University Press.,p.5.)との一文が添えられている。アウグスティヌスは604年に亡くなっているのでエゼルベルフト法典の制定は597年から604年の間と考えられている(4The Old English Newsletter,”The Laws of Æthelberht: A student edition“.The University of Massachusetts.)。

エゼルベルフト法典は六世紀当時フランク王国を始めとした大陸のゲルマン人諸国家がローマ法の影響下で相次いで制定したゲルマン部族法典の一つに位置づけられ、エゼルベルフト法典も編纂にローマ法の影響があることは確かだが、この法律自体にはローマ法の影響は見られないという(5高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、82頁/The Old English Newsletter,”The Laws of Æthelberht: A student edition“.The University of Massachusetts.)。また、他のゲルマン部族法典と違い、ラテン語ではなく現地語である古英語で執筆されている点も特徴的である。

エゼルベルフト法典がどのような目的で制定されたのか、なぜラテン語でなく古英語が使われたのかは不明である。法律を文書として残すことに意義があり、立法の記録ではなく自分たちの法を文書化することで大陸の先進的な諸国の仲間入りを果たすことを示す記念的事業であったのではないかともいわれる(6The Old English Newsletter,”The Laws of Æthelberht: A student edition“.The University of Massachusetts.)。また、ゲルマン的な慣習をラテン語で記すためのギャップを埋めて文書化できるほどの人材がいなかったからととする説や、大陸のゲルマン諸国と違ってローマ帝国の統治行政と直接的な連続性が希薄だったからとする説などもある(7ステイシー、ロビン・チャップマン(2010)「第六章 テキストと社会」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、322頁))。いずれにしても古英語による法典制定の理由や目的は定かではない。

法の内容

エゼルベルフト法典は研究者によって分類の仕方で90条、85条、83条など分かれるが、内容は、教会と聖職者、王と王族、貴族、自由民、人身傷害、女性、半自由民、奴隷に対する罪の内容に応じた賠償金の額を定めたものである。賠償金はシリング(Shilling)とシャット(古英語:Sceatt,sceattas)という二つの通貨単位で表され、1シリング=20シャットで換算される(8The Old English Newsletter,”The Laws of Æthelberht: A student edition“.The University of Massachusetts.)。例えば「王の領地で自由民を殺したものは50シリングの賠償金を王に支払わなければならない」「貴族の領地で誰かを殺したものは12シリングの賠償金を貴族に支払わなければならない」「もし男が自由民の女性使用人と性交渉を持った場合6シリングの賠償金を払わなければならない。その使用人が二級奴隷だった場合は50シャット、三級奴隷だった場合は30シャットの賠償金を支払わなければならない」など。

条文からは当時のケント王国の社会が王の下に貴族(Eorl,エオルル)、自由民(Ceorl,チェオルル)、半自由民(Esne,エスネ)、奴隷(男性奴隷: þeow /女性奴隷: þeowa)に分かれる身分制社会であったことが伺い知れる。また、エゼルベルフト王が改宗して間もないキリスト教会は庇護下に置かれていた。エゼルベルフト法典の中の女性の地位は、男性が賠償金を支払うならば他人の妻でも奪うことが出来たり、不正がなければ女性を購入できるなど財産として扱われる記載がある一方で、子供がいる場合に夫の財産の半分を相続する権利が与えられているなど、従属的だが家庭内の財産分与は対等な地位が与えられている。

またエゼルベルフト法典では「骨がむき出しになった場合3シリング」「耳を切り落とされた場合12シリング」など身体への傷害や殺人に関して細かく賠償金の額が定められており、ゲルマン部族法典に共通する人命金(ウェアゲルド,Wergeld)の定めが明文化された。自由民を殺した場合の人命金は100シリングとなっており、開かれた状態の墓の前でまず20シリングを支払い、40日以内に残りの80シリングを支払う慣習となっていた(9The Old English Newsletter,”The Laws of Æthelberht: A student edition“.The University of Massachusetts.)。エゼルベルフト法典に続くケント王国の諸法やウェセックス王国マーシア王国など各国の法典でも傷害や殺人に対する賠償金の定めが採用され、アングロ・サクソン社会における人命金秩序が形成される先駆的な位置付けとなっている。

参考文献

脚注