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歴代イングランド君主の一覧

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イングランドの君主を一覧にする際、どこまでさかのぼるか?については様々な考え方がある。第一は九世紀前半、七王国時代の諸国に君臨したマーシア王国を滅ぼしてウェセックス王国の優位を確立し、以後歴代ウェセックス王家=イングランド王家の直系の祖となったエグバート王(在位802-839年)から数えるもの、第二はヴァイキングの支配領域(デーンロー)と勢力を二分する唯一のアングロ・サクソン人の王国となったことで「アングロ・サクソンの王(Rex Anglorum et Saxonum)」を称したアルフレッド大王(在位871-899年、アングロ・サクソンの王としては886-899年)から数えるもの、第三はアングロ・サクソン時代の王は別にして、現在の英国王室が祖とするウィリアム1世(在位1066-1087年)から数えるものなどである。

ここではデーンローを征服して現在のイングランド地域を統一し、かつ「アングロ・サクソンの王」にかえて「アングル人の王=イングランド王(Rex Anglorum)」を名乗るようになったことで名実ともにイングランドという地域概念を成立させたアゼルスタン王(ウェセックス王としての在位924-927年、イングランド王としての在位927-939年)を最初とした。

アゼルスタン王以前のウェセックス王の一覧は「歴代ウェセックス王の一覧」参照。

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アングロ・サクソン朝(ウェセックス家)

王名 在位期間 主な事績
アゼルスタン(1エセルスタン、エゼルスタンとも表記される)
Æthelstan
927-939年 エドワード古王の子。924年ウェセックス王に即位。927年、全イングランドを統一しイングランド王に即位した。
エドマンド1世
Edmund I
939-946年 前王の異母弟。939年、侵攻してきたデーン人に北部を征服されるが、944年、再征服に成功。
エドレッド
Eadred
946-955年 947年、デンマークの王子エイリーク・ブラッドアクスがノーサンブリア王として招かれイングランド北部が独立したため攻勢を加え、954年同王を追放し平定した。
エドウィ
Eadwig
955-959年 自身はテムズ川以南、弟エドガーは以北に支配を分割して統治した。カンタベリー大司教と対立したため修道院から敵視される。19歳で早逝。
エドガー平和王
Edgar the Peaceful
959-975年 前王の弟。兄王が招いた修道院との対立を解消しベネディクト会の改革運動を支援。国内の融和に努め安定した体制を築いた。
エドワード殉教王
Edward the Martyr
975-978年 前王の子。異母弟エゼルレッドと王位継承の争いがおこり、国内が安定しないまま、978年、コーフ城で暗殺された。
エゼルレッド2世
Æthelred II
978-1013年 兄と王位継承で争った。治世下でデーン人の襲撃が再開、1002年、デーン人移民を虐殺、犠牲者の中にスヴェン王の親族を含んでいたためデンマーク軍の侵攻を招き、敗北を繰り返して1013年、フランス・ノルマンディー公領へ亡命した。

デーン朝(ゴーム家)

王名 在位期間 主な事績
スヴェン双叉髭王
Sweyn Forkbeard
1013-1014年 デンマーク=ノルウェー王。1013年、イングランドを征服してイングランド王に即位したが翌年死亡した。

第一次復興アングロ・サクソン朝(ウェセックス家)

王名 在位期間 主な事績
エゼルレッド2世
Æthelred II
1014-1016年 スヴェン死後、亡命先のノルマンディーから帰国、復位したがスヴェン王の後継者クヌートとの戦いが展開され、1016年、病没した。
エドマンド剛勇王
Edmund Ironside
1016年 前王の子。武勇で知られ王子時代からデーン軍と激しく戦った。1016年10月決定的敗北を喫し、クヌートと和平を結んだがその直後に死亡した。

復興デーン朝(ゴーム家)

王名 在位期間 主な事績
クヌート大王
Cnut the Great
1016-1035年 スヴェン王の子。父の死後イングランド征服を進め、イングランド王とデンマーク・ノルウェー王を兼ねて彼の支配地域は北海帝国と呼ばれた。
ハロルド1世
Harold I
1035-1040年 前王の子。異母弟ハーザクヌート不在を突いて即位した。諸侯に支えられて統治したが継承争いは継続し、ハーザクヌートの侵攻が迫る中で病死した。
ハーザクヌート(2デンマーク語”Hardeknud”ハーデクヌーズ)
Harthacnut
1040-1042年 前王の異母弟。母はエゼルレッド2世妃エマ(3エゼルレッド2世の妻で同王との間の子がエドワード証聖王、クヌートと再婚して生まれたのがハーザクヌート)。短い治世で母が同じ異父兄弟のエドワードに王位継承を約束して亡くなった。

第二次復興アングロ・サクソン朝(ウェセックス家、ゴドウィン家)

王名 在位期間 主な事績
エドワード証聖王
Edward the Confessor
1042-1066年 父はエゼルレッド2世。ウェセックス家の支配を復興させた。妻の出身家であるゴドウィン家の台頭を認めつつ安定した治世を実現し、後世模範とされた。ウェストミンスター寺院の創建。
ハロルド2世
Harold II
1066年 ウェセックス伯ゴドウィンの子。戦上手で知られ、1063年、ウェールズ王グリフィズ・アプ・サウェリンを滅ぼした。1066年、即位後侵攻してきたノルウェー王ハーラル苛烈王をスタンフォード・ブリッジの戦いで倒すが続くヘースティングズの戦いでノルマンディー公ギヨーム2世に敗れ戦死した。

ノルマン朝(ノルマンディー家、ブロワ家)

王名 在位期間 主な事績
ウィリアム1世
William I
1066-1087年 フランス・ノルマンディー公。1066年、ヘースティングズの戦いに勝利して即位しノルマン人による征服(ノルマン・コンクエスト)を進めた。ドゥームズデイ・ブックの編纂を命じる。イギリス海峡を挟んだ彼の版図はアングロ・ノルマン王国とも言われる。
ウィリアム2世
William II
1087-1100年 前王の子。兄ノルマンディー公ロベール2世と王位継承で争った。聖職叙任権闘争で教会と対立したため悪評が多く残されている。狩猟中事故死した
ヘンリ1世
Henry I
1100-1135年 前王の弟。兄ロベールとの争いに勝利し、聖職叙任権闘争を解消して教会と和解、国内の統治体制を確立し王権を支える行政機構の基礎を築いた英邁な王として知られる。
スティーヴン
Stephen
1135-1154年 前王の甥。ヘンリ1世が後継指名した王女マティルダに対抗し諸侯の推薦で即位。内乱を引き起こした彼の治世は無政府時代(アナーキー)と呼ばれる。

プランタジネット朝

アンジュー家

王名 在位期間 主な事績
ヘンリ2世
Henry II
1154-1189年 ヘンリ1世の孫。妻はアリエノール・ダキテーヌ。フランスのアンジュー伯。フランス北部・南西部からブリテン島までを支配下にしたアンジュー帝国を樹立した。晩年はフランス王フィリップ2世と結んだ息子リチャードの反乱にあい失意の中病没した。
ヘンリ若王
Henry the Young King
1170-1183年 ヘンリ2世の子。父王と共同王となったが権限がないことに不満を持ち1173年反乱するが鎮圧され、以後忠実な後継者として尽力した。1183年、弟リチャードとの対立の中、病死した。
リチャード1世
Richard I
1189-1199年 ヘンリ2世の子。獅子心王。第三次十字軍に出征しサラディンと対峙するなど活躍したが留守中内政は混乱し、莫大な戦費と王自身の身代金などで財政悪化をもたらした。1199年、反乱鎮圧中流れ矢に当たり戦死した。ガイヤール城築城。
ジョン
John
1199-1216年 ヘンリ2世の子。欠地王。兄王死後の体制立て直しを図ったがフランス王フィリップ2世により大陸領土の大半を喪失。1215年マグナ・カルタを承認した。諸侯の反乱とフランス軍の侵攻(第一次バロン戦争)の中自ら軍を率い転戦、陣中で病没した。
ヘンリ3世
Henry III
1216-1272年 前王の子。第一次バロン戦争の中9歳で即位。ウィリアム・マーシャル、ヒューバート・ド・バークの補佐の後親政を開始。パリ条約(1259)で対仏和平。シモン・ド・モンフォールの反乱(第二次バロン戦争)を経て後に議会制へと発展する諸侯大会議(パーラメント)制度化。
エドワード1世
Edward I
1272-1307年 前王の子。ウェールズ征服、スコットランド王位継承問題に介入(スコットランド独立戦争)、フランスとアキテーヌ公領帰属問題で対立など拡大政策を推進。戦費調達のための「模範議会」の招集以降治世下で議会制度が定着、行政組織を強化し多くの法を制定して内政でも成果を残した。
エドワード2世
Edward II
1307-1327年 前王の子。寵臣政治で諸侯の反感を買い、バノックバーンの戦いの敗北など軍事的失敗も重なり権威が失墜。諸侯と王妃・王太子(エドワード3世)らによって廃位のち殺害された。
エドワード3世
Edward III
1327-1377年 前王の子。フランスとの間に百年戦争を開戦。クレシーの戦い、ポワティエの戦いに勝利し王子エドワード黒太子の活躍もあり優位に進めるが、戦費で財政破綻し善良議会で弾劾された。黒死病の蔓延。
リチャード2世
Richard II
1377-1399年 前王の孫。10歳で即位。若くしてワット・タイラーの乱平定に指導力を発揮し、百年戦争終結に向けて対仏和平条約を締結するなどの手腕を発揮したが、後に専制化して諸侯の信頼を失い従兄弟ヘンリ・ボリングブロクによって廃位され、のち殺害された。

ランカスター家

王名 在位期間 主な事績
ヘンリ4世
Henry IV
1399-1413年 エドワード3世の三男ランカスター公ジョンの子。クーデターで前王に代わって即位したが、ウェールズの反乱や諸侯反乱に忙殺され治世後半は病床にあった。
ヘンリ5世
Henry V
1413-1422年 前王の子。内乱を鎮圧後、百年戦争を再開。アジャンクールの戦いを始め勝利を重ねてフランス北部を制圧、仏王女と結婚して仏王位継承権を獲得するが(トロワ条約)、フランス王に即位することなく遠征途上で病没した。
ヘンリ6世
Henry VI
1422-1461年 前王の子。生後9か月でイングランド王兼フランス王に即位したがフランス王太子シャルルもフランス王に即位して対抗。長じても指導力を発揮できず大陸領土を失い百年戦争は敗北、直後発狂して王の勤めを果たせなくなり、ヨーク家との間に薔薇戦争が勃発した。61年、ヨーク公エドワードによって廃位された。

ヨーク家

王名 在位期間 主な事績
エドワード4世
Edward IV
1461-1470年 ヨーク公リチャードの子。父とともにランカスター王家と対立しタウトンの戦いでの勝利でヘンリ6世を幽閉、王位に就いた。ウォリック伯の謀叛により王位を追われるがすぐ挽回し復位する。

ランカスター家(復興)

王名 在位期間 主な事績
ヘンリ6世
Henry VI
1470-1471年 王妃マーガレットとウォリック伯の共謀により救出されて復位したがすぐにランカスター派はロンドンを追われ、ヘンリ6世は再度ヨーク派に捕らえられて処刑された。

ヨーク家(復興)

王名 在位期間 主な事績
エドワード4世
Edward IV
1471-1483年 ランカスター派駆逐後、復位して安定した治世を確立しブルゴーニュ戦争への介入など精力的に活動したが、治世後半の不摂生で健康を損ない41歳の若さで亡くなった。
エドワード5世
Edward V
1483年 前王の子。父王死去時13歳と幼かったため叔父グロスター公リチャードが後見者となったが、実権を与えられないままロンドン塔に幽閉され行方不明となった。
リチャード3世
Richard III
1483-1485年 エドワード4世の弟。グロスター公としてイングランド北部を影響下に置き地位を確立した。幼い甥の王位を簒奪して即位したが亡命中のヘンリ・テューダーが軍を率いて上陸してくると諸侯の裏切りにあいボズワースの戦いで敗死した。

テューダー朝

王名 在位期間 主な事績
ヘンリ7世
Henry VII
1485-1509年 父はヘンリ6世の異父兄弟。亡命先のブルターニュ公に支援されて帰国、1485年ボズワースの戦いでリチャード3世に勝利し即位した。即位後も相次ぐ反乱を鎮圧し、内戦で弱体化した諸侯に代わり議会を重視してテューダー朝の基盤を整えた。
ヘンリ8世
Henry VIII
1509-1547年 前王の子。トマス・ウルジ、トマス・クロムウェルらを登用。離婚問題を契機として既存のカトリックを弾圧、イングランド国教会を発足させた。ウェールズ併合、スコットランド侵攻、イタリア戦争への介入など内外に強力な王権を行使して中央集権化を進めた。
エドワード6世
Edward VI
1547-1553年 前王の子。9歳で即位したため前半はサマセット公エドワード・シーモア、後半はノーサンバランド公ジョン・ダドリーが摂政として実権を握った。国教会体制が整備されプロテスタント化が進んだ。
ジェーン・グレイ
Jane Grey
1553年 ヘンリ8世の妹メアリ・テューダーの孫。前王死後ノーサンバランド公が自身の一族に近いジェーンを女王に擁立したがヘンリ8世の娘メアリが諸侯の支持をとりつけて即位を宣言したためわずか9日間で退位した。のち殺害される。
メアリ1世
Mary I
1553-1558年 ヘンリ8世の子。カトリックの復古を目指してプロテスタントを弾圧、聖職者らを多数処刑したためブラッディ・マリーの異名で知られる。夫はスペイン王フェリペ2世。
フィリップ
Philip
1554-1558年 メアリ1世の夫。神聖ローマ皇帝カール5世の子で後のスペイン王フェリペ2世。妻の在位中だけ共同王としてイングランド王の称号を得たが統治には関わらなかった。
エリザベス1世
Elizabeth I
1558-1603年 ヘンリ8世の子。首長令・礼拝統一令発布し国教会の基盤を確立。英西戦争でスペイン無敵艦隊を撃破(アルマダ海戦)、アイルランド植民地化を進め、特許状を与え東インド会社設立を承認、重商主義を展開した。生涯未婚で処女王の異名で知られた。

ステュアート朝

歴代スコットランド王の一覧
スコットランド王国は九世紀頃、ピクト人、スコット人、ブリトン人などの諸族が一つの王権の下に統合して成立したアルバ王国を起源としている。アルバはゲール語で元来ブリテン島を指す言葉だったが九世紀の終わりごろまでにこの統合王権を指すようになった。また、スコット人はアイルランド人を、スコウシア(スコットランド)もアイルランドを指した言葉だったが、十二世紀頃までに現在のスコットランド地方とそこに住む人々を指...
王名 在位期間 主な事績
ジェームズ1世
James I
1603-1625年 スコットランド王ジェームズ6世。同君連合初代君主。スコットランドとイングランドのバランスを取りつつ王権神授説を採り絶対王政を進めた。徳川家康に国書を送り日英交易を開始(1613)。ガイ・フォークスの火薬陰謀事件(1605)など
チャールズ1世
Charles I
1625-1649年 前王の子。ドイツ三十年戦争への介入による財政危機に対し議会が権利の請願を提出したため議会を閉会。スコットランド反乱を契機に清教徒革命(イングランド内戦)が勃発し、1649年、議会軍に捕らえられ処刑された

イングランド共和国(護国卿)

名前 在任期間 主な事績
オリヴァー・クロムウェル
Oliver Cromwell
1653-1658年 ジェントリ階級出身。イングランド内戦で議会軍を率いて転戦、ニューモデル軍を創設し議会派の勝利に貢献した。チャールズ1世処刑後イングランド共和国が誕生、護国卿に就任し独裁的権力を握った。英蘭戦争やアイルランド征服など
リチャード・クロムウェル
Richard Cromwell
1658-1659年 父の死後護国卿に就任するが指導力を発揮できず軍の離反を招き一年と経たず辞任。その後共和制は瓦解、ステュアート家による王政復古が成立したためフランスへ亡命した

ステュアート朝(復興)

王名 在位期間 主な事績
チャールズ2世
Charles II
1660-1685年 チャールズ1世の子。革命への反省から宗教寛容政策を取るがカトリック優遇との批判を招く。カトリックと疑われる王弟ヨーク公ジェームズを後継者とする提案に対し議会はトーリーとホイッグの二つの会派に分裂、後に二大政党に発展した
ジェームズ2世
James II
1685-1688年 前王の弟ヨーク公ジェームズ。カトリック化政策を推進し議会を停止するなど強権を行使したため議会や軍の反発を招き、娘メアリと夫オレンジ公ウィリアムがオランダ軍を率いて上陸してくると戦わず退位した(名誉革命)
メアリ2世
Mary II
1689-1694年 前王の娘。夫はオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)。名誉革命で兄王を退位させ夫とともに即位した。夫が外交や戦争で不在が多かったため国内に常在して政務を司った。
ウィリアム3世
William III
1689-1702年 オレンジ公ウィリアム。名誉革命で妻とともに即位。議会による「権利の章典」を承認。対仏同盟結成し大陸で戦争指揮をとった。アイルランドではウィリアマイト戦争、北米ではウィリアム王戦争を展開、スペイン継承戦争にも参戦した。最期は落馬死。
アン
Anne
1702-1707年 メアリ2世の妹。持病の痛風と肥満で身動きがとれず、軍事外交はマールバラ公に、内政は大蔵卿ゴドルフィン伯爵に一任した。1707年、合同法を施行してスコットランドとイングランドの議会を統合し初代グレート・ブリテン女王となった。

スコットランドとの統合以降の君主一覧は以下の記事参照

歴代イギリス君主の一覧
ここでは1707年のグレート・ブリテン王国成立による政治的統合以来、2022年9月11日現在までに誕生した13人のイギリスの君主を一覧にしている。ここでいうイギリスとはグレート・ブリテン王国(1707年5月1日-1800年12月31日)、グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国(1801年1月1日-1922年12月6日)、グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国(1922年12月6日-現...

参考文献

脚注

  • 1
    エセルスタン、エゼルスタンとも表記される
  • 2
    デンマーク語”Hardeknud”ハーデクヌーズ
  • 3
    エゼルレッド2世の妻で同王との間の子がエドワード証聖王、クヌートと再婚して生まれたのがハーザクヌート
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