アウルス・プラウティウス

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アウルス・プラウティウス(Aulus Plautius)は一世紀半ば頃のローマ帝国の軍人・政治家。29年、執政官就任、その後、属州パンノニア総督を経て、西暦43年、クラウディウス帝の命でブリテン島侵攻軍の総司令官となる。ブリテン島南部を征服後、新設された属州ブリタニアの初代総督を務めた。47年、退任後ローマへ帰還、小凱旋式の栄誉を受けた。生没年不詳。

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生涯と事績

初期のキャリア

出生は不明だが、初代皇帝アウグストゥス(オクタヴィアヌス)に仕えた人物の中に同名のアウルス・プラウティウスがおり、この一族とみられる。29年、執政官(コンスル)に就任、クラウディウス帝時代(在位41-54年)の初期に征服して間もないドナウ川中流域の属州パンノニア総督に任じられた。

ブリタニア征服戦争

「西暦43-60年のローマ軍によるブリテン島侵攻図」

「西暦43-60年のローマ軍によるブリテン島侵攻図」(Frere’s Britannia and Jones’ & Mattingly’s Atlas of Roman Britainを元に匿名のWikipediaユーザーによて作成・投稿されたもの/ CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

クラウディウス帝のブリタニア侵攻(43年)
「クラウディウス帝のブリタニア侵攻(Claudian invasion of Britain)」は西暦43年、クラウディウス帝の命でアウルス・プラウティウス率いるローマ帝国軍がブリテン島へ侵攻、現地のブリトン人部族と交戦して服従させた戦争の...

西暦43年、クラウディウス帝はブリテン島への侵攻を決断、アウルス・プラウティウスを総司令官に任命し、四個軍団と補助軍計四万名からなる遠征軍を編成した。後に皇帝となるフラウィウス・ウェスパシアヌス率いる第二軍団アウグスタ、第九軍団ヒスパナ、第十四軍団ゲミナ、第二十軍団ウァレリア・ウィクトリクスが加わったとみられる(1南川高志(2015)『海のかなたのローマ帝国 古代ローマとブリテン島 増補新版』岩波書店、世界歴史選書、98頁/ポター、ティモシー・ウィリアム「第一章 ブリテン島の変容――カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、38頁)。

大規模な兵員の上陸を容易にするためローマ軍は軍勢を三つの部隊に分けて出航した。三部隊の上陸地点についてはケント州沿岸と考えられているが詳細な位置は議論があり、「考古学的な研究は、タナトゥス(現サネット)、ドゥブリス(現ドーヴァー)、そしてレマニス(現リム)であろうという」(2南川(2015)99頁)が、現在のリッチバラに橋頭堡を築いたのは確かで、他にチチェスターも有力な候補となっている(3ポター(2011)35頁)。上陸後、ローマ軍は現在のカンタベリ近辺で軍を集結させ、征服に取り掛かった。

迎え撃つブリトン人連合はカトゥウェッラウニ族のトゴドゥムスとカラタクスの兄弟が率い、メドウェイ河畔で両軍主力が会戦に至った。メドウェイ河畔の戦いは二日に渡って繰り広げられ、ローマ軍がブリトン軍を撃破した。続く、テムズ川の攻防戦ではブリトン軍がローマ軍を湿地帯に誘い込んで損害を与えたものの、ローマ軍の勝利に終わり、この戦いの後トゴドゥムスが亡くなり、ブリトン軍は追い詰められた。

テムズ川渡河後、ローマ軍はブリトン軍のゲリラ戦を受けて侵攻を一時停止し、クラウディウスに増援を求めた。報告を受けたクラウディウス帝は自ら戦象部隊を率いて親征、クラウディウス帝の到着後間もなく、カトゥウェッラウニ族の首邑カムロドゥノン(現在のコルチェスター)を陥落させた。歓呼の声で迎えられながらカムロドゥノンに入城したクラウディウス帝は、11人のブリトン人部族の王の降伏を受け入れ、カムロドゥノンをラテン語表記のカムロドゥヌムに改めて属州ブリタニアの設置を宣言、アウルス・プラウティウスを属州ブリタニア初代総督に任命して後事を託した。

属州ブリタニア総督時代

西暦44年、新総督アウルス・プラウティウスは軍を3つに分け、ウェスパシアヌス率いる第二軍団は西へ、残りの部隊は北と北西に向かった。西へ向かった第二軍団はイングランド南西部を征服、現在のエクセターを拠点とした。北に向かった第九軍団はイングランド中部、現在のリンカーンまで到達し、ハンバー川以南を勢力下に治め、北西に向かった第十四軍団はハートフォードシャーからウェールズ北部との境界にあたるシュロップシャーまで到達し、現在のロクセターに拠点を設けた。

アウルス・プラウティウス総督時代に造られたと見られるのがデヴォンのエクセターからミッドランドのレスターを通り、リンカーンまで続く長距離の防御用の溝(Fossa)である。彼が退任するまでにこのルートに沿ってローマ街道が整備され(4ポター(2011)40-41頁)、元々溝であったことにちなんでフォス街道(Fosse Way)と呼ばれることになった。

また、カトゥウェッラウニ族カラタクス王の兄で父王クノベリヌスの不興を買ってローマへ亡命していた王子アドミニウスをケントのカンティアキ族の王とし、サフォークとウェスト・サセックスのレグネンセス族(レグニ族)の王コギドゥブヌス(またはトギドゥブヌス)や北イングランドのブリガンテス族の女王カルティマンドゥアらの王権を保障して属州支配を支える被護王国(Client Kingdom)体制を確立した。

47年、任期を終え総督をプブリウス・オストリウス・スカプラに交代。退任後ローマへ帰還、小凱旋式の栄誉を受けた。彼の小凱旋式が皇帝一族以外の者に行われた最後の例となった。

「プラウティウスは、ブリテンでの戦争遂行の巧みで成功した功績を評価され、クラウディウスから賞賛されただけでなく、小凱旋式で喝采を浴びた。」(カッシウス・ディオ「ローマ史」(5“Plautius for his skilful and successful conduct of the war in Britain not only was praised by Claudius but also obtained an ovation.”Dio Cassius, Historia Romana 61:30-2))

妻の裁判

アウルス・プラウティウスはアウグストゥス帝時代に執政官を務めた有力貴族ガイウス・ポンポニウス・グラエキヌスの娘ポンポニア・グラエキナを妻とした。43年、クラウディウス帝の妃メッサリナによって第2代皇帝ティベリウスの孫娘リウィア・ユリナが殺害されるとポンポニアは皇帝の意に背いて以後40年喪服をまとい続けたが罰されることはなかったという。

57年、ポンポニアが異教の信者であるとして告発される。ユダヤ教かキリスト教であったと考えられているが当時はその他多くの宗教があり特定されていない。アウルス・プラウティウスは自ら裁判を主宰して慣例に則った適正な手続きを経て彼女の無実を証明したという。

「名門の婦人ポンポニア・グラエキナは、異国の頑迷な教義の信者として告発される。この裁判は、彼女の夫アウルス・プラウティウスに一任された。彼がブリタニアでの功績で、小凱旋式を挙げたことは、すでに述べたとおりである。プラウティウスは、古い慣例により、妻の親戚の居合わせる前で、彼女の生命と名誉に関して、審理をおこない『無実である』と報告した。ポンポニアの長い生涯は、悲哀の連続であった。ドゥルススの娘ユリアが、メッサリナの奸策で倒れて以来、四十年間というものは、喪服より他の着物をつけず、悲しみ以外にどんな感情も現さなかった。そのためにクラウディウスの治世中、罰を受けることもなかった。それ以後は、かえって世間の称賛の的となった。」(タキトゥス「年代記」第十三巻32(6タキトゥス/國原吉之助訳(1981)『年代記(下) ティベリウス帝からネロ帝へ』岩波書店、143頁))

十九世紀、ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチはこのエピソードを取り入れて歴史小説「クォ・ヴァディス(Quo Vadis)」(1896)を著した。ネロ帝時代を舞台にした同作ではヒロインのリギアの両親としてアウルス・プラウティウスとポンポニア・グラエキナが登場する。

参考文献

脚注