フィリップ1世(フランス王)

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フィリップ1世(Philippe 1er、1052年頃生- 1108年7月29/30日没1Philip I | Capetian Dynasty, Holy Roman Emperor, 1060-1108 | Britannica)ははカペー朝四代目のフランク(フランス)王(在位1060年8月4日-1108年7月29/30日)。1059年5月23日、アンリ1世の共治王として戴冠、翌年から父王の死に伴い単独の王として統治を始めた。即位時8歳と幼少であったため、母后アンヌ・ド・キエフや叔父フランドル伯ボードゥアン5世の後見を受けた。王権が極めて弱体な時期だったが、巧みな外交政策と諸侯間の抗争への介入で領土を増やし内政を整え、聖職叙任権の行使による聖職売買で財産を増やしカペー王家の勢力拡大に成功した。

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生涯

「フランス王フィリップ1世の肖像画」(ジロー・サント=エヴルー画、1837年、ヴェルサイユ宮殿収蔵)

「フランス王フィリップ1世の肖像画」(ジロー・サント=エヴルー画、1837年、ヴェルサイユ宮殿収蔵)
Credit: Gillot Saint-Evre, Public domain, via Wikimedia Commons

諸侯との対立と王権の勢力拡大

1052年、西フランク(フランス)王アンリ1世と王妃アンヌ・ド・キエフの長男として生まれる。名前のフィリップ((Philippe)はフランス史上初めて登場するギリシア語由来の名前で、ビザンツ帝国との関係が深いキエフ大公家出身の母アンヌ・ド・キエフによって名付けられたと考えられている(2« Deux enfants naissent : Philippe et Hugues. Le premier, associé au trône en 1059, succède à son père l’année suivante. Voilà le premier Philippe de l’Histoire de France – et le premier prénom non germanique (sa mère se targuait d’une ascendance byzantine). »,Quétel, Claude.(2021), Il était une fois la France, Paris, Buchet-Chastel, p. 94.)。1059年5月23日、アンリ1世の共治王としてランスで戴冠、1060年8月4日、父王の死に伴い単独の王として統治を始めた。即位時8歳と幼少であったため、母后アンヌ・ド・キエフや叔父フランドル伯ボードゥアン5世の後見を受けた。

1066年、14歳で親政を開始するが、同年10月14日、ノルマンディー公ギヨーム2世ヘースティングズの戦いでイングランド軍を撃破し、12月、イングランド王に即位(ウィリアム1世)、ノルマンディー公国とイングランド王国を統合したアングロ・ノルマン王国の脅威への対処を余儀なくされた。しかし彼は若くして政戦両略に手腕を発揮する。1068年、アンジュー伯領の後継争いに介入してガティネ地方を占領。1071年、フランドル伯ボードゥアン6世死後の後継争いに介入、ボードゥアン6世の未亡人フランドル女伯リシルドに味方してフランドル伯領を実効支配するロベール・ル・フリゾンと対立、カッセルの戦いで敗北するが、翌1072年、フランドル伯ボードゥアン5世に割譲したコルビーの併合に成功。1077年、ヴェクサン伯家の断絶に伴い、前王アンリ1世がノルマンディー公に割譲していた同伯領の奪還に成功。1079年、イングランド王ウィリアム1世に反乱を起こした同王長男ロベールに助勢してジゾールを確保と、諸侯の内紛や対立に乗じて次々と王領地の拡大に成功していく。

また、王権の家政機関を強化して主膳長(セネシャル “Sénéchal”)、司酒長(ブティエ “Bouteiller”)、主馬長(コネターブル “Connétable”)、官房長(シャンブリエ “Chambrier”)、尚書長(シャンスリエ “Chancelier”)の五大官職と地方行政官であるプレヴォ “Prévôt”を置き、有力貴族や城主らを抜擢して王領の統治機構を整備した。フィリップ1世の統治下で後にフランス王国の躍進を支える有力家門に成長するガーランド家、ル・ブティエ・ドゥ・サンリス家、ダマルタン家、モンレリー家、モンモランシ家、モンフォール家、ボーモン家、ロシュフォール家などが地位を獲得した(3佐藤賢一(2009)『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、52頁)。

1030年のフランス諸侯(パリ周辺の水色の地域がフランス王領、その東西を挟むブロワ(Blois)・シャンパーニュ(Champagne)伯、ブロワ伯の西がアンジュー(Anjou)伯、ブロワ伯・アンジュー伯の北で王領の北西がノルマンディ(Normandie)公領、東南部にブルゴーニュ(Bourgogne)公領)

1030年のフランス諸侯(パリ周辺の水色の地域がフランス王領、その東西を挟むブロワ(Blois)・シャンパーニュ(Champagne)伯、ブロワ伯の西がアンジュー(Anjou)伯、ブロワ伯・アンジュー伯の北で王領の北西がノルマンディ(Normandie)公領、東南部にブルゴーニュ(Bourgogne)公領)
Credit: Zigeuner, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

「アングロ・ノルマン王国(1087年頃)」

「アングロ・ノルマン王国(1087年頃)」
Credit: Historical Atlas by William R. Shepherd, Public domain, via Wikimedia Commons

聖職叙任権闘争と結婚問題

ローマ時代のキリスト教会では聖職者の叙任は信徒の投票によって決められていたがローマ帝国崩壊後、ローマ教会がフランク王国の庇護下に入ると王権の権限が強くなり王・領主による承認が慣習として成立する。司教職は聖職者に限らず俗人の就任も一般的となり聖職は金銭で売買されることも多く見られるようになった。歴代のフランク王たちも司教職の叙任に際して介入することは珍しくなく神聖ローマ帝国でもフランスでも王権は教会支配の手段として聖職叙任権を行使した。十一世紀、俗人による高位の聖職の独占と聖職の売買が教会腐敗の原因であるとして改革の機運が高まりローマ教皇グレゴリウス7世(在位1073-1085年)の時代に聖職叙任権をめぐる世俗権力との対立姿勢が明確となる。

フィリップ1世はフランク時代からの慣習に従って王領内の教会を支配下に置くべく聖職叙任権の掌握を試みた。教皇グレゴリウス7世は『神の教会を荒廃させ、その地位を売ったり、それを下女のように服従させようとして、教会に対しよこしまな望みを抱いていることを示してきたすべての君主たちのうちで、フランス王フィリップが最も罪深い君主であることは確かです』(4フリシュ、オーギュスタン/野口洋二 訳(2020)「叙任権闘争」筑摩書房、87頁)と厳しく非難している。

グレゴリウス7世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との対立も抱えていたことからフィリップ1世とは深刻な対立関係にならないよう穏健な姿勢で臨んだが、フランス王領内でフィリップ1世の庇護を受けて教会財産を恣にしていたオルレアン司教ルニエ、ル・ピュイ司教エティエンヌ、シャルトル司教ロベール、ランス大司教マナッセ、トゥール大司教ラウルら腐敗聖職者たちには公会議への出頭や公正な司教選挙の実施を命じるなど厳しい姿勢で臨み、教皇とフィリップ1世の間で妥協と取引が繰り返された(5フリシュ(2020)87-93頁)。このような過程でフィリップ1世は聖職売買の利益と教会財産の押領で王家の財産を増大させることに成功した(6Philip I | Capetian Dynasty, Holy Roman Emperor, 1060-1108 | Britannica)。

フランドル伯領の後継争いに介入した1071年、新フランドル伯となったロベール・ル・フリゾン(フランドル伯ロベール1世)との和平に伴い、彼の義理の娘ベルト・ド・ホランドと結婚したが、1092年、アンジュー伯フルク4世の妻で有力家臣シモン1世・ド・モンフォールの娘ベルトラード・ド・モンフォールと不倫関係に陥ると、王妃ベルトを一方的に離縁した上で修道院に軟禁(1094年死去)させ、ベルトラードとの再婚を試みる。これに対し、1094年、オータン宗教会議で破門に処され、98年に一度は破門が解かれるが1099年再び破門に処され、1100年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との対立でフランス王の協力を得たい教皇パスカリス2世によってようやく破門が解かれた。また、このベルトラードとの再婚によって王太子ルイとの対立が生じ、1100年から1101年にかけて王太子ルイはイングランドに滞在している。

晩年と死

1097年、王太子ルイにヴェクサンを与え、ルイはイングランド王ウィリアム2世ルーファスを撃退、1100年、ルイを共同王として戴冠させた。1101年、ブールジュを獲得してカペー家は初めてロワール川以南に領地を広げた。しかし、これ以降フィリップ1世は次第に政治から離れていき、王太子で共同王のルイ6世が表舞台に立って活躍するようになる。

1108年7月29または30日、フィリップ1世はムーラン城で亡くなった。享年56歳。遺骨は本人の遺志により歴代フランス王が埋葬されたサン・ドニ修道院ではなくサン・ブノワ・シュル・ロワールのフルーリー修道院に埋葬された。在位48年は歴代フランス王の中でルイ14世(在位1643~1715年、72年)、ルイ15世(在位1715~1774年、59年)に次ぐ三番目に長い在位期間である。

結婚と子供たち

1071年、フランドル伯ロベール1世の義理の娘ベルト・ド・ホランドと結婚し、二人の間に長女コンスタンス、嫡男ルイ(後のフランス王ルイ6世)、次男アンリが生まれた。1092年から愛人関係にあり前妃ベルト死後再婚したベルトラード・ド・モンフォールとの間にはフィリップ、フルーリ、セシル他女子一人の四人と一次資料不明のため実在したか不確かな女性ウスターシアがいるとされる。また、母親不明の庶子ウードがいる(7FRANCE CAPETIAN KINGS.MEDIEVAL LANDS.)。

母ベルト妃

  1. コンスタンス(CONSTANCE de France ,1078-1126)シャンパーニュ伯ユーグ1世妃、アンティオキア公ポエモン1世妃
  2. ルイ(LOUIS THIBAUT de France ,1081-1137)フランス王ルイ6世
  3. アンリ(HENRI de France ,1083年生-早逝)

母ベルトラード妃

  1. フィリップ(PHILIPPE de France ,1093-1133以降)マント伯
  2. フルーリ(FLEURI de France ,1095-1119以降)イル・ド・フランスのナンジス(Nangis)の相続人と結婚
  3. セシル(CECILE de France ,1097-1145以降)アンティオキア公国摂政タンクレード・ド・オートヴィルの妻、トリポリ伯ポンス妃
  4. 女子(早逝)
  5. ウスターシア(EUSTACHIE de France ,1095/1100-1143)実在したか不明

庶子

  1. ウード(EUDES de France ,?-1096)

参考文献

脚注