アゼルスタン(ウェセックス王、イングランド王)

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アゼルスタン(古英語:Æthelstan,英語:Athelstan,エセルスタン、エゼルスタンとも表記される/ 894年頃生-939年10月27日没)はウェセックス王エドワード古王の子、アルフレッド大王の孫。924年、父王死後ウェセックス王およびアングロ・サクソン王に即位し、927年、ノーサンブリア地方を征服、全イングランドを統一してイングランド王を称した(イングランド王国の成立)。937年、ブルナンブルフの戦い(Battle of Brunanburh)に勝利して諸外国の脅威を取り除き、法典を制定するなど国内の統治機構を整えた。「アゼルスタン栄光王(Æthelstan the Glorious)」の異名で知られる(1King Athelstan“, Athelstan Museum.)。ウェセックス王(在位924年7月17日(戴冠式925年9月4日)-927年)、初代イングランド王(在位927年-939年10月27日)。

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全イングランドの征服とイングランド王国の成立

「十世紀初めのブリテン諸島地図」

「十世紀初めのブリテン諸島地図」
Credit: Ikonact, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

アゼルスタンは894年頃、ウェセックス王アルフレッドの長男エドワードと最初の妻(2同時代史料では名前が確認できず、十二世紀の歴史家マームズベリーのウィリアムによればエグウィン(Ecgwynn)という名前で呼ばれているが真偽は不明)との間に生まれ、叔母エゼルフレードによってマーシアの宮廷で育てられた。母は身分が低かったとみられ、異母弟エルフウォード(Ælfweard,902頃生-924年没)の方が後継者と見られていた。924年7月17日、父エドワード古王が亡くなるとアゼルスタンはマーシアで王に推挙され、一方ウェセックスでは異母弟エルフウォードが王位を継承して両者が対立したが、わずか16日後にエルフウォードが急死したため、アゼルスタンが唯一の王となる。しかし反発も大きく、異母弟エドウィンら反対派を抑えて国内を平定し正式に戴冠式を行ったのは925年9月4日のことであった。

八世紀末から始まり九世紀半ばに本格化したヴァイキングのブリテン諸島侵攻に対し、アルフレッド大王とエドワード古王二代かけて反撃と再征服が進められ、アゼルスタンが即位した当時はハンバー川以南は全てウェセックス王国の版図に組み込まれ、未征服の領土はノーサンブリア地方を残すのみであった。当時のノーサンブリア地方には南部にヨークを首都とするヴァイキングの王国(ヨールヴィーク)があり、北部には旧ノーサンブリア王国の遺臣らによるバンバラ伯領があった。926年、アゼルスタンは妹エディスをヨールヴィークの王シトリックと結婚させて同盟を結ぶが、翌927年、シトリック王が急死したため、一気に軍を進めてヨークを占領、シトリックの後継者グスフリス王を追放してヨールヴィーク王国を滅ぼした。さらに勝利の勢いに乗ってノーサンブリア北部のバンバラ伯領も征服し、全イングランドの統一に史上初めて成功する。

しかし、アゼルスタン王の軍事的成功は周辺諸国の反発を招き、ノーサンブリア地方の北に位置するアルバ(スコットランド)王国と小規模な戦闘がおこなわれた。927年7月12日、現在のカンブリア州ペンリス近郊にあったイーモント橋にアゼルスタン王、アルバ王コンスタンティン2世、ストラスクライド王オワイン、デハイバース(3十世紀当時南部を除くウェールズ地方の大半を勢力下に置いた王権)王ハウェル、バンバラ伯エルドレッドら諸王侯が集まり講和会議が開かれ七年間の休戦とバンバラ伯がアゼルスタン王に臣従することなどが決められた。

アゼルスタン王はヨーク征服を記念して「ブリタニア全土の王(Rex Totius Britanniae)」の刻印が刻まれた貨幣(アゼルスタン・ペニー”Athelstan Penny”)を多数発行し、翌928年4月16日付でアゼルスタン王が出した勅許状(Charter)で初めてイングランド王(Rex Anglorum)の称号を使う(4The Electronic Sawyer: Online Catalogue of Anglo-Saxon Charters,S400., London, British Library, Add. 15350, ff. 70r-71r (s. xii med.),)など、このイングランド統一が実現した927年にイングランド王国が成立したと考えられている。

スコットランド侵攻とブルナンブルフの戦い

934年、休戦期間の終了にあわせてアゼルスタン王はスコットランドへ侵攻した。このとき、なぜスコットランドへ侵攻したのかは不明で様々な説が唱えられている。アゼルスタンの王位継承に反抗していた異母弟エドウィンが933年に亡くなり国内の反国王派を完全に排除出来たこと、アゼルスタンによって追放されたヨールヴィーク最後の王でダブリン王グスフリスがこの年亡くなったこと、ウェールズ諸王からの服従も得られたことなどの条件が整ったためノーサンブリア地方の覇権を確実なものとするため侵攻に乗り出した説と、かねてからノーサンブリア地方に野心を持っていたアルバ王国が和平条約を破ったためアゼルスタンが侵攻を開始したとする説で、後者については十二世紀の歴史家ウスターのジョンやマームズベリーのウィリアムらが記しているがそれを証明する記録は無い。

いずれにしてもアゼルスタンは万端準備を整え、デハイバース王ハウェルらウェールズ地方の四人の王を始め従えて大規模な軍勢を率いてスコットランドへ侵攻、フォース湾まで支配を広げた。コンスタンティン2世は息子を人質として差し出し、アゼルスタン王の帰還にも同行することとなる。935年、サイレンセスターで開かれたアゼルスタン王の勅許状公布式にはコンスタンティン2世を始めストラスクライド王オワイン、デハイバース王ハウェルら諸王が副王(subregulus)として出席、これはアゼルスタン王を上級君主として認めたことを示している。

937年8月、父グスフリス王の後を継いでダブリン王となったオーラフ・グスフリースソンがアルバ王コンスタンティン2世、ストラスクライド王オワインと同盟を結び、旧ヨールヴィーク領奪還を目指して船団を組織しダブリンを出航、同年秋、イングランドに上陸した。ダブリン王国・アルバ王国・ストラスクライド王国連合軍とアゼルスタン王率いるイングランド軍はブルナンブルフ(Brunanburh)と呼ばれる地(5ブルナンブルフの位置については現在まで議論が続き、イングランド中北部のヨークシャーやスコットランド南部のダンフリースシャーなど各地に候補地があるが、近年ではリヴァプール近郊のウィラル半島に位置するブロムバラ説が有力となっている(Blakemore, Elin.(2023).England was born on this battlefield. Why can’t historians find it? National Geographic.))で激突、「この島で、かつて、これ以前に(中略)これほどの殺戮がおこなわれたことはなかった」(6大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、122頁)ほどの激しい戦いとなり、イングランド軍が勝利した。連合軍は多数の犠牲を出してダブリン王オーラフとアルバ王コンスタンティン2世は敗走、ストラスクライド王オワインは消息不明だがおそらく戦死したとみられる。

「ブルナンブルフの戦いはイングランド史に重大な転機をきざんだ。デーン人の侵入により解体した『七王国』の政治的旧秩序にかわって、統一王国出現の決定的画期となったからである。アゼルスタンは発給した地権書のなかで『イングランド王』『全ブリタニア王』と称したが、それにふさわしい実力と政治的状況をつくりだした。」(7青山吉信「第5章 イングランド統一王国の形成」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、162頁)

ブルナンブルフの戦い(937年)
ブルナンブルフの戦い(Battle of Brunanburh)は、937年秋、イングランド王アゼルスタン率いるイングランド軍がダブリン王国・アルバ(スコットランド)王国・ストラスクライド王国連合軍を撃破した戦い。アゼルスタン王の全イングラ...

内政・外交

アゼルスタン王は祖父アルフレッド大王の法制改革を受け継ぎ、彼の治世下で多くの法律文書が制定された。現存するアゼルスタン王の6つの法典には、窃盗を抑制し汚職を罰するための厳しい取り組みが見られる。これらの法典には、貧困にあえぐ人々を慰め、若い犯罪者の刑罰を軽減することを意図した規定が含まれていることが特筆される。彼の数多くの文書の形式や言葉遣いは、ウィンチェスター大聖堂の熟練した実務家たちの存在があったことを示唆している(8Athelstan | Anglo-Saxon King, Wessex Ruler, First King of England. Britannica.)。

学芸を奨励し、修道院や教会を庇護してブルターニュ地方を中心に戦禍から逃れた聖職者を招聘したため、彼の治世下でラテン語での福音書作成や詩作が盛んとなり、エドガー平和王時代にウィンチェスターを学芸の中心地として栄えさせた立役者のウィンチェスター司教エゼルウォルド(9St Æthelwold – Oxford Reference)や同じくエドガー平和王時代に建築や芸術・文芸など多岐に渡る才能を発揮してイングランドの教会改革をリードしたカンタベリー大司教ドゥンスタン(10An Anglo-Saxon ‘Renaissance Man’: St Dunstan – Medieval manuscripts blog)などの知識人を輩出する学術環境を形成した。このような先進的な学術環境を背景に、後のノルウェー王ホーコン1世が即位前までアゼルスタンの宮廷で過ごしていたのを始め、ヨーロッパ各地の有力諸侯の子弟らの留学先となった。

アゼルスタン王は大陸との関係強化にも積極的で、異母妹のうち彼の意思で結婚が行われた一人は西フランク王ロベール1世の子で後のフランス王ユーグ・カペーの父ユーグ・ル・グランの妻となり、もう一人は後の皇帝オットー1世と結婚した。また、アゼルスタン王の異母妹エドギフと西フランク王シャルル単純王の子でアゼルスタンからみて甥にあたるルイ(後のルイ4世、在位936年-956年)が西フランク王位につくことを支持し、フランドルを攻撃するために船団を送った。

死と継承

939年10月27日、アゼルスタン王はグロスターで亡くなった。彼の遺言により、父エドワード古王が眠るウィンチェスターではなくマームズベリー修道院に埋葬された。修道院内には15世紀に作られた墓が残されている。また、彼の遺骨は十二世紀頃に当時のマームズベリー修道院の修道士が暮らしていた建物の庭に再埋葬されたが十六世紀の宗教改革の最中に失われたと伝わる。再埋葬された場所は現在アビー・ハウス・ガーデンズと呼ばれる庭園と邸宅が建ち観光地となっている(11Abbey House Manor公式サイト)。

「マームズベリー修道院のアゼルスタン王の墓」

「マームズベリー修道院のアゼルスタン王の墓」
Credit: Arpingstone, Public domain, via Wikimedia Commons

子供がいなかったため、死後は異母弟エドマンドが王位を継いだ(エドマンド1世、在位939-946年)。

関連リンク

参考文献

脚注