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ロロ

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ロロ(英語:Rollo,フランス語:Rollon/932または933年頃没)は北欧出身のヴァイキングで、九世紀後半から十世紀初頭にかけてフランス北岸を襲撃、911年、西フランク王国のシャルル単純王とサン=クレール=シュル=エプト条約を締結してキリスト教への改宗および西フランク王国への臣従と引き換えにルーアン伯に叙され、セーヌ川河口からルーアンにかけての土地を与えられた。このとき彼が獲得した封土を中核として後継者たちが勢力拡大に乗り出し、後にノルマンディー公国へ発展したことから、遡って初代ノルマンディー公に数えられる。

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出自の謎

「フランス・ファレーズ市の『征服者ギヨームと六人のノルマンディー公像』を構成するロロの像」(1851年)

「フランス・ファレーズ市の『征服者ギヨームと六人のノルマンディー公像』を構成するロロの像」(1851年,Guillaume le Conquérant et six ducs de Normandie,Louis Rochet.)
Credit: Pradigue, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

ロロについては信頼できる史料が非常に少なく不明な点が多い。出自についても史料によってデンマーク出身であるとする説とノルウェー出身であるとする説があり相違がある。十世紀末から十一世紀初めにかけてノルマンディー公リシャール1世の依頼でデュドン・ド・サン=カンタン(Dudon de Saint-Quentin)が著した「リベル(初期のノルマンディー公のならいと事績について)」 (De Moribus et Actis Primorum Normanniae Ducum)ではロロはデンマークの有力者でデンマーク王に狙われた若者たちを助けたことで王と対立、弟グリムを失い故郷を追われたという(1上山益己(2021)『中世盛期北フランスの諸侯権力』大阪大学出版会、94頁)。

一方、ロロをノルウェー出身とする最も古い史料は十一世紀のノルマン人修道士ゴッフレド・マラテッラ(Goffredo Malaterra)が1090年頃に著した「シチリアとカラブリアの伯ルジェーロと彼の兄弟ロベルト・グイスカルド(ロベール・ギスカール)公の事績」(De Rebus Gestis Rogerii Calabriae et Siciliae Comitis et Roberti Guiscardi Ducis fratris eius)で、ロロがノルウェーから船団を率いてフランス西岸を襲撃してセーヌ川河口の港に到達したと書いている(2“Once it, andeverything that appertained to it, was a part of the royal fisc of the King of the Franks, which was calledby the general name of Francia; up to the time when a very brave leader called Rollo sailed boldly fromNorway with his fleet to the Christian coast, accompanied by a strong force of soldiers. He ravagedFrisia and other maritime areas to the west, and finally reached the port where the River Seine flows into the sea. “Malaterra, Geoffrey (2005). ‘The Deeds of Count Roger of Calabria & Sicily & of Duke Robert Guiscard his brother‘, Geoffery Malaterra. Translated by Loud, Graham A. p. 3. )。また十二世紀から十三世紀にかけてのアイスランド語文献「オークニンガ・サガ」や「ヘイムスクリングラ」などでは「歩きのフロールヴ(Göngu-Hrólfr)」の名で登場、「ヘイムスクリングラ」にはノルウェー王ハーラル美髪王の家臣メール侯ログンヴァルドという人物の子として登場している(3スノッリ・ストゥルルソン/谷口幸男 訳(2008)『ヘイムスクリングラ−北欧王朝史(一)』プレスポート・北欧文化通信社、183-184頁)。

九世紀初頭の北欧史について十三世紀頃に書かれたサガの信頼度は低く、後世の外来資料よりも初期の自国資料の方が優先される(4Baldwin,Stewart (2001).’Rollo of Normandy‘.The Henry Project: The Ancestors of King Henry II of England.)ため、ロロの孫リシャール1世から直接聞くことが出来た点でデュドンの記述が有力ではあるが、同文献は書かれた当時の西フランク王国との対立関係を背景として、リシャール1世がデンマーク王ハーラル1世と血縁関係であると主張するなどノルマンディー公国とデーン人との関係の深さを主張する意図で書かれており(5上山益己(2021)96-97頁)、記述の偏りゆえに「現代の歴史家たちは、彼の記述を慎重に見ている」(6Gondoin,Stéphane William (2016).Automne 911 – Le traité de Saint-Clair-sur-Epte, Herodote.net.)。デンマーク出身説の方が有力視されてはいるものの、ノルウェー出身説を否定することもできず、語られる家族構成も信頼できないため、ロロが北欧出身のヴァイキングであったということ以上は不明である(7Baldwin(2001))。

サン=クレール=シュル=エプト条約

840年代からヴァイキングたちは西ヨーロッパ各地に進出、860年代からヴァイキングの攻撃は激しさを増し、河川の河口付近に橋頭堡を築いてブリテン諸島や西フランク王国西北部沿岸を中心に襲撃を繰り返すようになった。西フランク王シャルル禿頭王(在位843-877年)はパリを始めとする主要都市に市壁を設け築城橋や築城陣地を各地に築いて防御を固め対抗した(8カウフマン、J・E/カウフマン、H・W(2012).『中世ヨーロッパの城塞』マール社、82-83頁)。ロロもこのような西フランク王国に侵攻を繰り返すヴァイキングの一人であったらしく、デュドンによれば、876年、ルーアンに侵攻して占領下に置いたという(9ロロのノルマンディー占領は「アングロ・サクソン年代記」のE稿本(ピーターバラ写本)の876年の条にも記述が確認できるが同写本は十二世紀(1121年から1154年まで)に作成されたもの(大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、86頁/”The Anglo-Saxon Chronicle by J. A. Giles and J. Ingram” Project Gutenberg))、サン=クレール=シュル=エプト条約は条約締結までにルーアン周辺を勢力下に置いていたロロの支配を追認したものとみられる。

911年6月頃からロロ率いるヴァイキングの軍勢がシャルトルを包囲するが攻略することは出来ず、7月20日、シャルトルの城壁下で西フランク群に敗れ撤退した(10シャルトルの戦いを911年7月20日とするのはユーグ・ド・フルーリー(Hugues de Fleury)の「年代記」から(Gondoin (2016).))。西フランク王シャルル単純王(在位898–922年)はこの勝利を機にヴァイキングと交渉を望み、同年中にセーヌ川支流のエプト川近郊の町サン=クレール=シュル=エプトでロロに対しキリスト教への改宗と臣従を条件にルーアン市周辺を領地として与えることを約束、両者合意してサン=クレール=シュル=エプト条約が締結された。ただし同条約の文書は残っておらず、デュドンの記述から内容を伺うにとどまっているが、918年3月14日付のシャルル単純王が発行した勅許状にもセーヌ川のノルマン人たちに領地を与えたことが言及されている(11勅許状はArchives Nationales, « Diplôme de Charles III le Simple, roi des Francs, daté du 14 mars 918 »)。

この条約をもってノルマンディー公国の成立とされるが、ロロが授封した領地はのちにノルマンディー公国とされる領地の東部三分の一程度に限られ、本格的な拡大は彼の死後のことになる。また、彼はルーアン伯となっただけで、ノルマンディー公を称するのはロロの曾孫リシャール2世(在位996-1026年)の代になってからであった。ロロの授封以降ノルマンディー地方は北欧からの移住者の受け入れ地となり、北ゲルマン諸語の古ノルド語と北フランスで使われたロマンス諸語のオイル語があわさったノルマン語が誕生し、現地化した人々はノルマン人と呼ばれるようになった。ノルマンディーを拠点としてノルマン人はヨーロッパ各地に拡大、ノルマン人のオートヴィル家がイタリア半島南部にシチリア王国を建国、ロロの末裔であるノルマンディー公ギヨーム2世はイングランドを征服してイングランド王を兼ね、ノルマン人が支配階層を形成、イングランドのノルマン化が進んだ(ノルマン・コンクエスト)。

「ノルマンディー公国の領土(911年から1050年まで)」

「ノルマンディー公国の領土(911年から1050年まで)」
Credit: FlyingPC (talk · contribs), Morningstar1814 (talk · contribs), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

死と家族

912年、ロロは条約を履行してキリスト教の洗礼を受けた。ロロは長老たちの意見を元に法律を施行し、破壊された教会を再建、都市に市壁を築いて強化するなど安定した政治を行ったことをデュドンは讃えている。シャルル単純王存命中は西フランク王国と平和的な関係を築いていたが、922年にシャルル単純王が失脚してロベール1世(在位922-923年)が即位するとこれに異を唱えてフランク領への侵攻を開始し、ロベール1世および後継者のラウール王(在位923-936年)と戦った。同時代の歴史家ランスのフロドアール(Flodoard de Reims)によれば、フランク軍は1000人以上の捕虜を出して敗北、924年、西フランク王ラウールとロロの間で講和条約が締結され、ロロはメーヌとバイユーを獲得したという。

927年、ロロは引退して息子のギヨーム(ギヨーム1世長剣伯または長剣公、在位927-942年)にルーアン伯位を継承した。死亡時期については諸説あるが930年代、932-33年頃に亡くなったと考えられている。

ロロの妻としてバイユーのポッパ(Poppa de Bayeux)とジゼル(Gisèle)という二人の女性が知られている。デュドンによれば、ポッパはバイユー出身でベランジェという名の伯爵の娘とされ、通説ではネウストリア侯ベランジェ2世と同定されるが確定されてはおらず不明な点が多い。このポッパとの間に生まれた男子のギヨームが後継者となった。

十一世紀の歴史家・修道士のギヨーム・ド・ジュミエージュ(Guillaume de Jumièges)によると、ギヨームの他にジェーロック(Gerloc)という女子がロロとポッパの間に生まれたという。ジェーロックはのちにポワティエ伯およびアキテーヌ公ギヨーム3世と結婚してアデルと名乗った(12Baldwin(2001))。アデルとアキテーヌ公ギヨーム3世の間の子アデライードがユーグ・カペーの妻となり、フランス王ロベール2世を産む。

同じくデュドンによれば、ジゼルはシャルル単純王の王女で911年、サン=クレール=シュル=エプト条約締結とあわせて結婚したという。ただし、この女性についてもデュドン以外の史料に見えず、実在したか不明である。フランク王シャルル肥満王(在位885-888年)にも同名のジゼルという名のヴァイキングの有力者と結婚した王女がおり、混同している可能性も指摘されている(13Baldwin(2001)

参考文献

脚注

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