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トマス・モンタギュ(第四代ソールズベリー伯)

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第四代ソールズベリー伯トマス・モンタギュ(” Thomas Montagu, 4th Earl of Salisbury ” 1またはモンタギュー” Montague”,モンタキュート” Montacute”とも表記される)は百年戦争後期イングランドの貴族・軍人。1388年6月13日生-1428年11月3日没。「イギリス軍の武将きっての戦さ巧者、熟練者、それに幸運児」(2ペルヌー、レジーヌ/クラン、マリ=ヴェロニック(1992)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍330頁)として著名だった。アジャンクールの戦いを始めとする1415年から始まるイングランドによる北フランス征服の立役者となったが、オルレアン包囲戦の序盤で砲撃により戦死した。

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軍歴

ソールズベリー伯トマス・モンタギュの紋章

ソールズベリー伯トマス・モンタギュの紋章
© Rs-nourse [CC BY-SA 3.0 ]


父の第三代ソールズベリー伯ジョン・モンタギュは1399年、イングランド王リチャード2世のアイルランド遠征に随行し、ヘンリ・ボリングブロク(ヘンリ4世)の反乱に際してもリチャード2世に忠誠を誓ったため、ランカスター朝が成立した直後の1400年に処刑され領地も没収された。

トマス・モンタギュは若いころからランカスター王家に忠誠を誓い、王太子ヘンリ(後のヘンリ5世)の友人として信頼を得た(3以降彼の軍歴についてはWagner,John.A(2006). Encyclopedia of the Hundred Years War. GREENWOOD PRESS. ISBN 0-313-32736-X.p217 / ‘Thomas de Montacute, 4th Earl of Salisbury (1388-1428)‘.,Luminarium: Encyclopedia Project,Encyclopedia Britannica, 11th Ed. Vol XXIV.,Cambridge: Cambridge University Press, 1910. 78. / Wikipedia contributors, ‘Thomas Montagu, 4th Earl of Salisbury’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 12 August 2021, 05:35 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Thomas_Montagu,_4th_Earl_of_Salisbury&oldid=1038375520 [accessed 10 January 2022]参照)。1409年、ソールズベリー伯位の継承を認められるが、このときは領地の一部にとどまり、全てを回復するのは1421年のこととなる。1414年、戦功によってガーター勲章を受ける。

ヘンリ5世時代

1415年から始まるヘンリ5世のフランス遠征に参加し、アルフルール包囲戦とアジャンクールの戦いで軍功を挙げた。1417年からの北フランス遠征でもファレーズ、カーンの包囲戦に参加し1419年のルーアン攻略で活躍した。ルーアン攻略後、ノルマンディーの中将に任命されて、セーヌ川以南の防衛に責任を負うとともに、ペルシェ伯に叙される。また、1420年5月のトロワ条約の起草にも参加している(4ペルヌー、レジーヌ/クラン、マリ=ヴェロニック(1992)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍330頁)。

1420年11月、アンジュー方面の軍事指揮権を授与され、ル・マンでリュー元帥ピエール・ド・ロシュフォール率いるアルマニャック派(フランス)軍を撃破した。1421年3月21日、ボージェの戦いで総指揮官の王弟クラレンス公トマスが自身の短慮から大きな損害を出して戦死すると、指揮を引き継いで公の遺体の回収に成功した上で被害を最小限にとどめつつ撤退した。

ベッドフォード公政権下

ヘンリ5世死後、ベッドフォード公政権下でシャンパーニュ総督に任命され、1423年7月31日、侵攻してきたフランス軍をクラヴァンの戦いで撃退し、ヴァンドーム伯ルイ1世やジャン・ポトン・ド・ザントライユらを捕虜とした。

翌1424年8月17日、ベッドフォード公指揮下でヴェルヌイユの戦いに参戦、ベッドフォード公が右翼を、ソールズベリー伯は左翼を指揮して勝利に多大な貢献をした。ヴェルヌイユの戦いはフランス軍主力が壊滅した「第二のアジャンクール」と呼ばれた戦いで、彼の働きは絶大だった。ヴェルヌイユの占領に続いて、1425年よりメーヌ地方攻略の総指揮をとってル・マンを占領し、メーヌ地方の征服が実現する。このメーヌ地方征服によってイングランドは百年戦争下での最大版図を築くことになった。

1427年、ソールズベリー伯はウォリック伯リチャード・ビーチャムらとともにオルレアンの東にあるモンタルジの包囲に取り掛かるが、ジャン・ド・デュノワとラ・イル率いるフランス軍の救援部隊によって失敗に終わり、9月5日、撤退した。ソールズベリー伯はこの後、オルレアン攻略を強く主張するようになるが、この失敗が影響していたかもしれない。

『ソールズベリー自身およびベッドフォードの主な顧問たちに、敵に打撃を与えることの必要、直接オルレアンを攻撃することの必要を納得させたともいえる』(5ペルヌー、レジーヌ(1986)『オルレアンの解放』白水社、ドキュメンタリー・フランス史84頁

また、オルレアン包囲戦をソールズベリー伯が強く主張した理由の中には、あくまで俗説だが、美貌で知られたソールズベリー伯夫人エレノア・ホランドにブルゴーニュ公フィリップ3世が言い寄ったことへの当てつけとするものもある(6Wagner(2006). p217およびペルヌー/クラン(1992)330頁)。ブルゴーニュ公はオルレアン包囲戦に同盟軍を出すことには乗り気ではなかった。しかし、これが理由ではやはりオルレアン攻略に乗り気ではなかったベッドフォード公を説得することはできないし、エレノア夫人は1413年以降の早い時期に亡くなっており、また、伯はすでに1424年に再婚済みでもあるため、俗説の域を出ない。

ともあれ、アンジュー地方への侵攻を考えていたベッドフォード公に対しソールズベリー伯はオルレアンの攻略を強く主張し、ソールズベリー伯を総司令官としてオルレアン攻略軍が編成されることになった。

ソールズベリー伯の死

1428年6月30日、ドーヴァー海峡を渡ったソールズベリー伯率いるイングランド軍主力は7月、ノルマンディーで兵力を増強して南下、周辺都市を次々と攻略して、1428年10月12日、オルレアン包囲戦が始まる。しかし、わずか二週間後の1428年10月24日または27日、ソールズベリー伯が戦況把握のため要塞の一つの見張り台に上って視察していたとき、偶然、オルレアン市から放たれた砲撃によって頭部に瀕死の重傷を負い、11月3日に亡くなった。

同時代のブルゴーニュの年代記作家アンゲラン・ド・モンストルレはソールズベリー伯の死について以下のように描いている。

『伯はこの町をどのように奪い、征服できるかよく見て考えようとして、レ・トゥーレル要塞のまわりの階段を注意深く観察していた。彼は窓の近くにいたのだが、町から突然大砲で打ち出された石弾がとんで来て、伯のいた近くの窓に命中した。伯は大砲の音とともに身をひいていたが、それでも瀕死の重傷を負い、顔の大半を吹きとばされてしまった。』(7ペルヌー/クラン(1992)329頁

『伯の負傷に全将兵は悲嘆に暮れた。伯は彼らから慕われ、愛されており、イギリス王国のあらゆる将軍たちのなかで最も明敏、卓越した指揮官とみなされていたからである。しかし、かく重傷を負いながら伯はなお八日間生命を保ち、その間に部下の隊長たちを呼び集め、迷うことなくこのオルレアンの町の攻略を遂行するようイギリス国王の名で命令したうえ、隣の町マンに移され、傷を負ってから八日目に死去した』(8ペルヌー(1986)8頁

その上で、彼の死は秘密にされたが、すぐに敵軍にも伝わったようで、オルレアン包囲戦下でオルレアン市内の様子を記した史料「オルレアン籠城日誌」には『これこそフランス王国にとってこの上もない幸い。ソールズベリーこそ、イギリス全軍の中で最も名だたる将軍なのだから』(9ペルヌー(1986)8頁)とその喜びが表されている。

敵味方ともに認める名将ソールズベリー伯の不慮の死は歴史を大きく変えた。以後イングランド軍はサフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、ジョン・タルボットらの集団指導体制に移って攻略は遅々として進まず、ジャンヌ・ダルクの登場という劇的な展開へと進んでいくのである。

家族と死後のソールズベリー伯家

1399年に結婚したエレノア・ホランドとの間に娘アリス・モンタギュ(1407年生)がある。エレノアは1413年以降の早い時期で亡くなり、1424年、伯は著名な詩人ジェフリー・チョーサーの孫娘にあたるアリス・チョーサーと再婚した。アリス・チョーサーとの間に子供はない。アリス・チョーサーは夫の死後、1430年、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールと再婚した。

女継承者アリス・モンタギュは1421年頃、ウェストモランド伯ラルフ・ネヴィルの三男リチャード・ネヴィルと結婚し、トマス・モンタギュ死後、アリス・モンタギュとリチャード・ネヴィルがともに第五代ソールズベリー伯(女伯)となった。リチャード・ネヴィルとアリス・モンタギュの間に生まれた長男が後の”キングメイカー”ウォリック伯リチャード・ネヴィルである。

トマス・モンタギュが数々の軍功を重ねて築いた財産と領地は薔薇戦争下で存在感を発揮するネヴィル家の財政基盤として活用されていくことになる。

参考文献

脚注

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