カルティマンドゥア(ブリガンテス女王)

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カルティマンドゥア(Cartimandua)は一世紀半ば、ローマ帝国支配下のブリテン島でイングランド北部を領土としたブリガンテス族の女王(在位:43年頃-69年頃)。有力な被護王国の一つとしてローマ帝国の属州支配に忠実で、親ローマ派の代表的存在となった。ローマ軍に抵抗して敗れたカトゥウェッラウニ族の王カラタクスが助けを求めて逃げ延びてくると、彼を捕らえてローマ軍に引き渡した。69年頃、前夫ウェヌティウスの反乱で失脚、ローマ軍に救出されたが、その後消息不明。

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ローマ帝国のブリテン島征服とブリガンテス族

「ブリガンテス族の領土推定地図」

「ブリガンテス族の領土推定地図」
Credit: England_Celtic_tribes_-_North_and_Midlands.png: self-createdderivative work: Jpb1301, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

ガリア戦争の過程でユリウス・カエサルはブリテン島からガリア人を支援する動きがあることを把握した。これを断つため紀元前55年と54年の二度に渡ってブリテン島へ侵攻、ブリトン人指導者カッシウェッラウヌスを下した(ユリウス・カエサルのブリタニア侵攻)。このときは勢力を削ぐだけで征服に至らなかったが、ローマが帝政に移行してからも幾度かブリテン島征服は企図されつつ実行に移されずにいた。

紀元一世紀になるとカッシウェッラウヌスの後継とみられるカトゥウェッラウニ族クノベリヌス王の下で勢力を拡大しブリテン島南部で支配的地位を築く。西暦41-42年頃、親ローマ派のアトレバテス族カトゥウェッラウニ族の圧迫によって自らの王ウェリカを追放したが、ウェリカ王はローマ帝国に逃れてクラウディウス帝に助けを求めた。カエサルも成し得なかったブリテン島征服は即位して間もない新皇帝クラウディウスにとって自身の権威を引き上げるまたとない好機だった。西暦43年、クラウディウス帝の命でアウルス・プラウティウス率いるローマ帝国軍がブリテン島へ侵攻、クノベリヌス王の後継者カラタクス王率いるブリトン人連合軍を破り、ブリテン島南部をローマ帝国の属州とした(クラウディウス帝のブリタニア侵攻)。

ブリガンテス族は現在のヨークシャー地方にあたる地域を支配していた複数のブリトン人部族からなる連合体で、ローマによる征服が行われた一世紀前後の時期、イングランド北部最大の勢力であった。1980年代の発掘調査でノースヨークシャー州リッチモンド北部のスタンウィックがカルティマンドゥア女王時代前後の首邑であったとみられる。43年のローマによる征服戦争の際、カムロドゥノン(現在のコルチェスター)でクラウディウス帝に降伏したブリトン人の11部族の一つがブリガンテス族であったと考えられている。

生涯

「捕らえたカラタクス王をローマ軍に引き渡すカルティマンドゥア女王」(フランチェスコ・バルトロツィの版画、1788年、アムステルダム国立美術館収蔵)

「捕らえたカラタクス王をローマ軍に引き渡すカルティマンドゥア女王」(フランチェスコ・バルトロツィの版画、1788年、アムステルダム国立美術館収蔵)
Credit:Rijksmuseum, CC0, via Wikimedia Commons

カルティマンドゥアの生い立ちや女王に即位する過程については記録がなく不明だが、「高貴な血統」(タキトゥス「同時代史」3巻451(タキトゥス/國原吉之助訳(2012)『同時代史』筑摩書房、235頁))の生まれでウェヌティウスというブリガンテス族の有力者と結婚して共同で王位についた。即位時期は定かではないが、43年にクラウディウス帝に降伏した11人のブリトン人指導者の一人であったと考えられている。夫婦の関係が穏やかな間はローマの属州支配に忠実でローマ軍の軍事力を背景として平和な安定した治世を実現した。

カルティマンドゥアに関する最初の言及はタキトゥス「年代記」十二巻のカトゥウェッラウニ王カラタクスのローマ軍への引き渡しに関する記述である(タキトゥス「年代記」12巻362(タキトゥス/國原吉之助訳(1981)『年代記(下) ティベリウス帝からネロ帝へ』岩波書店、84頁))。ローマ軍によるカムロドゥノン攻略後も逃げ延びたカラタクス王はウェールズ地方のシルレス族、オルドウィケス族とともにローマ軍にゲリラ戦を仕掛け、激しく抵抗していた。51年頃、勢力を増したカラタクスはローマ軍に対し決戦を挑むが敗北、落ち延びてカルティマンドゥアに助けを求めた。しかし、ローマ帝国との関係を重視したカルティマンドゥアはカラタクスを捕らえてローマ軍に引き渡す。これによりブリテン島侵攻にともなう組織的抵抗は終息した。

カラタクス引き渡し後の51年から57年の間でカルティマンドゥアと夫ウェヌティウスの関係が悪化し両者は離婚、カルティマンドゥアは楯持ちのウェロカトゥスという男性と再婚した。カルティマンドゥアとウェヌティウスは離婚へ至る過程でウェヌティウスの兄弟や親戚がカルティマンドゥアの謀略で殺害されるなど対立が激化、内乱となりたびたび軍事衝突が起きた。この紛争は拡大してウェヌティウスはカルティマンドゥアを支援するローマ軍とも戦うようになり、反ローマ派の指導者としての地位を確立する。アウルス・ディディウス・ガルス総督時代(52-57年)、カエシウス・ナシカ率いるローマ軍によってウェヌティウスは撃退されカルティマンドゥア女王の体制は維持された。

西暦60年、ボウディッカ(ブーディカ)に率いられたイケニ族がローマの支配に対する反乱を起こした。この反乱時のカルティマンドゥアの動向は記録がなく定かでないが、引き続き王位を維持していることから、おそらくカルティマンドゥアはローマ帝国との同盟に忠実であり、反乱に参加することはなかったとみられる。

西暦69年、ネロ帝死後四人の皇帝が次々と擁立され、ローマ帝国で内乱が勃発すると大陸での混乱に乗じてウェヌティウスが反ローマ派を糾合して反乱を起こし、カルティマンドゥア女王派を攻撃した。カルティマンドゥアはローマへ救援を求めたが少数の補助軍が派遣されるに留まり、勝利に至らなかったがカルティマンドゥアをブリガンテスから脱出させた。結果、カルティマンドゥア政権は崩壊、ウェヌティウスが新たなブリガンテス王となった。カルティマンドゥアはローマ軍に守られて亡命したと思われるが、その後の消息は定かではない。内乱終結後の71年、ローマ軍によってウェヌティウスは滅ぼされブリガンテス族の自治は終焉、属州に組み込まれた。

カルティマンドゥアの再評価

カルティマンドゥアに対するローマ時代の評価は高くない。カルティマンドゥアに関する主な記述を記した歴史家タキトゥスはローマ時代に一般的な尚武の気風と女性蔑視的な観点でカルティマンドゥアを批判的に評価している。

『彼女はおのれの富と幸運に驕り、自分の夫であったウェヌティウスを追い出し、王の楯持ちウェロカトゥスを夫に迎えて王位を分けた。
この破廉恥な行為は、たちまち王国を根底から揺すぶった。人々は前夫に同情し、姦夫に味方したのは女王の情欲と残忍性であった。』(タキトゥス「同時代史」3巻45(3タキトゥス/國原吉之助訳(2012)235頁))

タキトゥスはカラタクスやウェヌティウスらローマに抵抗した者たちを勇敢で勇気があり、思慮深い人物として描くのに対し、一貫してローマに忠実で属州内の平和に貢献したカルティマンドゥアを情欲で行動する卑劣な悪女として非難している。タキトゥスはローマ軍がブリテン島南部を属州化するため軍事行動に専念することを可能とした安全な北部の守りとしてのカルティマンドゥア統治下のブリガンテス族の役割を無視している点が指摘(4Pat Hirst “Cartimandua – Queen of Brigantia“.Vindolanda Charitable Trust.)されており、タキトゥスのカルティマンドゥアに対する非難は現在は受け入れられていない。

『部族単位のコミュニティーに分かれた状態で統一国家のまだないブリテン島の人間が、高度に発達した文明を持ち、広い属州を支配しているローマ帝国に刃向うことがどのような結果を招くことになるかを、ブリガンテス族の高貴な家柄に生まれたカルティマンドゥアは理解できていたであろう。ローマに徹底抗戦して部族民を殺戮される危険にさらすことと、恭順の意を示して自分たちの安全を守ることを秤にかけた時、彼女の選択は容易だったに違いない。カルティマンドゥアがローマ侵攻以来30年近くの間ブリガンテス族を統治できたのは、このように得失を冷静に判断するという政治的姿勢を持ち合わせていたからだと思われる。』(5小柳康子(2013)「ローマン・ブリテンにおける『カタストロフィ』―ブリガンテス族の女王カルティマンドゥア」(『實踐英文學 65』 3-20頁)16-17頁

参考文献

脚注