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クラウディウス帝のブリタニア侵攻(43年)

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「クラウディウス帝のブリタニア侵攻(Claudian invasion of Britain)」は西暦43年、クラウディウス帝の命でアウルス・プラウティウス率いるローマ帝国軍がブリテン島へ侵攻、現地のブリトン人部族と交戦して服従させた戦争のこと。後にクラウディウス帝自ら親征し、ブリテン島南部をローマ帝国の属州とした。以後、属州の支配地域は拡大し、五世紀初頭(409-410年頃)にローマ帝国軍が撤退するまでハドリアヌスの長城を北限とした領域がローマ帝国の支配下に置かれた。

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背景

ユリウス・カエサルのブリタニア侵攻後、ブリテン島と大陸の関係は深化することになった。交易が盛んとなりローマの文物が流入し、貨幣の鋳造、建築技術、葬送儀礼、宝飾品や衣服などローマ文化がブリテン島南東部を中心に浸透した。また、カエサルによって王位に就いたマンドゥブラキウス王のトリノウァンテス族や、後にブリテン島に勢力を確立したコンミウス王のアトレバテス族などの親ローマ派部族とカエサルの侵攻に対抗したカッシウェッラウヌスの後継とみられるカトゥウェッラウニ族の三大勢力を中心に、ブリテン島のブリトン人部族国家の勢力関係が大陸の情勢とリンクして動くようになった。

紀元一世紀前半、カトゥウェッラウニ族クノベリヌス王(在位:西暦9年頃-40年頃)の下で勢力を急拡大させ、トリノウァンテス族アトレバテス族を征服し周辺部族を従属させ、トリノウァンテス族の首邑カムロドゥノンに遷都してブリテン島東南部に支配的地位を築いた。歴史家スエトニウスは彼を「ブリトン人の王」と呼んだ(1Suetonius, Lives of the Twelve Caesars: Caligula 44-2)。

ローマが帝政に移行してからはブリテン島の諸王と平和的な外交関係が築かれたが、ブリテン島でカトゥウェッラウニ族クノベリヌス王が勢力を拡大して支配的な地位を築くと、圧迫された諸部族がローマに助けを求めるように、侵攻計画が持ち上がるようになった。カリグラ帝(在位:西暦37年-41年)は西暦40年頃、クノベリヌス王に追放された王子アドミニウスの支援依頼に基づいて遠征軍の編成を命じたが直前で中止され、その直後クーデターで暗殺された。

西暦40年頃クノベリヌス王が亡くなり、息子のトゴドゥムスとカラタクスの二人が遺領を継承した。41~2年頃、アトレバテス族カラタクスの圧迫によって自らの王ウェリカを追放したが、ウェリカ王はローマ帝国に逃れてクラウディウス帝に助けを求め、これが侵攻の契機となった。

ローマ皇帝クラウディウス(在位:西暦41年-54年)はカリグラ帝死後、共和制の復活を恐れた親衛隊によって擁立された皇帝で、後世、学者皇帝としてその学識が称賛されるようになるが、当時はすでに50歳と高齢で軍歴も無くカリグラ帝の叔父であること以外の特徴は無い無能な人物とみられていた。ところが、即位後反対派を粛清して権力基盤を固め、反乱を鎮圧するなど鮮やかな手際で前評判を覆す有能さを見せていた。未だ地位が不安定な新皇帝クラウディウスにとって、カエサルも成し得なかったブリテン島征服は自身の権威を引き上げるまたとない好機だった。

ユリウス・カエサル胸像(ヴァチカン美術館収蔵)

ユリウス・カエサル胸像(ヴァチカン美術館収蔵、パブリックドメイン画像”Public domain, via Wikimedia Commons”)

クラウディウス帝胸像

クラウディウス帝胸像(ヴァチカン美術館収蔵、パブリックドメイン画像”Public domain, via Wikimedia Commons”)

侵攻

上陸

クラウディウス帝は属州パンノニア総督アウルス・プラウティウスを総司令官に任命し、四個軍団と補助軍計四万名からなる遠征軍を編成した。後に皇帝となるフラウィウス・ウェスパシアヌス率いる第二軍団アウグスタ、第九軍団ヒスパナ、第十四軍団ゲミナ、第二十軍団ウァレリア・ウィクトリクスが加わったとみられる(2南川高志(2015)『海のかなたのローマ帝国 古代ローマとブリテン島 増補新版』岩波書店、世界歴史選書、98頁/ポター、ティモシー・ウィリアム「第一章 ブリテン島の変容――カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、38頁)。

遠征に際し、ガリア北部のブーローニュに集められたローマ兵の間にブリテン島への渡航を恐れて動揺が広がったため、クラウディウス帝は寵臣の解放奴隷ナルキッススを派遣して激励演説をさせ動揺を鎮めた。

大規模な兵員の上陸を容易にするためローマ軍は軍勢を三つの部隊に分けて出航した。三部隊の上陸地点についてはケント州沿岸と考えられているが詳細な位置は議論があり、「考古学的な研究は、タナトゥス(現サネット)、ドゥブリス(現ドーヴァー)、そしてレマニス(現リム)であろうという」(3南川(2015)99頁)が、現在のリッチバラに橋頭堡を築いたのは確かで、他にチチェスターも有力な候補となっている(4ポター(2011)35頁)。上陸後、ローマ軍は現在のカンタベリ近辺で軍を集結させ、征服に取り掛かった。

メドウェイ河畔の戦い~カムロドゥヌム占領

迎え撃つブリトン人連合はカトゥウェッラウニ族のトゴドゥムスとカラタクスの兄弟が率い、メドウェイ河畔で両軍主力が会戦に至った。メドウェイ河畔の戦いは二日に渡って繰り広げられ、補助軍の兵たちが泳いで渡河に成功、フラウィウス・ウェスパシアヌスやグナエウス・ホシディウス・ゲタらの活躍でローマ軍の勝利に終わり、ゲタは戦功により凱旋将軍顕彰を授与された。続く、テムズ川の攻防戦ではブリトン軍がローマ軍を湿地帯に誘い込んで損害を与えたものの、ローマ軍の勝利に終わり、この戦いの後トゴドゥムスが亡くなり、ブリトン軍は追い詰められた。

テムズ川渡河後、ローマ軍はブリトン軍のゲリラ戦を受けて侵攻を一時停止し、クラウディウスに増援を求めた。報告を受けたクラウディウス帝は自ら戦象部隊を率いて親征、クラウディウス帝の到着後間もなく、カトゥウェッラウニ族の首邑カムロドゥノン(現在のコルチェスター)を陥落させた。歓呼の声で迎えられながらカムロドゥノンに入城したクラウディウス帝は、11人のブリトン人部族の王の降伏を受け入れ、カムロドゥノンをラテン語表記のカムロドゥヌムに改めて属州ブリタニアの設置を宣言、アウルス・プラウティウスを属州ブリタニア初代総督に任命して後事を託した。クラウディウス帝のブリテン島滞在はわずか16日で、ローマへ凱旋したクラウディウス帝は「ブリタンニクス(ブリタンニア人の征服者)」の称号を受け、自らの子にもブリタンニクスの名を与えた。

「カムロドゥヌムにあるローマ時代(一世紀)の門、バルケルン門の復元図」

「カムロドゥヌムにあるローマ時代(一世紀)の門、バルケルン門の復元図」
© Carole Raddato from FRANKFURT, Germany / CC BY-SA (wikimedia commonsより)

ブリテン島南東部の征服

「メイドゥン・カースル」

「メイドゥン・カースル」
Credit: Margaret Anne Clarke, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

もう一人のカトゥウェッラウニ族の指導者カラタクスが未だ抵抗を続け、ローマに服属しない部族も多く存在していたため、クラウディウス帝帰国後も征服戦争は継続された。西暦44年、カムロドゥヌムからローマ軍は三部隊に分かれてウェスパシアヌス率いる第二軍団は西へ、残りの部隊は北と北西に向かった。

西へ向かった第二軍団はドゥロトリゲス族とドブンニ族を下しイングランド南西部を征服した。ドーセット州にあるヒルフォート(丘砦)メイドゥン・カースルからはこの時の戦いの跡とみられるバリスタの矢や戦傷を負った多くの人骨が見つかっており、ローマ軍とドゥロトリゲス族の烈しい戦いがあったと考えられている。スエトニウスによればウェスパシアヌスの第二軍団は30回の戦闘を行い、有力な二つの部族を降伏させ、二十以上の集落(オッピドゥム)を陥落させ、ワイト島を占領したという(5Suetonius, The Lives of the Caesars : Vespasian 4)。遠征後、第二軍団は現在のエクセターを拠点とした。

北に向かった第九軍団はイングランド中部、現在のリンカーンまで到達し、ハンバー川以南を勢力下に治め、イングランド北部ブリガンテス族の女王カルティマンドゥアと友好関係を結んだ。北西に向かった第十四軍団はハートフォードシャーからウェールズ北部との境界にあたるシュロップシャーまで到達し、現在のロクセターに拠点を設けた。

西暦47年、イングランド南部一帯の征服を終えた総督アウルス・プラウティウスがローマへ帰還。プブリウス・オストリウス・スカプラが二代目の総督に就任した。新総督スカプラは統制強化のため属州内のブリトン人諸部族に対し武装解除を命じ、この政策が引き金となってイケニ族内での反乱が勃発し周辺部族にも波及したがローマ軍によって鎮圧された。その後、デケアングリ族、ブリガンテス族の反乱が続いたがこれらも早期にローマ軍によって撃破された。反乱を鎮め統治体制を安定させたスカプラは征服戦争の仕上げとしてウェールズ地方に逃れて反抗を続けるカラタクスの討伐を開始する。

カラタクス最後の抵抗

領土を追われたカラタクスはウェールズ地方南部のシルレス族、中央部のオルドウィケス族とともにローマ軍にゲリラ戦を仕掛け、激しく抵抗していた。49年、カムロドゥヌムの第二十軍団の要塞が放棄され、同軍団が対カラタクス戦に投入されることとなった。第二十軍団が去ったカムロドゥヌムは植民市に転換、都市インフラが整備され、属州首都として機能していくことになる。

カラタクスとローマ軍との戦いはタキトゥス「年代記」が伝えている。タキトゥスによると、ローマ軍の攻勢に対しシルレス族とオルドウィケス族はカラタクスを指導者に仰ぎ、高地の多い地形を生かしてローマ軍を苦しめた。51年頃、カラタクスはさらに多くの部族を味方につけ、自軍に有利な地形を選んでローマ軍に対し決戦を挑む。

「戦場として択んだのは、入口や逃口などすべての点で、わが軍に不利で敵に有利となるような場所である。一方の側には峨々たる山岳と、楽に接近できそうな山腹には、城壁のように石を築き上げた。前面には、深浅の変化の多い川が流れていた。武装した大軍が、堡塁に沿って配置される。」(タキトゥス/國原吉之助訳(1981)『年代記(下) ティベリウス帝からネロ帝へ』岩波書店、岩波文庫、82頁)

「玉座のクラウディウス帝に語り掛けるカラタクス」

「玉座のクラウディウス帝に語り掛けるカラタクス」(1800年頃、作者不明)
Credit:© The Trustees of the British Museum ,Museum number 1871,1209.5276, Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 4.0 International (CC BY-NC-SA 4.0) .

この戦いの場所がどこであったのかはタキトゥスの描写に当てはまるような場所が見つかっておらず、またタキトゥスの記述は正確なものかどうかも疑義があるため、諸説あり良く分かっていない。有力な説の一つにウェールズ地方ポーイス州カエルスゥス(Caersws)近郊にあるヒルフォートの遺構ケヴン・カルネッズ(Cefn Carnedd)がある。2007年の発掘調査で焼かれた跡がある西の入口付近に積まれている頁岩、痕跡や投石用とみられる石礫など、戦いの痕跡が見つかり、51年のカラタクスとローマ軍の戦いの可能性が示唆された(6Cefn Carnedd: Possible Battle Site, near Caersws,Coflein.)。

地の利を生かしてブリトン軍はローマ軍を苦しめたが、スカプラは精鋭を率いて渡河作戦を敢行、多くの死者を出しつつ石垣で出来た防壁の破壊に成功したことで、ブリトン軍は山頂まで退かざるを得なくなり、ローマ軍の総攻撃によって敗走した。この追撃戦の過程でカラタクスの妻と子は捕虜となり、カラタクスの兄弟も降伏した。カラタクス自身は戦場からの離脱に成功し、ブリガンテス族の領土へ逃げ込んだがカルティマンドゥア女王によって捕われ、ローマ軍へ引き渡された。

タキトゥス「年代記」によれば、ローマまで送られたカラタクスは一族や家来ら捕虜とともに多くの民衆が集まる中でクラウディウス帝の前に引っ立てられた。他の者たちが卑屈に助命を嘆願する中、カラタクスは「(前略)なるほどあなた方は、全世界の統治を欲している。だからと言って、全世界が隷属を甘受するだろうか。もし私が他愛なく降伏して、ここに連れてこられていたら、私の運命もあなたの光栄も、これほど有名にはならなかったろう(後略)」(7タキトゥス/國原吉之助訳(1981)85頁)と堂々と演説をしたためクラウディウス帝は感銘を受け、彼と一族に恩赦を与えたという。また、カッシウス・ディオ「ローマ史」によれば、カラタクスは元老院で演説を行い「これほど多くの富があるにもかかわらず、なぜ私たちの粗末な小屋まで欲しがるというのか」(8Dio Cassius, Roman History, Epitome of Book LXI, 33:3c、ポター(2011)43頁)と述べたという。

その後

カラタクスの敗北によって43年から始まったブリテン島侵攻は区切りを迎えた。以後50年代にウェールズの征服が進み、ボウディッカの反乱(60/61年)、アグリコラの北方遠征(79-84年)を経て属州ブリタニアは拡大、ハドリアヌスの長城(122年建設開始)で北方の国境が画定されることでブリテン島におけるローマ帝国属州の拡大は終了した。

属州成立後、ローマ帝国の支配に反対する勢力は順次駆逐されていく一方、服属するブリトン系諸部族には自治が認められた。「被護王国/被護国家(Client Kingdom)」は「帝国東方やドナウ川沿岸など国境に接した地域にしばしば設置された王国で、ローマ政府の指導に服しながらも、旧来の政治体制の継続を認められた国家である」(9南川(2015)104頁)と定義される。ブリテン島においてはアトレバテス族、イケニ族、ブリガンテス族などの部族国家が当てはまる。これらの被護王国は当代の王が亡くなると随時権力を剥奪されて属州に併合され一世紀末までに姿を消すが、この過程で起こるのがボウディッカの乱に代表される部族反乱で、これら被護王国の成立と消滅を画期として属州支配体制が確立することとなった。

「西暦43-60年のローマ軍によるブリテン島侵攻図」

「西暦43-60年のローマ軍によるブリテン島侵攻図」(Frere’s Britannia and Jones’ & Mattingly’s Atlas of Roman Britainを元に匿名のWikipediaユーザーによって作成・投稿されたもの/ CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

参考文献

脚注

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