ユリウス・カエサルのブリタニア侵攻

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紀元前55年と翌54年、二度に渡ってブリテン島へ侵攻したユリウス・カエサル率いるローマ軍と現地のブリトン人部族連合とのあいだで起きた戦争のこと。

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背景

紀元前一世紀のガリア系部族地図

紀元前一世紀のガリア系部族地図
Credit:Feitscherg, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, via Wikimedia Commons

ユリウス・カエサル胸像(ヴァチカン美術館収蔵)

ユリウス・カエサル胸像(ヴァチカン美術館収蔵、パブリックドメイン画像”Public domain, via Wikimedia Commons”)

紀元前58年、属州ガリア・キサルピナと属州ガリア・トランサルピナ(後のガリア・ナルボネンシス)のプロコンスル指揮権を獲得したユリウス・カエサルは、ケルト系のヘルウェティイ族が移住のためローマ属州を通過する許可を求めてきたことを口実として、ガリア地方へ侵攻した。

以後、前58年から前56年にかけてガリア各地を転戦して着実に支配を拡大したが、カエサルは「ガリアでのほとんどの戦争を通じ、敵の中にブリタンニア人の提供した援軍がいる」(1Julius Caesar, De Bello Gallico, 4.20/國原吉之助訳(1994)138頁)ことに気付いたため、ブリテン島への侵攻を企図するようになった。カエサルがブリテン島遠征を決断したのは紀元前56年の冬頃であっただろうとみられている(2ゴールズワーシー、エイドリアン(2012)『カエサル 下』白水社、7頁)。

大陸のガリア人とブリテン島の諸勢力が連携しているという軍事的な理由とは別に、ブリテン島侵攻作戦の背景にプロパガンダ的な目的があったと現在は考えられている。大きな要因とみられているのは当時ローマ人の間でブリテン島は天然資源が豊富な地であると思われていた点である(3ゴールズワーシー(2012)8頁)。全く事実ではないがブリテン島沿岸は真珠の産地であるとカエサルは信じていたという(4ゴールズワーシー(2012)8頁)。また、「金儲けの可能性よりも重視されたのは、ローマ軍を前人未到の国々に導いた最初の人物に常に冠せられる栄光であった」(5ゴールズワーシー(2012)8頁)。このような英雄的な名声を得ることへの魅力がカエサルに海を渡らせる最大の要因であったようである。

第一次ブリタニア侵攻(紀元前55年)

遠征準備

「ブリテン島へ向け出港準備をするヴィッサン港のローマ軍の想像イラスト」

「ブリテン島へ向け出港準備をするヴィッサン港のローマ軍の想像イラスト」(from ‘The invasion of Britain by Julius Caesar : with replies to the remarks of the Astronomer-Royal (G.B. Airy) and of the late Camden professor of ancient history at Oxford (E. Cardwell)(1862)’)

紀元前55年の夏の終わり頃、カエサルはブリテン島遠征の準備を開始した。まずは渡航経験のある商人たちを集めてブリテン島の地勢やブリトン人に関する情報を集めようとしたが上手くいかなかったため、副官ガイウス・ウォルセヌスを派遣して軍船一隻で偵察にあたらせた。ウォルセヌスは上陸を避けつつも沿岸を調査して帰還、カエサルに結果報告した。

カエサルはウォルセヌスの報告を元に遠征計画を立案、第七軍団と第十軍団の計二個軍団を遠征軍とし、輸送に十分な軍船八十隻を一箇所に集めて遠征準備にあたらせた。また、十八隻の貨物船を八マイル(12キロメートル)離れた別の港に用意させ、これも遠征軍に加えるため軍船と同じ港に集めようとしたが港に入れなかったため、こちらは騎兵隊に割り当てることとした。

先に集めさせた商人たちを通じてブリテン島にも侵攻計画が伝わりブリテン島の諸部族から使節が送られてきた。彼らを送り返す際にカエサルに忠実なベルガエ人の有力部族アトレバテス族の王コンミウスを同行させて現地の諸部族を味方につける交渉を行うよう命じた。

上陸戦

「カエサルの第一次ブリテン島侵攻で上陸時の戦闘を描いたリトグラフ」(エドワード・アーミテージの絵を模したウィリアム・リンネルのリトグラフ、19世紀)

「カエサルの第一次ブリテン島侵攻で上陸時の戦闘を描いたリトグラフ」(エドワード・アーミテージの絵を模したウィリアム・リンネルのリトグラフ、19世紀)
Credit: Edward Armitage , William Linnell.; Public Domain, Wellcome Collection, Wellcome Library no. 42647i

このように準備が整うと、航海に適した天候になった日の深夜、第三夜警時(午前零時から午前三時頃)、出航した。カエサルと第一陣の船団は第四昼間時(午前九時から午前十頃)にブリテン島に到着、後続の到着を待って第九昼間時(午後二時から午後三時頃)まで停泊し、見通しがきく海岸を選んで上陸した。

この時の上陸地点はよくわかっていないが、ローマ軍の上陸地点はドーヴァーの北、ディールかウェルマー付近とする説がある(6ゴールズワーシー(2012)22頁)。また、2017年のレスター大学による調査でケント州のエブスフリート(Ebbsfleet)から発見されたローマ時代の槍の穂先がローマ時代の上陸を示すものではないかとみられ、第一次か第二次かはわからないがウェルマーよりさらに北のペグウェル湾近辺をローマ軍の上陸地点とする説が近年は有力となっている(7Ebbsfleet, 54 BC: Searching for the launch site of Caesar’s British invasions“,Current Archaeology,2018./ “The Roman Invasions of Britain“,University of Warwick,2021.)。

現地ではすでにローマ軍の侵攻に備えて部隊を整えており、ローマ軍の上陸を阻むため騎兵隊と戦車隊を差し向けて攻撃した。上陸するため船から重装備で水中を移動するローマ兵は海岸線からの総攻撃に苦戦し、混乱状態になったが、カエサルが機転を利かせて船団を敵の守りが弱い側面に移動させて投石や弓矢・弩など投射兵器で攻撃、上陸を支援した。

なおも上陸に苦戦していたが、第十軍団の鷲旗手が「兵士らよ、この鷲旗を敵に渡したくなければ飛び降りろ。少なくともこの身は国家と将軍のために果たすべき務めをまっとうしてみせるぞ」(8Julius Caesar, De Bello Gallico, 4.25/高橋宏幸訳(2015)126頁)と叫んで船から飛び降り敵中へ前進してみせた。この叫びに鼓舞された他の兵士たちも次々と船を飛び降り、両軍が正面から激しい戦いを繰り広げたが、ブリトン軍はなおも巧みにローマ軍の上陸を防ぎ続けたため、カエサルは軍船の補助艇や偵察船などに兵士を載せて劣勢な味方の支援隊として柔軟に投入して回り、ついに上陸に成功、ブリトン軍を退却に追い込んだ。しかし味方の損害も大きく追撃戦は行えなかった。

上陸後から撤退まで

その後、ブリトン側から和平使節が送られ、あわせて彼らに捕われていたコンミウスも送り返された。カエサルはブリトン側の対応を非難して人質を要求したが、使節側は要求された人質の一部だけ送って、残りは後日引き渡すと言って履行を引き延ばした。その間に、停泊していたローマの船団が突然の嵐に遭って多数の船が大破し、帰還に十分な船を用意出来なくなってしまう。

カエサル軍を足止めしてブリテンで越冬させ、補給を絶って飢えさせようと考えたブリトン人たちは穀物の徴発を行うローマ軍部隊に戦車部隊を中心とした伏兵による奇襲攻撃を繰り返して苦しめたが、カエサルはさらなる敵の攻勢に備えて陣営の前にコンミウス指揮下の騎兵部隊30騎と軍団兵の戦列を組んで、改めて攻撃してきたブリトン人部隊と交戦、これを撃退し、さらに敗走する敵を追撃して壊滅させた。

この後、カエサルはブリトン人使節に対して前回約束の二倍の人質を要求したが、これ以上の滞在は戦線を維持できないと判断し、早急に船の修理を行わせて冬に入る前に全軍撤退した。結局、大陸へ人質を送ってきたブリトン人部族は二部族に留まり、ブリテン島への影響力を確立することはできず、第一次遠征は失敗に終わった。

第二次ブリタニア侵攻(紀元前54年)

上陸

カエサルは翌54年に入ってすぐ前年の失敗を踏まえ、「できるだけたくさんの船」(9Julius Caesar, De Bello Gallico, 5.1/國原吉之助訳(1994)154頁)の新造と古い船舶の手配を命じた。船の準備が整う間にカエサルの権威に従わない諸部族を服従させて後顧の憂いを絶ち、大陸の備えにティトゥス・ラビエヌスを指揮官に三個軍団と2000騎の騎兵を残すと、同年7月頃、五個軍団と騎兵2000騎を八百隻の船に乗り込ませて、再びブリテン島へ遠征を開始した。

カエサルは前年の遠征のときに最適と考えた上陸地点を選び船団の集結を待って接岸した。「ガリア戦記」は後に捕虜から聞いた話として、このときブリトン人もローマ軍の上陸を待ち構えていたが想定以上の兵力に脅威を感じて戦わずに撤退した、と記している。

上陸後、カエサルは船団の護衛のためクィントゥス・アトリウスを守備隊長に任じ、十個大隊と騎兵300を残して進軍を開始、12マイルほど進んだ森の中でブリトン人の大軍と遭遇して戦闘となり、退けられたブリトン軍は堅牢な要塞に籠って抵抗をしたが、第七軍団の活躍でほどなくして占領した。

翌日、逃げたブリトン軍の追撃を行うべく軍を三方に分けて探索を開始し、敵影が見えたところで守備隊長アトリウスから、前夜船団が嵐に遭い大きな損害を被ったとの報告を受けたため、追撃を中断して船団の停泊地まで退いた。約40隻を喪失し破損も多数あったため、軍団の中から工兵を選出し、同時に大陸から工兵を呼び寄せるようラビエヌスに手紙を送った。以後、十日間かけて船をすべて陸揚げし、防御を固めて修復作業に専念できる体制を整え、前回同様の数の守備部隊を置いて改めて内陸へ侵攻を開始した。

カッシウェッラウヌスとの戦い

ローマ軍の大規模な侵攻に対し、ブリトン人はカッシウェッラウヌスという人物を総指揮官として部族を超えた連合軍を形成した。カッシウェッラウヌスはテムズ川以北、海から約80マイル離れた一帯を領土とし周辺諸部族とたびたび戦っていた人物であるとガリア戦記は記している。後のクラウディウス帝のブリテン島征服時にブリトン人を糾合して抵抗したカトゥウェッラウニ族の版図に相当することから、カトゥウェッラウニ族の王であった可能性がある。

カッシウェッラウヌス率いるブリトン軍は地の利を生かして森の中に潜んで奇襲攻撃を行ったり、重装備のローマ軍に対して機動力を生かして小隊規模に散開して波状攻撃を行ったりとローマ軍は苦しめられ、カエサルの副官ラベリウスが戦死するなど多くの損害を受けた。

「この日の戦い(引用者注:ラベリウスが戦死した戦い)を通じてわかったことは、わが軍団兵は、武具が重いため、退却する敵を追い討ちできなかったし、正規の戦列からすすんで離れる勇気ももたなかったので、このような敵にたいし、まったく歯が立たないということであった。それは大抵の場合、敵が故意にすら退却し、これを追う騎兵が軍団兵と少しでも離れたと見ると、いつでも戦車から飛び降り、徒歩でわたり合い、味方に不利な戦いをさせたからである。
一方、正規の騎馬戦においても彼らの作戦は、味方の退却にも追跡にも、いつでも同じ危険をもたらした。それに加え、敵はけっして密集して戦わず、小隊ごとに広い間隔をおいて戦った。予備隊をあちこちに配置しておき、次々と交代して他人の退却を掩護し、精力の新鮮なものが疲れたものにとって代わった。」(10Julius Caesar, De Bello Gallico, 5.16/國原吉之助訳(1994)166頁

糧秣挑発中のローマ軍に対しブリトン軍が奇襲攻撃を行った際、ローマ軍は激しく反撃してブリトン軍を敗走させた。続いてカエサルはカッシウェッラウヌスの領土へ向けてテムズ川渡河作戦を敢行し対岸の敵陣を撃破した。この敗戦を受けてカッシウェッラウヌスは部族同盟軍を解散した上で戦車操縦士四千名を選出して森林に潜み、略奪しながら行軍するローマ軍に対しゲリラ戦を展開してローマ軍は苦しられた。

カッシウェッラウヌスのゲリラ戦術に対しカエサルは部隊を遠くまで引き離さず主力の行軍範囲内で周辺を荒らしながら進みカッシウェッラウヌス領を蹂躙した。さらにカッシウェッラウヌスによって父王を殺されたためカエサルに助けを求めていたトリノウァンテス族の王子マンドゥブラキウストリノウァンテス族の王に据えて臣従させ人質と糧食供出と引き換えに防衛を支援した。トリノウァンテス族が支援されているのを見た周辺の五つの部族が相次いでカエサルに従うようになった。彼らからの情報でカッシウェッラウヌスの要塞(11カトゥウェッラウニ族の重要な要塞集落であったと考えられているハートフォードシャー州ウィートハムステッド近郊の紀元前1世紀頃の土塁遺跡デヴィルズ・ダイク(Devil’s Dyke)がこの時の要塞であるとする説を1932年に考古学者モーティマー・ウィラー卿が唱えたが真偽は不明である。)の存在を知ったローマ軍はこれを攻略した。

カッシウェッラウヌスの命を受けたカンティウム(12現在のケント州一帯にあたるブリテン島南東部のこと)の四つの部族がローマ船団拠点への奇襲攻撃を敢行するが、指揮官ルゴトリクスが捕虜になるなど多数の損害を出してローマ軍に撃退された。この敗北を受けカッシウェッラウヌスはカエサル配下アトレバテス族の王コンミウスを通じてカエサルへ降伏を申し出、人質の提供や年貢の貢納、トリノウァンテス族への不可侵などが約束されて戦争は終結、カエサル以下ローマ軍は帰還した。

影響とその後

「ローマ支配以前のブリテン島南部諸部族勢力地図」

「ローマ支配以前のブリテン島南部諸部族勢力地図」
Yorkshirian , CC BY-SA 4.0 ,via Wikimedia Commons

カエサルはブリトン人への勝利だけに留め、ブリテン島にローマ軍の拠点を築いたり、さらなる征服に乗り出すことはなかったが、このカエサルの遠征を契機としてブリテン島と大陸の関係は深化することになった。カエサルによって王位に就いたマンドゥブラキウス王のトリノウァンテス族や、後にブリテン島に勢力を確立したコンミウス王のアトレバテス族などの親ローマ派部族が生まれ、ローマとの関係の強さを自らの権威として王権強化に利用し、ブリテン島のブリトン人部族国家の勢力関係が大陸の情勢とリンクして動くようになった。

交易も盛んとなりローマの文物が流入した。ガリア商人とブリテン島との交易はカエサルの侵攻以前、紀元前100年頃からあるが(13イングランド南西部ドーセット州クライストチャーチの海岸沿いのヘンギストベリー・ヘッド遺跡からは紀元前100年頃のブドウ酒などを入れるイタリア製アンフォラが見つかっている(ポター、ティモシー・ウィリアム「第一章 ブリテン島の変容――カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、22頁))、侵攻以後、このようなローマとの交流を示す遺物がブリテン島各地の遺跡から多く見つかるようになる。紀元前50年頃から前26年頃と推定されるハートフォードシャー州ウェリンの墓からはイタリア製のアンフォラや銀杯、陶製の皿など多くの輸入品が副葬品として埋葬されていた(14ポター、ティモシー・ウィリアム「第一章 ブリテン島の変容――カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、22-23頁)。

また、部族国家の王たちがローマに倣って貨幣の鋳造を始めるのもこの頃で、大陸から渡ってきたアトレバテス族コンミウス王が紀元前50年頃から25年頃にかけて発行した貨幣が最も古い例で、カトゥウェッラウニ族など周辺諸国も続いた。また火葬に付され副葬品とともに埋葬される大陸の風習と類似の葬送様式が貴顕層にみられるようになり、アトレバテス族の首邑カッレウァ・アトレバトゥム(現在のシルチェスター市)に代表されるローマ的な都市計画に基づいた市街地の整備など、ローマ文化の影響は特にイングランド南東部で顕著であった。

「カッレウァ・アトレバトゥム街路図(1911年)」

「カッレウァ・アトレバトゥム街路図(1911年)」
“Illustration from 1911 Encyclopædia Britannica.”
Public Domain, via Wikimedia Commons

The Winchester Hoard

「ウィンチェスターの秘蔵物”The Winchester Hoard”」
2000年に発見された紀元前一世紀頃の宝飾品群。コンミウス王へ贈られた宝物の可能性が指摘されている。英国政府のPortable Antiquities Scheme (PAS) 登録。
credit: Portable Antiquities Scheme, Helen Etheridge. Attribution 2.0 Generic (CC BY 2.0) https://www.flickr.com/photos/10257668@N04/1267239303/

ローマが帝政に移行してからはブリテン島の諸王と平和的な外交関係が築かれたが、ブリテン島でカトゥウェッラウニ族クノベリヌス王(在位:西暦9年頃-40年頃)が勢力を拡大して支配的な地位を築くと、圧迫された諸部族がローマに助けを求めるようになり、侵攻計画が持ち上がるようになった。カリグラ帝(在位:西暦37年-41年)は西暦40年頃、クノベリヌス王に追放された王子アドミニウスの支援依頼に基づいて遠征軍の編成を命じたが直前で中止され、その直後クーデターで暗殺された。カリグラ帝の後を継いだクラウディウス帝(在位:西暦41年-54年)が、西暦43年、三度目のブリテン島侵攻を行いブリテン島のローマ属州化を強力に進めることとなる。

クラウディウス帝のブリタニア侵攻
「クラウディウス帝のブリタニア侵攻(Claudian invasion of Britain)」は西暦43年、クラウディウス帝の命でアウルス・プラウティウス率いるローマ帝国軍がブリテン島へ侵攻、現地のブリトン人部族と交戦して服従させた戦争のこと。後にクラウディウス帝自ら親征し、ブリテン島南部をローマ帝国の属州とした。以後、属州の支配地域は拡大し、五世紀初頭(409-410年頃)にローマ帝国軍が撤退...

参考文献

脚注

  • 1
    Julius Caesar, De Bello Gallico, 4.20/國原吉之助訳(1994)138頁
  • 2
    ゴールズワーシー、エイドリアン(2012)『カエサル 下』白水社、7頁
  • 3
    ゴールズワーシー(2012)8頁
  • 4
    ゴールズワーシー(2012)8頁
  • 5
    ゴールズワーシー(2012)8頁
  • 6
    ゴールズワーシー(2012)22頁
  • 7
  • 8
    Julius Caesar, De Bello Gallico, 4.25/高橋宏幸訳(2015)126頁
  • 9
    Julius Caesar, De Bello Gallico, 5.1/國原吉之助訳(1994)154頁
  • 10
    Julius Caesar, De Bello Gallico, 5.16/國原吉之助訳(1994)166頁
  • 11
    カトゥウェッラウニ族の重要な要塞集落であったと考えられているハートフォードシャー州ウィートハムステッド近郊の紀元前1世紀頃の土塁遺跡デヴィルズ・ダイク(Devil’s Dyke)がこの時の要塞であるとする説を1932年に考古学者モーティマー・ウィラー卿が唱えたが真偽は不明である。
  • 12
    現在のケント州一帯にあたるブリテン島南東部のこと
  • 13
    イングランド南西部ドーセット州クライストチャーチの海岸沿いのヘンギストベリー・ヘッド遺跡からは紀元前100年頃のブドウ酒などを入れるイタリア製アンフォラが見つかっている(ポター、ティモシー・ウィリアム「第一章 ブリテン島の変容――カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、22頁)
  • 14
    ポター、ティモシー・ウィリアム「第一章 ブリテン島の変容――カエサルの遠征からボウディッカの反乱まで」(サルウェイ、ピーター(2011)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(1) ローマ帝国時代のブリテン島』慶應義塾大学出版会、22-23頁
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