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ウィリアム2世(イングランド王)

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ウィリアム2世(William II、1056年頃/1060年以前生-1100年8月2日没)はウィリアム赤顔王(William Rufus、ウィリアム・ルーファス)の異名でも知られる(1血色の良い赤ら顔の特徴からこの異名がつけられたと言われる(William II (Rufus).BBC – History – ))十一世紀のイングランド王(在位1087年9月26日-1100年8月2日)。イングランドを征服したノルマンディー公ギヨーム2世ことウィリアム1世の子。ウィリアム1世死後、遺言に基づきアングロ・ノルマン王国の領土は長子ロベールにノルマンディー公国が、三男ウィリアムにイングランド王国が与えられた。イングランド王位を狙う兄ロベールに勝利して事実上ノルマンディー公国を支配下に置き、スコットランド、ウェールズにも遠征して支配を拡大した。カンタベリー大司教アンセルムと争ったため聖職者から憎まれ、悪評が多く記録されたが、近年ではノルマン・コンクエスト後のイングランドを安定させ勢力を拡大した功績が評価されている。1100年8月2日、狩猟中の事故により亡くなった。

「上段左:ウィリアム1世、上段右:ウィリアム2世、下段左:ヘンリ1世、下段右:スティーヴン王のミニアチュール」(1250年代、大英図書館収蔵)

「上段左:ウィリアム1世、上段右:ウィリアム2世、下段左:ヘンリ1世、下段右:スティーヴン王のミニアチュール」(1250年代、大英図書館収蔵)
Matthew Paris.(1250-1259). Historia Anglorum, Chronica majora, Part III; Continuation of Chronica maiora.,Royal 14 C VII, .BRITISH LIBRARY.
Credit: Matthew Paris (Historia Anglorum), Public domain, via Wikimedia Commons

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イングランド王位継承戦争

「アングロ・ノルマン王国(1087年頃)」

「アングロ・ノルマン王国(1087年頃)」
Credit: Historical Atlas by William R. Shepherd, Public domain, via Wikimedia Commons

ノルマン・コンクエストによってノルマンディー公国とイングランド王国が英仏海峡を挟んで統合されたが、ウィリアム1世は遺言として長子ロバート(ロベール)・クルトゥーズにノルマンディー公国を、次子(三男)ウィリアム・ルーファスにイングランド王国を、末子ヘンリ・ボークレールに金銭を与えることとし、再びノルマンディー公国とイングランド王国は分割された。当時の一般的な分割相続であり、本領のノルマンディー公国が長子にという点でも妥当な相続である。また、父ウィリアム1世とロベールは1078年から1080年にかけて対立、1080年4月12日、親子対立の和平条約としてノルマンディー公国の相続が約束されている。

ノルマン・コンクエストの結果、貴族たちの大半はフランスとイングランド双方に領地を持つようになった(2このような英仏双方に領地を持つ貴族をクロスチャネル・バロンズ(cross-channel barons)と呼び、中世を通して英仏関係に大きな影響を及ぼした(朝治啓三,渡辺節夫,加藤玄(2012)『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、56-57頁))。彼らにとってイングランドとノルマンディーが協調的とは言い難い不仲な兄弟で分け合う体制は自らの領地の維持に不安を抱かざるを得ない。1088年4月、ウィリアム1世の異父弟でウィリアム2世にとっては叔父にあたるバイユー司教オドとモルタン伯ロベールの二人の王族を中心とした諸侯がウィリアム2世を廃位しノルマンディー公ロベール2世(ロベール・クルトゥーズ)を双方の支配者とすべきと主張して反乱を起こした。非常に大規模な反乱となったが、ウィリアム2世はこれを次々と撃破して最後はバイユー司教オド、モルタン伯ロベールらが籠もるペヴェンジー城を六週間の包囲の後占領、反乱を鎮圧して彼らのイングランドの領地を没収の上でノルマンディーに追放した。

1089年、ノルマンディー公ロベール2世はフランス王フィリップ1世に支援を求め、フィリップ1世は求めに応じて大軍を派遣したが、ウィリアム2世は財宝と引き換えにフランス軍を撤退させることに成功、1091年、ノルマンディー公国へ侵攻してロベールを降伏させ、1091年2月、平和条約が締結された。条約では、ノルマンディー公国の一部(フェカン、ウー、シェルブール)をウィリアム2世に割譲するかわりにロベール派貴族から没収したイングランド側所領を返還し、どちらかが嫡子なく死んだ場合、互いに後継者となることが約束された。

スコットランドとウェールズへの支配拡大

ウィリアム1世時代からの懸案がスコットランドとイングランドが接するノーサンブリア地方において両国の勢力圏が未確定なことであった。1091年にもスコットランド王マルカム3世が南下してダラムを包囲したため、ウィリアム2世自ら軍を率いてこれを撃退し、92年、カーライルを支配下において、翌93年にはカーライル城が築城される。このようなウィリアム2世のスコットランドへの圧力の強まりはマルカム3世に危機感を抱かせ、同年11月、マルカム3世率いるスコットランド軍は改めてイングランドへ侵攻した。11月13日、ノーサンブリア伯ロバート・デ・モーブレー率いるイングランド軍がアニックの戦いでスコットランド軍を撃破、マルカム3世を戦死させる大勝利となった。

アニックの戦いでの傷が元でマルカム3世の王太子エドワードも後に亡くなったため、スコットランドではマルカム3世の弟がドナルド3世として即位した。ウィリアム2世はイングランドに敵対的なドナルド3世を倒すため、マルカム3世の子ダンカンを支援して即位させたが(ダンカン2世)、すぐにドナルド3世がダンカン2世を倒して復権したため、同じくマルカム3世の王子エドガーを支援して王位につけ、臣従させた。事実上、スコットランド王国を従属させることに成功している。

また、ウェールズ地方に対しても軍を進めた。ウェールズ地方はウィリアム1世時代に境界地域にヘリフォード伯、チェスター伯、シュルーズベリー伯の三伯領が置かれ、個々に防衛と侵攻が一任されていたが、ウェールズ側の抵抗が強く難航していた。1093年、ウェールズ諸国を統率していたデハイバース公リース・アプ・テウドウル(Rhys ap Tewdwr)の戦死が転機となり、同年からイングランド軍による本格的な侵攻が開始される。「フランス人はブリトン人のすべての土地を奪った」(3キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、32頁)とウェールズの年代記に書かれるほどだったが、94年以降ウェールズ側の反撃もあり支配領域の確立はウィリアム1世時代から続くウェールズ南東部の確保にとどまり、1098年にはアングルシー島を占領するが、ヘブリディーズ諸島・アイリッシュ海沿岸を支配下に収めるノルウェー王マグヌス3世とイングランド軍が戦い指揮官の第二代シュルーズベリー伯ヒュー・オブ・モンゴメリーが戦死する敗北を喫した。ウェールズへの侵攻は次代のヘンリ1世に受け継がれ、1110年代以降中部・西部へと支配が拡大して成果が現れてくる。

ノルマンディー公国を支配下に

1096年、ローマ教皇ウルバヌス2世の勧説に応えてノルマンディー公ロベール2世は十字軍への参加を表明するが、遠征資金が不足しているためノルマンディー公国を担保にしてウィリアム2世から約一万マルクの資金を借り入れた。これによりウィリアム2世はロベール2世不在時のノルマンディー公国の管理権を手に入れ、ロベール2世が十字軍に参加した1096年9月以降は、事実上ウィリアム2世がノルマンディー公国を支配することとなった。

ノルマンディー公国を支配下に収めたウィリアム2世はまずフランス王国と争うヴェクサン地方へ影響力を広げるためヴェクサン地方の諸侯や教会へ贈り物を贈るなど支持を広げようと試み、1097年には重臣ロベール2世・ド・ベレーム(Robert II de Bellême、第三代シュルーズベリー伯)に命じて要衝ジゾールに城を築かせた(ジゾール城)。しかし、セーヌ川交易の活性化によりヴェクサン地方は経済的な面でパリとの繋がりが非常に強くなりヴェクサン地方の支配には至らず、ヴェクサン地方を巡るノルマンディー公国とフランス王国との対立は続いた。

フランス王国と並ぶ強力なライバルであるアンジュー伯領との境界に位置するメーヌ伯領は、1063年にノルマンディー公国の支配下に入るものの、1070年代から頻発した大規模反乱を経て1086年にアンジュー伯の支援を受けて独立を果たしていた。ウィリアム2世は貴族たちの進言によりメーヌ伯領征服の勝算があるとみて、1098年2月頃からメーヌ伯領へ侵攻を開始、同年4月、ロベール2世・ド・ベレームがメーヌ伯エリア1世・ド・ラフレーシュを捕虜とすることに成功、メーヌ軍を降伏させ、メーヌの首府ル・マン市に入城を果たし、父王以来メーヌ伯領の征服に成功する。しかし、解放されたメーヌ伯エリア1世はウィリアム2世に服従することを良しとせず、翌99年より反抗を開始、ウィリアム2世は彼らが死守するマイエ市を落とせず、メーヌ征服は一年立たず水泡に帰した。

「ジゾール城”Chateau de Gisors”」

「ジゾール城”Chateau de Gisors”」(Wikimedia Commonsより)
© Nitot [CC BY-SA 3.0]

教会との対立

1089年、父王ウィリアム1世のよき助言者であったカンタベリー大司教ランフランクが亡くなると、ウィリアム2世は後任の任命を先延ばしにして1092年まで約二年分の大司教座収入を横領した。1092年、ウィリアム2世はベック修道院長だったアンセルムをカンタベリー大司教に任命するが、アンセルムは当時の教会改革運動を厳格に推進したい立場であったため、ウィリアム2世と鋭く対立するようになる。任命直後、ウィリアム2世からノルマンディーでの出費のために提示額以上の支払いを要求されて聖職売買(シモニア)の可能性を理由に拒否したことに始まり、1093年2月25日に開かれたロッキンガム教会会議では教皇からの大司教位の叙任を求めてウィリアム2世と対立する。1097年、アンセルムはついにイングランドからローマ教皇ウルバヌス2世の下へ亡命し、ウィリアム2世は対抗措置としてカンタベリー大司教領を没収したため、教会との関係は悪化した。

アングロ・サクソン年代記」のノルマン時代の写本の一つピーターバラ写本はピーターバラ修道院で書かれたものだが、ここではウィリアム2世を厳しく批判している。

『彼は、神の教会に対して圧迫を加えた。彼の時代に、司教管区や修道院の長が死んだ時、彼はその城をすべて、金で売ったり、彼自身が保有したり、または、賃借料をとって賃貸ししたりした。なぜなら、彼は聖職世俗を問わず、あらゆる人の相続人となることを望んだからである。したがって、彼が倒れた日に、彼は、カンタベリーの大司教の職とウィンチェスターおよびソールズベリーの司教の職と十一の修道院長の職を自身に保有し、すべての賃借料を取って貸していた。』(4大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、272-273頁

ウィリアム2世時代に始まった教会と王権の対立は広くみると当時ヨーロッパ各地で展開された聖職叙任権闘争の一環で、次代のヘンリ1世によって解決をみることとなる。

死と継承

「ウィリアム2世がウォルター・ティレルの矢で胸を射られた場所だという記念碑ルーファス・ストーン」(ハンプシャー州ニューフォレスト)

「ウィリアム2世がウォルター・ティレルの矢で胸を射られた場所だという記念碑ルーファス・ストーン」(ハンプシャー州ニューフォレスト)
Credit: Avalon20, CC BY 3.0 , via Wikimedia Commons


1100年8月2日、狩猟中の事故で流れ矢に当たり亡くなった。「アングロ・サクソン年代記」には『狩りをしている間に、一人の家臣の放った矢で殺され、その後、ウィンチェスターに運ばれ、その司教管区に埋葬された』(5大沢一雄(2012)272頁)とだけあるが、死から二十五年ほどしてマームズベリーのウィリアムによって書かれた「歴代イングランド王の事績(Gesta Regun Anglorum)」(1125年)によれば、狩りに同行していたウォルター・ティレルという貴族の放った矢が誤ってウィリアム2世の胸を貫いたという。事故が起きた場所についてはハンプシャー州のニューフォレストほか複数の場所が候補地となっているが、事故が起こった後急いでウィンチェスターへ運ばれ、遺体はウィンチェスター大聖堂に葬られた。

ウィリアム2世は子供がおらず(6生涯妻帯せず子供もいなかったため、死後すぐに同性愛者だったという風聞が立ち現在まで俗説として語られているが根拠に乏しいため現在は否定されている。同時に修道院の女性たちに性的な目を向けていた等の女色家であったとも言う非難もあり、どちらもウィリアム2世にソドミーの罪を着せるための風聞とみられている(キング(2006)38頁/森護(1986)『英国王室史話』大修館書店、25頁)/Cripps,Thomas.(2012).’William II (Rufus)‘,HISTORIC UK.)、1091年のノルマンディー公ロベール2世との約束ではウィリアム2世死後ロベール2世にイングランド王位が継承されるはずだったがロベール2世は十字軍遠征中で不在である。ここで迅速な動きを見せたのが死に立ち会った末弟ヘンリ・ボークレールだった。すぐに宝物庫(treasury)を確保し貴族たちの支持を取り付けると兄王の死からわずか三日後の8月5日、ウェストミンスター寺院でイングランド王に即位する(ヘンリ1世)。この手際の良さからヘンリ1世による暗殺説も根強く語られてきたが根拠に乏しく、現在は否定されている。このあと、十字軍遠征から戻ったロベール2世と王位を巡る内乱が起こるが、1106年、タンシュブレーの戦いでヘンリ1世がロベール2世を破り、王位継承を確実なものとした。

参考文献

脚注

  • 1
    血色の良い赤ら顔の特徴からこの異名がつけられたと言われる(William II (Rufus).BBC – History – )
  • 2
    このような英仏双方に領地を持つ貴族をクロスチャネル・バロンズ(cross-channel barons)と呼び、中世を通して英仏関係に大きな影響を及ぼした(朝治啓三,渡辺節夫,加藤玄(2012)『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、56-57頁)
  • 3
    キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、32頁
  • 4
    大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、272-273頁
  • 5
    大沢一雄(2012)272頁
  • 6
    生涯妻帯せず子供もいなかったため、死後すぐに同性愛者だったという風聞が立ち現在まで俗説として語られているが根拠に乏しいため現在は否定されている。同時に修道院の女性たちに性的な目を向けていた等の女色家であったとも言う非難もあり、どちらもウィリアム2世にソドミーの罪を着せるための風聞とみられている(キング(2006)38頁/森護(1986)『英国王室史話』大修館書店、25頁)/Cripps,Thomas.(2012).’William II (Rufus)‘,HISTORIC UK.
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