スタンフォード・ブリッジの戦い(1066年)

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スタンフォード・ブリッジの戦い(Battle of Stamford Bridge)は1066年9月25日、現在のヨークシャー州イースト・ライディングにあったダヴェント川に架かるスタンフォード・ブリッジ近郊で行われた戦い。エドワード証聖王死後のイングランド王位を巡って、新イングランド王のハロルド2世に対し、ノルウェー王ハーラル3世とハロルド2世の弟トスティグ・ゴドウィンソンの連合軍が戦い、ハロルド2世率いるイングランド軍が勝利した。ヴァイキング時代の終焉を象徴する戦いとして知られる。続いて行われたヘースティングズの戦いでノルマンディー公ギヨーム2世ハロルド2世を倒しウィリアム1世としてイングランド王に即位。アングロ・サクソン人に替わってノルマン人によるイングランド支配が始まった(ノルマン・コンクエスト)。

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背景

ノルウェー王のイングランド王位請求権

スタンフォード・ブリッジの戦いはエドワード証聖王死後のイングランド王位継承権をノルウェー王ハーラル3世が主張してイングランドへ侵攻したことに端を発するが、これはイングランド王・デンマーク王・ノルウェー王を兼ねたクヌート大王死後の後継者争いに遡る。

1035年、クヌート大王が亡くなると、デンマーク王位とイングランド王位はクヌートと王妃エマの子ハーザクヌート(1英語”Harthacnut”,デンマーク語”Hardeknud”ハーデクヌーズ)が継いだが、ハーザクヌートはノルウェー王マグヌスとの戦いのためイングランドへ向かえず、異母兄弟ハロルドが摂政としてイングランドを統治した。しかし、イングランド諸侯やハロルドの母エルフギーフの後押しでハロルドがイングランド王に即位した(ハロルド1世)。また、クヌート大王の死の前年、ノルウェー王として父王と共治していたスヴェン・クヌートソンが追放されてクヌート大王の前のノルウェー王オーラヴ2世の子マグヌス1世がノルウェーに帰還して即位しており、結果、北海帝国は3つに分裂した。

1039年頃、ハーザクヌートとマグヌスの間で、もしどちらかが直接の相続人なしに亡くなった場合、もう一方が王国を継承することに同意する取り決めがなされた(2Simkin,John.(1997).The Battle of Stamford Bridge,Spartacus Educational./十三世紀の「ヘイムスクリングラ」の「マグヌス善良王のサガ」によれば「ふたりが生きている限り、兄弟のよしみを誓い、両者間で和睦をむすんだ。そしてもしも一方が子を残さずに死んだ場合は、生き残った方が他方の土地と人々を受け継ぐことにした」(スノッリ・ストゥルルソン/谷口幸男 訳(2010)『ヘイムスクリングラ−北欧王朝史(三)』プレスポート・北欧文化通信社、351頁))。1040年、ハロルド1世が亡くなったことでハーザクヌートはイングランドに渡りイングランド王として即位したが、わずか二年後の1042年に亡くなった。死に際してイングランド王位はマグヌス1世ではなく、ハーザクヌートの同母兄弟でクヌート大王の前のイングランド王エセルレッド2世の子エドワードに継承された。マグナス1世は異議を唱えたがイングランド王位を得ることは叶わず、1047年に亡くなり叔父のハーラル3世がノルウェー王となった。エドワード証聖王の死に際してハーラル3世が主張したイングランド王位請求権はこの前王マグヌス1世とハーザクヌートの約定を根拠としている。

トスティグ・ゴドウィンソンの失脚

トスティグ・ゴドウィンソンの父ウェセックス伯ゴドウィンはクヌート大王によってウェセックス伯(在位1020-53年)に抜擢された新興貴族で、ハロルド1世、ハーザクヌート、エドワード証聖王の即位を支持してキングメーカー的な存在感を発揮し権力を確立した。1053年にゴドウィンが亡くなると次男のハロルド・ゴドウィンソンが権力を受け継ぎ、兄弟たちもイングランド各地に伯として任じられ、トスティグもノーサンブリア伯としてイングランド北部の統治を任されていた。

1065年、ノーサンブリアで大規模な反乱が勃発し、反乱軍はトスティグの家臣を多数殺害した上でマーシア伯エドウィンの弟モーカーを招聘してノーサンブリア伯に推挙した。トスティグによる重税への反発であったと考えられている(3鶴島博和(2015)『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』山川出版社、80頁)。この反乱はハロルド・ゴドウィンソンによって鎮圧されるが、10月28日、エドワード証聖王が招集した会議でトスティグのノーサンブリア統治への不満が多く出され、マーシア伯エドウィンがノーサンブリア伯にモーカーの就任を強く主張、ハロルドもこれを受け入れた結果、トスティグの解任と追放が決定する。

前哨戦

ハロルド2世即位と戦争準備

1066年1月5日、エドワード証聖王が亡くなり、賢人会(ウィタン)によってハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王に推され、翌6日、ハロルド2世として即位した。エドワード証聖王の死とハロルド2世の即位はすぐに周辺諸国の知るところとなり緊迫した外交がなされた。ノルマンディー公ギヨーム2世から使者が送られハロルド即位に対する非難が伝えられる(4鶴島博和(2015)93頁)。ギヨーム・ド・ジュミエージュ「ノルマン人諸公の事績録」ほか複数のノルマンディー側史料では生前エドワード証聖王ギヨーム2世をイングランド王位の継承者とする約束をして(5鶴島博和(2015)20-22頁ハロルド・ゴドウィンソンも承諾していたと主張している(6鶴島博和(2015)46-47頁)。使者のやり取りが複数繰り返されたが交渉は決裂、ギヨームは開戦に向けて準備を開始した。ハロルド2世もノルマンディーに密偵を送って情勢を逐一報告させており、特にドーヴァー城を増強しイングランド南部に兵力を集めるなど、ノルマンディー公国との開戦に向けた準備が進められた。

1066年4月24日頃、ハレー彗星があらわれ人々は異変の前兆と語り合ったという(7大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、220頁)。その直後、フランドルに逃れていたトスティグ・ゴドウィンソンが60隻の艦隊を率いてワイト島を攻撃、サンドウィッチを占領した後、ハンバー川河口まで進出してリンゼーで住民を多数虐殺した。トスティグの軍は大半がフランドル人だったという(8鶴島博和(2015)124頁)。マーシア伯エドウィンが陸上部隊を率いてこれを撃破、トスティグは12隻ほどに減った船団で敗走し、スコットランドへ逃れた。トスティグはノルマンディー公ギヨーム2世やデンマーク王スヴェン2世エストリズセンらに接触していたがいずれも共闘を断られたとみられる。

「ヘイムスクリングラ」の「ハーラル苛烈王のサガ」によればトスティグはノルウェーを訪れハーラル3世にもイングランド侵攻の交渉を行い彼の鼓舞によってハーラルは出撃を決めたという(9スノッリ・ストゥルルソン/谷口幸男 訳(2010)『ヘイムスクリングラ−北欧王朝史(四)』プレスポート・北欧文化通信社、125-128頁)。ただし「ヘイムスクリングラ」のこの時期に関する記述は間違いが多いため慎重な取り扱いが必要である。「アングロ・サクソン年代記」ではトスティグは逃れた先のスコットランドで300隻の船団を率いてきたハーラル3世と出会い、ハーラル王に臣従したとされている(10大沢一雄(2012)221頁)。両者の合流は1066年9月初め頃のことであった。

フルフォードの戦い

早い時期から遠征に向けて準備を進めていたノルマンディー公だが、部隊編成や船団の準備、大規模な軍勢の渡航に適した海流のタイミングの見極めなど、準備に手間取り遠征の実施が大幅に遅れていた。なかなか攻めてこないノルマンディー軍に対する長期の臨戦態勢を兵糧の不足で維持出来なくなり、1066年9月8日、ハロルド2世は一旦軍を解散する。このようなイングランド側が手薄になったタイミングで北から動いたのがハーラル=トスティグ連合軍だった。

ハーラル=トスティグ連合軍はウーズ川から船でさかのぼって9月中旬、ヨーク近辺へ上陸した。彼らを迎え撃つことになったのがマーシア伯エドウィンとノーサンブリア伯モーカーである。二人は軍勢を急ぎ招集して、9月20日、ヨークの南フルフォード村で両軍が交戦した。両軍多くの死者を出したが連合軍が勝利を収め、イングランド軍は敗走した。9月24日、ヨーク市に入ったハーラル3世とトスティグは同市から人質と食糧を提供させた上で、ヨーク市民を自軍に編成してイングランド征服に従事させる旨の講和条約を結び、早々とヨークを出て南下を開始、人質が集められると約束された地スタンフォード・ブリッジへと進んでいった。

「ノルマン・コンクエスト1066年の地図」
Credit:Amitchell125 at English Wikipedia, CC BY 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/3.0>, via Wikimedia Commons

ノルマン・コンクエスト1066年の地図」
Credit:Amitchell125 at English Wikipedia, CC BY 3.0 , via Wikimedia Commons

スタンフォード・ブリッジの戦い

「スタンフォード・ブリッジの戦い」(ピーター・ニコラ・アルボ作、1870年、北ノルウェー美術館収蔵)

「スタンフォード・ブリッジの戦い」(ピーター・ニコラ・アルボ作、1870年、北ノルウェー美術館収蔵)
Peter Nicolai Arbo: The Battle of Stamford Bridge. 1870. Nordnorsk Kunstmuseum.
Credit:Peter Nicolai Arbo, Public domain, via Wikimedia Commons


ハロルドがいつノルウェー軍の侵攻を知ったかは不明だが、ハーラル=トスティグ連合軍がヨークを出た9月24日にはヨークの南16キロメートル付近のタドカスターに到着しており、ロンドンにいたはずのハロルドは約3000名のハスカールと呼ばれる直属部隊を中核として集められる限り募兵した軍を、当時の陸路でおよそ300キロメートル以上離れたヨークまで非常に短期間に移動させた。一日に40キロメートル前後で移動したとみられ、移動手段については様々な説が唱えられているが、馬を乗り継いでの昼夜を問わぬ強行軍であったとするのが定説となっている。一方、船による移動の可能性を唱える説もある。

「ハロルドは陸を進軍したというのが定説というか常識となっている。しかし、船を降りたときにノルウェー王やトスティグのヨークへの進軍を知った彼が、そのまま船に戻らず陸路を北上するだろうか。陸路で昼夜を分かたずに進むにはヨークは遠すぎないだろうか。タドカスターはウーズ川に面し、ローマの駐屯地があった場所である。C版(11アングロ・サクソン年代記』の複数ある写本の稿本の一つ”The Abindon Chronicle“。大英博物館収蔵。ウェセックス北東部Abindonで書かれたあと十一世紀にカンタベリーに移されて1066年まで書き継がれた。)は、lið fylcadeと書いている。liðは本来船団を意味する言葉で、編者のスウォントンは、liðがfylcade(軍勢)と同意語的に使用されたときは、その軍勢は船で運ばれたと考えるべきだとしている。」(12鶴島博和(2015)124-125頁)

1066年9月25日、人質引き渡しの場所であるダヴェント川に架かるスタンフォード橋の付近で逗留していたハーラル=トスティグ連合軍を、ハロルド2世率いるイングランド軍が急襲する。ノルウェー軍はイングランド軍が迫っているとは全く思っていなかったが、「アングロ・サクソン年代記」によれば、イングランド軍も同様に最初彼らがノルウェー軍とは思わなかったらしい(13「イングランド王ハロルドは、それとは知らずに、橋を越えて彼らと遭遇した」(大沢一雄(2012)221頁))。遭遇戦で始まったスタンフォード・ブリッジの戦いは終日かかったがノルウェー王ハーラル3世とトスティグ・ゴドウィンソンの両指揮官が戦死し、300隻を数えたノルウェー軍はわずか24隻にまで減らされてハーラル3世の王子オーラヴ指揮下でノルウェーへ撤退、機動力に優れたイングランド軍の圧勝で終わった。

戦後

この戦い以降西ヨーロッパ地域に対するヴァイキングの大規模な侵攻は沈静化したこと、スカンディナヴィア勢力によるブリテン諸島支配という北海帝国再現の夢が潰えた戦いであることなどの点でスタンフォード・ブリッジの戦いをもってヴァイキング時代の終焉とすることが多い。なお、ヴァイキングの侵攻が全て無くなったわけではなく、小規模な侵攻はたびたび起こっており、またスコットランド北部は引き続きヴァイキング勢力の支配下にあり、ヘブリディーズ諸島とマン島は1266年にスコットランドへ譲渡されるまでノルウェー王領となっていた。この戦いを区切りとしない場合でも、この戦いに前後する時期に西ヨーロッパ各地に広がったヴァイキングたちの大半が現地化し、北欧諸国のキリスト教化も完了した十一世紀末をヴァイキング時代の終期とすることが多いため、いずれにしてもヴァイキング時代の終わりを象徴する戦いとなっている。

スタンフォード・ブリッジの戦いが終わった直後の1066年9月28または29日、ノルマンディー公ギヨーム2世率いるノルマンディー公国軍がペヴェンジーに上陸、間を置かずにハロルド2世にもノルマンディー軍上陸の報が届けられた。10月14日、ハロルド2世率いるイングランド軍とギヨーム2世率いるノルマンディー軍の間で行われたヘースティングズの戦いハロルド2世が戦死し、勝利したノルマンディー公ギヨーム2世は、12月25日、イングランド王ウィリアム1世として戴冠した。ノルマン朝あるいはアングロ・ノルマン王国と呼ばれる体制が誕生し、アングロ・サクソン人に替わってノルマン人が支配層となる大きな社会変革の時代を迎えることになる。

参考文献

脚注

  • 1
    英語”Harthacnut”,デンマーク語”Hardeknud”ハーデクヌーズ
  • 2
    Simkin,John.(1997).The Battle of Stamford Bridge,Spartacus Educational./十三世紀の「ヘイムスクリングラ」の「マグヌス善良王のサガ」によれば「ふたりが生きている限り、兄弟のよしみを誓い、両者間で和睦をむすんだ。そしてもしも一方が子を残さずに死んだ場合は、生き残った方が他方の土地と人々を受け継ぐことにした」(スノッリ・ストゥルルソン/谷口幸男 訳(2010)『ヘイムスクリングラ−北欧王朝史(三)』プレスポート・北欧文化通信社、351頁)
  • 3
  • 4
    鶴島博和(2015)93頁
  • 5
    鶴島博和(2015)20-22頁
  • 6
    鶴島博和(2015)46-47頁
  • 7
    大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、220頁
  • 8
    鶴島博和(2015)124頁
  • 9
    スノッリ・ストゥルルソン/谷口幸男 訳(2010)『ヘイムスクリングラ−北欧王朝史(四)』プレスポート・北欧文化通信社、125-128頁
  • 10
    大沢一雄(2012)221頁
  • 11
    アングロ・サクソン年代記』の複数ある写本の稿本の一つ”The Abindon Chronicle“。大英博物館収蔵。ウェセックス北東部Abindonで書かれたあと十一世紀にカンタベリーに移されて1066年まで書き継がれた。
  • 12
    鶴島博和(2015)124-125頁
  • 13
    「イングランド王ハロルドは、それとは知らずに、橋を越えて彼らと遭遇した」(大沢一雄(2012)221頁)