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ヘディンガム城

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ヘディンガム城(Hedingham Castle)はイングランド・エセックス州キャッスルヘディンガム村にあるノルマン式天守塔(キープ)を持つ中世城塞。オックスフォード伯位を世襲した名門ド・ヴィア家の居城として知られた。ヨーロッパ随一のノルマン式アーチを持つ大ホールが有名。

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築城

「ヘディンガム城天守塔」

「ヘディンガム城天守塔」
© Simondaw / CC BY-SA

「ヘディンガム城天守塔間取り図」(パブリックドメイン画像”J. Alfred Gotch, The Growth of the English House, London : B. T. Batsford, 1909, p. 9″)

「ヘディンガム城天守塔間取り図」(パブリックドメイン画像”J. Alfred Gotch, The Growth of the English House, London : B. T. Batsford, 1909, p. 9″)

ヘディンガム城を築いたド・ヴィア家は、ノルマン・コンクエスト後、ノルマン貴族オーブリー・ド・ヴィア1世(Aubrey de Vere I,1112年頃没)がイングランド王ウィリアム1世にヘディンガム城がある一帯を所領として下賜されたことに始まる名門である。「ドゥームズデイ・ブック」(1086年)には(キャッスル)ヘディンガムを始めエセックス州を中心として多くの所領の記録がある(1Aubrey de Vere | Domesday Book)。

ヘディンガム城の築城は十一世紀から十二世紀初頭のことで、1140年頃、現存する石造の天守塔(キープ)が築城された。1141年にオックスフォード伯に叙されたオーブリー3世(2初代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィア(Aubrey de Vere, 1st Earl of Oxford,1115頃~1194年))の叙爵を記念しての築城とも言われる(3スティーヴンソン、チャールズ(2012)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』柊風舎70頁、フィリップス、チャールズ(2014)『イギリスの城郭・宮殿・邸宅歴史図鑑』原書房62頁)。ロチェスター城との類似から、同じくカンタベリー大司教ウィリアム・デ・コルベイルが設計したものとみられている(4Essex County Council. “SMR Number:25226 Hedingham Castle:Early C12 castle keep“. Unlocking Essex’s Past.[accessed 21 July 2020](Archive))。

キープは地上21メートルのモット(人口の小山)の上に建てられ、東西16メートル×南北18メートルの方形で、本体は四層構造で胸壁の厚さは最大で約3.5メートル、高さ33メートルに及び、ロチェスター城に次ぐ高さである。イングランド東南部の城は多くの場合、ケント産の石灰岩(ケンティッシュ・ラグストーン)が使われることが多いが、この城の場合、ノーサンプトンシャー州スタンフォード近郊のバーナック採石場から運ばれたバーナック石が使われていることが特徴である(5スティーヴンソン(2012)70頁)。

建設当初、天守塔には寝室やキッチンなどが存在していなかったため宿泊機能を持っておらず、権威を示す象徴的な役割や、大ホールでの応接など儀礼的な目的で建てられたと見られている(6Hedingham Castle, Castle Hedingham – 1002218“,Historic England.)。天守塔を二重のベイリーが囲むモット・アンド・ベイリー様式の城で、天守塔の付属施設としてベイリー内にキッチンや宿舎、礼拝堂などが設けられた。天守塔の三階部分にあたる大ホールは直径8.5メートルのノルマン様式としてはヨーロッパ最大のアーチがかかっている(7スティーヴンソン(2012)71頁によれば「ヨーロッパ最大」、フィリップス(2014)62頁は「最大級」と若干のニュアンスの違いがあるが、ここでは前者を出典としてこのように表現している。)。また、ホールの一段高い位置に楽隊席が設置(8フィリップス(2014)62頁)され、儀礼用ホールとして非常に高い完成度を誇る。同ホールは現在、結婚式場としても利用されている。

Hedingham Castle
「ヘディンガム城内の大ホール」© Matt Mallett,CC BY-NC-ND 2.0,flickr.

中世のヘディンガム城

初代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアは内戦(無政府時代”The Anarchy”,1135~1153年)下でスティーヴン王の重臣として遇され、スティーヴン王の王妃マティルダはヘディンガム城で亡くなっている。プランタジネット朝時代もヘンリ2世、リチャード1世に仕えて厚遇された。続く第二代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィア(オーブリー4世、1164頃~1214年)もジョン王の忠実な家臣として内政・外交で活躍したが、兄の後を継いだ第三代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィア(1173頃~1221年)はジョン王と対立し、マグナ・カルタへの署名を迫る25諸侯の一人に名を連ね、内戦「第一次バロン戦争(1215~1217年)」でもジョン王に叛旗を翻した。

第一次バロン戦争(1215~17年)はマグナ・カルタの履行を巡る王家と諸侯との対立で始まり、反乱諸侯がフランス王太子ルイ(後のルイ8世)を新イングランド王に擁立しようとすることで内戦となった。ジョン王はウィンザー城を拠点として反乱諸侯の鎮圧に乗り出す一方、1216年5月、諸侯の招きに応じて王太子ルイが率いるフランス軍がイングランドへ侵攻してロンドンを占領して一進一退の攻防となった。ロチェスター城コルチェスター城を攻略したジョン王は1216年3月、ロバート伯が籠るヘディンガム城を包囲し、わずか三日で陥落させた。

降伏したロバート伯はジョン王への忠誠を約束したが、1216年6月、王太子ルイがイングランドへ上陸してイングランドの大半を支配すると旗幟を変えルイへ従った。その後1216年10月19日、ジョン王が亡くなりウィリアム・マーシャルらが新たに遺児ヘンリ3世を擁立してルイ派が劣勢となると、さらに掌をかえしてヘンリ3世へ忠誠を誓い、フランス軍の撤退により乱が終結したあともオックスフォード伯位の保持に成功した。

その後ヘディンガム城についての記録は十五世紀末まで見られなくなる。オックスフォード伯位は引き続きド・ヴィア家の世襲で存続し、中世イングランドを代表する名門として存在感を発揮している。1462年、薔薇戦争の渦中でランカスター派に属した第十二代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアがヨーク朝の成立とともにエドワード4世によって処刑され、後を継いだ第十三代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアは1471年のバーネットの戦いで敗れヘディンガム城を含め所領を没収された(9Hedingham Castle“.Castles, Forts and Battles.)。ボズワースの戦い(1485年)でヘンリ7世に従って戦い、テューダー朝成立後、その功績でヘディンガム城を返還されている。1496年、彼によってヘディンガム城の大規模な再建が進められた。このときレンガ造りの塔やゲートハウスなどが築かれている(10Hedingham Castle, Castle Hedingham – 1002218“,Historic England.)。

近世のヘディンガム城

1562年、エリザベス1世がヘディンガム城を訪れた後、当時の第十六代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアは天守塔を除くヘディンガム城の施設の破壊を命じた。このときの理由や前後関係は不明だが、彼の子である第十七代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアは「伯爵の命令により天守塔を除くほとんどの建物を焼き払い、城の丘は荒廃した」( 11“Edward was recorded having “committed great waste upon the castle hill, and, by warrant from him, most of the buildings, except the Keep, were razed to the ground”(”Hedingham Castle“.Castles, Forts and Battles.))と書き残している。そのエドワード・ド・ヴィアはウィリアム・シェイクスピアとの関係も深い当代随一の文人として知られた。

1625年、第十八代オックスフォード伯ヘンリ・ド・ヴィアがネーデルラント独立戦争に参戦してハーグで熱病死するとド・ヴィア家は直系子孫が絶え、オックスフォード伯位はオランダ在住のド・ヴィア家傍流が継承するものの(1703年断絶)、ヘディンガム城はエドワード・ド・ヴィアの妻の実家であるトレンサム家の管理下となり、1666年には第二次英蘭戦争のオランダ人捕虜を収容する刑務所として使われた。

現代まで

「ヘディンガム城(1769年)」(パブリックドメイン画像)

「ヘディンガム城(1769年)」(パブリックドメイン画像)

1713年、ロンドン市長ウィリアム・アシュハースト卿(Sir William Ashhurst)がヘディンガム城を購入、1720年に彼が亡くなると、ナントの王令廃止後フランスから亡命してきたユグノーの一族で聖職者・政治家を多く輩出するマジェンディ(Majendie)家(12Estate and Family records: Majendie family of Castle Hedingham“. Seax – Essex Archives Online.[accessed 21 July 2020](Archive))の所有となり、以後250年、1981年までマジェンディ家の管理下に置かれた後、現在は個人所有となり、主に結婚式場やイベント・コミュニティスペースとして利用されている。

参考文献

脚注

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