聖女マルタ伝説

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マルタ(Martha)は新約聖書に登場し、イエスの友人ラザロとマリアの姉妹で、エルサレム近郊の町ベタニアに住むことからベタニアのマルタと呼ばれる。アラム語でマルタ” מַרְתָּא Martâ”(1綴りはWikipedia contributors, ‘Martha’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 7 January 2020, 20:05 UTC), https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Martha&oldid=934664853 [accessed 11 February 2020]参照)は「婦人」「女主人」を意味する(2ブラウンリッグ、ロナルド(1995)『新約聖書人名事典』東洋書林330頁/また、Wikipedia contributors, ‘Martha’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 7 January 2020, 20:05 UTC), https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Martha&oldid=934664853 [accessed 11 February 2020]も参照。)。後にキリスト教の守護聖人として各地で信仰を集める。祝日は東方教会6月4日、西方教会7月29日。

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新約聖書のマルタ

Henryk Siemiradzki「マルタとマリアの家のキリスト」(1886)

Henryk Siemiradzki「マルタとマリアの家のキリスト」(1886)
パブリックドメイン画像(wikimedia commonsより)

新約聖書「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」に登場する。以下新共同訳聖書より引用およびまとめ。

「ルカによる福音書」のマルタ

イエス一行はエルサレムへ向かう途上、親しくしていたマルタとマリアの姉妹の家に立ち寄り、彼女たちから歓待を受ける。

『一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」』(「ルカによる福音書」10:38-42)

「ヨハネによる福音書」のマルタ

続いて「ヨハネによる福音書」ではイエスの友人でマルタの兄弟ラザロの死と復活のエピソードに登場する。

マルタとマリアの姉妹は兄弟のラザロが病気となったためイエスに使いをやり「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えた。これに対してイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言った後、さらに二日間出発せず、ようやく「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、彼を起こしに行く」と言ったため、弟子たちがラザロは眠っていると勘違いすると「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ彼のところへ行こう」と言って出発した。(「ヨハネによる福音書」11:1-16)

ベタニアへ到着するとすでにラザロが死んで四日が経ち、埋葬も済んでいた。イエスが到着した時、ラザロ家には多くの人々が弔問に訪れており、イエスの到着を聞くとマリアは家の中に座っていたが、マルタが迎えに出てイエスと言葉を交わしている。

『「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神がかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ。あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」』(「ヨハネによる福音書」11:17-27)

このあと、マルタは家に戻ってマリアに「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちし、マリアは来客たちとともに家を出て、イエス一行とラザロの墓に向かった。イエスの命でラザロの墓を開こうとするとき、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と率直に語っている(「ヨハネによる福音書」11:39)。その後、イエスが神に願うと死んでいたはずのラザロが復活し、多くの人々がイエスの奇跡を目撃することになった。

その後、過越祭(四月半ばに行われるユダヤ教の祭り)の六日前に再びイエスはベタニアに現れラザロ家で歓待を受けた。このとき、マルタは給仕をして働き、マリアはイエスの足元に坐してイエスの足に高価な香油を塗った。(「ヨハネによる福音書」12:1-3)

聖書における活動的な女性の象徴としてのマルタ

聖書で描かれるマルタは強い信仰心は勿論だが、イエスに対しても物怖じせず「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」など率直な発言をし、またイエスが来るやすぐに迎えに出たり、「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」の両方で宴の準備や給仕を行ったりと、率先して働く行動的な女性であることが描かれている。

これらのエピソードから、マルタとマリアの姉妹は『行動的な生活と瞑想的な生活という2つの徳を象徴』(3デイ、マルコム(2006)『図説 キリスト教聖人文化事典』原書房14頁)し、『なにかのために身を捧げた人々の多くは、自分たちのお手本としてマルタに軍配を上げてきた』(4デイ(2006)14頁)とされる。率先して家事を切り盛りする家庭的な女性、あるいは行動的な働く女性の理想像となった。

その後マルタがどうなったか聖書では描かれないが、『東方教会の伝承によれば、ラザロとその姉妹たちは底に穴の開いた船に乗せられて地中海に流されたが、キプロス島に着き、そこでラザロはキティムの主教になった。』(5ブラウンリッグ(1995)385頁)と伝えられた。一方、西欧ではラザロがマルセイユの司教となったり、姉妹がプロヴァンス地方に流れ着き南フランスでのキリスト教布教に活躍したりする伝承が生まれた。また、妹ベタニアのマリアとマグダラのマリアが混同されて伝承が語られ、多くのキリスト教美術にも影響を与えた。

「黄金伝説」のマルタ

聖女マルタの悪竜タラスク退治

「タラスクを従わせる聖女マルタ」1500年頃ヘンリ8世の時祷書 “Saint Martha Taming the Tarasque, from Hours of Henry VIII, France, Tours, ca. 1500. The Morgan Library & Museum, MS H.8, fol. 191v”

「タラスクを従わせる聖女マルタ」1500年頃ヘンリ8世の時祷書 “Saint Martha Taming the Tarasque, from Hours of Henry VIII, France, Tours, ca. 1500. The Morgan Library & Museum, MS H.8, fol. 191v”
パブリックドメイン画像(wikimedia commonsより)

中世、南フランスを中心としてマルタがプロヴァンス地方に流れ着きキリスト教の布教を行ったという伝承が語られるようになり、十三世紀、ヤコブス・デ・ウォラギネ「黄金伝説」にまとめられた。特に悪竜タラスク退治のエピソードが非常によく知られている。

「黄金伝説」によれば、マルタはシリアの沿海州一帯を領有する王家の出で、父はシュロス、母はエウカリアといい、両親からマグダラ、ベタニアとエルサレムの一部を相続していたが、騙されて弟ラザロ、妹マリアと師の聖マクシミヌス(6四世紀フランスの聖職者。トーリア司教。346年頃没)らとともに船に乗せられて現在のマルセイユに漂着してしまったため、プロヴァンス地方一帯にキリスト教の布教を行っていた。

『そのころ、アルルとアヴィニョンの中間あたりの、ログヌス川(ローヌ川)のむこうにある森のなかに半獣半魚の竜が棲んでいた。胴体は、牛よりも太く、馬よりも長く、歯は、剣のようで、先が角のようにとがっていた。全身がかたい鱗でおおわれていた。水中にひそみ、通りかかった人びとを食い殺し、船を沈めた。この竜は、もともと小アジアのガラテア地方から海を渡ってこの地に上陸したのであって、海に棲む狂暴なレウィアタンがガラテア海の獣オナクスと交わって生んだものである。追われて逃げるときは、まるで投石機のようにあたり一面、遠くまで汚物をまきとばし、それをかけられた者は、炎をあげて燃え上がる。聖マルタは、人びとにたのまれて、この竜の退治に出かけることになった。森へ入っていくと、おりしも竜がひとりの人間を食らっているところに出くわした。彼女は、すぐさま竜に聖水をふりかけ、十字架を突きつけた。すると、竜はたちまち降参し、小羊のようにおとなしくなった。彼女は腰帯で竜をしばった。やがて、ほかの人びとも到着し、石と槍で竜を打ち殺した。』(7ウォラギネ、ヤコブス・デ.(2006)『黄金伝説3』平凡社、平凡社ライブラリー51頁

この怪物はタラスクと言う名で、この聖マルタのタラスク退治のエピソードにちなんで、この町はタラスコンと呼ばれるようになった。タラスコンと呼ばれる以前は黒々と繁った森にちなんで黒い場所を意味するネルルク”Nerluc”と呼ばれていたという。聖女マルタは以後タラスコンに住んだとされタラスコン市の守護聖人となっている。タラスコン市は現在のプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュ=デュ=ローヌ県アルル郡にある都市でタラスコン城や聖マルタ教会など聖女マルタゆかりの様々な伝承が残る。

タラスコン城公式サイトによれば、「” La tarasque-crocodile, dragon des eaux, symbolise ce fleuve, dangereux et indomptable.”(水竜タラスク=ワニは、危険で不屈の川を象徴している)」(8”Tarascon et le Rhône, entre histoire et légende” (タラスコン城公式サイト)(2020年2月11日閲覧))とのことで、日本でも馴染み深い怪物化した「暴れ川」伝承と見られている。

また、フィリップ・ヴァルテールによれば怪物タラスクはケルト神話を含む『インド=ヨーロッパ神話に特徴的な、混成的な怪物の仲間』(9ヴァルテール、フィリップ(2007)『中世の祝祭―伝説・神話・起源』原書房220頁)で、聖女マルタの祝日(7月29日)が夏の土用の祭りと重なることから異教の古い民間伝承とキリスト教伝承が混淆しつつ、異教信仰に対するキリスト教の勝利を示したものと見られている。

『マルタは、破壊のかぎりをつくしていた怪物タラスクを殲滅することにより、混沌としていたこの地方全体を文明化した。マルタはキリスト教の神の掟によって、異教の掟を退けたのである。』(10ヴァルテール(2007)219頁

プロヴァンス地方におけるキリスト教の布教とマルタとマリア姉妹は深く結びつけられて伝承が形成されている。中世の西方教会でマルタの妹ベタニアのマリアはマグダラのマリアと同一視されるようになるが、岡田によれば二人を同一人物としたのは教皇グレゴリウス1世(大グレゴリウス、在位590~604年)であるという(11岡田温司(2005)『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』中央公論新社、中公新書25頁)。その上で、新たにマルタの妹とされ一緒に流れ着いたマグダラのマリアは、聖母マリアの妹マリア・ヤコベ、十二使徒のヤコブとヨハネの母マリア・サロメと召使のサラともにプロヴァンス地方に漂着してキリスト教の布教を行ったとされる。この三人のマリアはケルト神話の三女神や民間伝承の三妖精などと同一視され、また召使のサラは黒人(サラセン人)として南フランスに広がる「黒いマリア」崇拝に大きな影響があった(12ヴァルテール(2007)227-234頁)。

マルタとマリアの姉妹は南フランスにおいてキリスト教とケルト神話、妖精信仰、自然崇拝とをつなぐ役割を与えられて伝承が形作られている。

「黄金伝説」におけるマルタの奇跡と死

タラスクを退治した後、タラスコンに定住したマルタは、禁欲的な信仰生活を送りつつ積極的な布教を行い自身の説教を聞きに来る途中で事故死した青年を、イエスのやり方を真似て復活させるなどした。

マルタはイエスから死の一年前に自身の死期を教えられ、その直後重い熱病に罹り一年間臥せった後、妹マリアが天使たちに連れられて天国に昇っていく夢を見て、自身の死期が近いことを悟り、一週間後、妹マリアが現れて互いの名前を呼び合ったとき、イエスが現れてマルタを天国に迎えることを告げる。マルタは修道士たちに「ルカによる福音書」を読むよう命じ、『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。』(ルカによる福音書23:46)のところで亡くなった、という。

その後様々な奇跡が起こり、ペリグーの聖フロン(13フランスの伝説の聖職者。ペリグー司教)はお告げを受けて夢の中でイエスと一緒にタラスコンを訪れマルタの埋葬を執り行ったが、途中で激しく起こされたため、指輪と手袋を忘れてしまい、使いをやってタラスコンに取りに行かせたが、指輪と片方の手袋しか見つからなかったという。また、フランク王クローヴィス(14フランク王国初代国王。466年頃生~511年没)は腎臓病を患っていたが、マルタの墓での奇跡の噂を聞いて墓を訪れると病気が快癒したため、タラスコンに多額の寄付をし、ローヌ沿岸地域の免税を決めた(15以上ウォラギネ(2006)50-56頁参照。/なお、実際にはクローヴィス王時代のプロヴァンス地方は彼の支配下にはない。)。

その後の聖女マルタ信仰

タラスコンの聖マルタ教会は1197年に創建され、聖マルタの墓とされる地下の聖域を持ち、マルタの聖遺物である胸像が安置されている。その後、フランスの歴代の王・王族やローマ教皇を始め、キリスト教の巡礼地として繁栄した。タラスコン市では十五世紀から現在まで毎年タラスクの祭りが開催されている。

「タラスコンの聖マルタ教会」

「タラスコンの聖マルタ教会」
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『聖マルタ教会の聖遺物「聖マルタ胸像(十五世紀)」の十九世紀に作られたレプリカ』

『聖マルタ教会の聖遺物「聖マルタ胸像(十五世紀)」の十九世紀に作られたレプリカ』
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美術面でも数多くモティーフとされ、絵画ではカラヴァッジョ「マルタとマグダラのマリア”Marta e Maria Maddalena”」(1598)ティントレット「マルタとマリアの家のキリスト”Christ in the House of Martha and Mary”」(1570~75頃)同フェルメール(1654~56頃)同ベラスケス(1618)などが名高い。

カラヴァッジョ「マルタとマグダラのマリア”Marta e Maria Maddalena”」(1598)

カラヴァッジョ「マルタとマグダラのマリア”Marta e Maria Maddalena”」(1598)
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ベラスケス「マリアとマルタ” Cristo en casa de Marta y María”」(1618)

ベラスケス「マリアとマルタ” Cristo en casa de Marta y María”」(1618)
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ティントレット「マルタとマリアの家のキリスト”Christ in the House of Martha and Mary”」(1570~75頃)

ティントレット「マルタとマリアの家のキリスト”Christ in the House of Martha and Mary”」(1570~75頃)
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フェルメール「マルタとマリアの家のキリスト”Christ in the House of Martha and Mary”」(1654~56頃)

フェルメール「マルタとマリアの家のキリスト”Christ in the House of Martha and Mary”」(1654~56頃)
パブリックドメイン画像(wikimedia commonsより)

また、異教とキリスト教とをつなぐ役割の強さからか、マルタはスペインのムーア人への布教伝承や、フィリピンのマニラでの布教伝承にも登場する。パテロスの聖マルタ” Santa Marta de Pateros”伝承にはタラスクを倒したあと、現在のマニラ首都圏パテロスを訪れたマルタが現地の特産品であるアヒルを食い荒らしていた巨大ワニを退治したというものがあるという(16Wikipedia contributors, ‘Santa Marta de Pateros’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 21 January 2020, 03:29 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Santa_Marta_de_Pateros&oldid=936808445 [accessed 11 February 2020])。

参考文献

脚注