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アッシュダウンの戦い(871年)

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アッシュダウンの戦い(Battle of Ashdown)は、871年1月8日、ウェセックス王エゼルレッドと弟アルフレッドが率いるウェセックス王国軍が、「大軍勢(または大異教徒軍)」の名で知られたヴァイキング連合軍に勝利した戦い。

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前段階

八世紀末から始まるヴァイキングの活動は九世紀半ばから本格化した。850年代までは個々の集団がブリテン諸島から大陸沿岸にかけて襲撃や略奪を行っていたが、865年、ヴァイキング勢力はグスルム、バッグセッジ、骨なしイーヴァル、ハーフダン・ラグナルソンら複数のデーン人指導者からなる連合を組み、一つの大規模な集団、通称「大軍勢1“The Great Army”古英語”micel here”/または大異教徒軍”The Great Heathen Army”古英語”mycel hæþen here”)」として活動を開始する。867年、彼らはノーサンブリア王国の首都ヨークを陥落させて同国の南部を占領して事実上ノーサンブリア王国を崩壊させ、869年あるいは870年、最後の王となったエドマンド殉教王を殺害してイースト・アングリア王国を滅ぼすなどイングランド各地に戦火が広がっていた。

イースト・アングリア王国を制圧した「大軍勢」は、バッグセッジとハーフダン・ラグナルソンの二人の首領に率いられて871年初頭ウェセックス王国への侵攻を開始する。テムズ川南部バークシャーのエアルドールマンであるエゼルウルフがテムズ川沿いに堡塁を築いて迎え撃ち、エングルフィールドと呼ばれる地で激戦となり撃退した。四日後、エゼルレッド王と弟アルフレッド率いるウェセックス軍本隊が到着し、敵が籠もるレディングの城塞を攻撃するが、エゼルウルフが戦死するなど大きな損害を受けて撤退を余儀なくされた。態勢を立て直したウェセックス軍は四日後の871年1月8日、アッシュダウンと呼ばれる地に集結する「大軍勢」に戦いを挑む。

戦闘

「アッシュダウンの戦い」(Hughes, T (1859). Scouring the White Horse; Or, the Long Vacation Ramble of a London Clerk.)
Credit: Richard Doyle (died 1883), Public domain, via Wikimedia Commons

「アッシュダウンの戦い」(Hughes, T (1859). Scouring the White Horse; Or, the Long Vacation Ramble of a London Clerk.)
Credit: Richard Doyle (died 1883), Public domain, via Wikimedia Commons


アルフレッド大王に仕えた司教アッサーが著した「アルフレッド王の生涯」によれば「とねりこの丘(Hill of the Ash)」を意味するアッシュダウン(Ashdune)という場所で戦いが行われたという。アッシュダウンがどこであったかは諸説ある。「アルフレッド王の生涯」の校本を出版した十八世紀の歴史家フランシス・ワイズ(Francis Wise,1695-1767)はオックスフォードシャー州アシュベリーにあるアッシュダウン・パークからアフィントン・カースルにかけての一帯だと推測、丘陵地に浮かぶ「アフィントンの白馬(Uffington White Horse)」はウェセックス軍の戦勝を記念して描かれたものだとした(2高橋博(1993)『アルフレッド大王―英国知識人の原像』朝日新聞出版、朝日選書、43-44頁/アッサー/小田卓爾訳(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、217-218頁)。地形の描写等一致する面もあり現在まで有力視されてはいるが推測の域を出ない。これに対してオックスフォードシャー州モールズフォードの丘陵地帯を有力視する説もあり、キングスタンディング・ヒルという名の丘陵地はアルフレッドが布陣した場所であるという(3Barradell-Smith,Judy(2017).A LOCAL BATTLE: The Battle of Ashdown. 8th January, 871AD.)。他にも各地に候補地が存在しており、現在まで定説は無い。

871年1月8日、ヴァイキング軍はバッグセッジとハーフダン・ラグナルソン二人の指導者を中核とする主力部隊と多くの首領たちからなる部隊の二つに軍勢を分割して丘陵地の稜線に沿って盾の壁を築くように布陣し、対するウェセックス軍もエゼルレッド王率いる部隊と王弟アルフレッド率いる部隊の二つに分割して同じように盾壁を構えて布陣した。このとき、エゼルレッド王は陣幕に司祭を呼んでミサを行い、ミサを終えるまでは動かないと主張したため、迅速な進撃を唱えるアルフレッドはしびれを切らしてエゼルレッド王を待たずに自軍だけ交戦に入った。アルフレッド軍は敵の猛反撃に苦戦しつつも奮戦して戦線の崩壊を防ぎ、ミサを終えたエゼルレッド王は神の助力を祈り参戦して両軍力をあわせてヴァイキング軍を撃破し、翌日まで追撃戦が展開された。この結果、ヴァイキング軍は指導者バッグセッジとシドロック兄弟、オズベアルン、フレナ、ハロルドの五人の首領が戦死するなど大きな損害を受けて敗走した。

アッシュダウンの戦いにおけるエゼルレッド王とアルフレッドの評価については中世以来の長い歴史がある。敵を目前にして祈祷が終わるまで部隊を動かさないエゼルレッド王に対しアルフレッドは独自に攻撃を開始しているが、これはアルフレッドの決断力を示すものではなく軽率さや信仰心の欠如を示すとして批判されてきた。著者アッサーは若き日の主君の行動の評価に対して抑制的だが、十二世紀イングランドの歴史家マームズベリーのウィリアム(William of Malmesbury,1095年頃 – 1143年頃)は『若さゆえの軽率さ』と厳しく批判する一方で、王の敬虔さをこの戦いの勝因であったと称賛している(4William of Malmesbury’s Chronicle of the Kings of England.chap.III.)。アルフレッドの信仰心の欠如と軽率さが軍を危機に陥らせ、敬虔で冷静沈着な兄王の参戦によって勝利に結びついたという評価がされてきた(5小田卓爾(1990)「アッシュダウンの戦い再考」(慶應義塾大学藝文学会『藝文研究. Vol.58, (1990. 11)』 174(215)- 187(202)頁))。現在ではアルフレッドは必ずしも軽率であったとは言えず、『この勝利を敬虔で沈着なエゼルレッドに帰すか、それとも決断力にとむ勇猛なアルフレッドに求めるかを決めることは容易ではない』(6高橋(1993)45頁)として、改めて両者の協力があって勝利に至ったとみられている。

戦後

敗走したヴァイキング軍はハーフダン・ラグナルソンの指揮下で立て直し、アッシュダウンの戦いの二ヶ月後に行われたマートンの戦いではエゼルレッド王とアルフレッド率いるウェセックス軍が敗北、その直後おそらく戦傷が元でエゼルレッド王が死去し、アルフレッドが後継者として即位した。アッシュダウンの戦いを含むウェセックス軍とヴァイキングの戦いは871年の一年間で八度繰り返され、両軍大きな損害を出して休戦条約が結ばれ五年間の平和が訪れた。

878年、新たにヴァイキングの指導者となったグスルム率いる「大軍勢」とアルフレッド大王率いるウェセックス軍が会戦したエディントンの戦いではウェセックス軍が大勝利を収めた。降伏したデーン軍の指導者グスルムはカトリックへの改宗を申し出て、アルフレッドの後見で受洗、その後886年から890年の間にアルフレッドとグスルムの間でアングロ・サクソン人とデーン人の境界が確定され「デーンロー」が成立する。以後、ウェセックス王国は対ヴァイキング戦争を優位に進め、927年、アルフレッド大王の孫アゼルスタン王が旧ノーサンブリア王国南部を勢力下とするデーン人王国(ヨールヴィーク)を滅ぼし、全イングランドの統一に成功、イングランド王国が誕生した。

参考文献

脚注