イネ(Ine)王は七世紀後半から八世紀前半にかけてイングランド南部のウェセックス王国を治めた王(在位688-726年)。生没年不詳。ウェセックス王国の版図を過去最大に広げたカドワラ王の後を継いで即位した。前王の征服したイングランド南東部の支配と対外関係を安定化させ、ドゥムノニア半島へ侵攻して領土を拡大、イングランド南西部の支配を確固たるものとした。また、ウェセックス王国最初の法典(イネ王法典)を編纂しウェセックス王国の統治体制を確立した。726年、退位してローマへ巡礼、後にローマで没した。
イネ王即位以前のウェセックス王国
六世紀後半から七世紀前半にかけてオックスフォードシャー南部ドーチェスター・オン・テムズ(Dorchester-on-Thames)を中心としたテムズ川上流域に誕生したとみられる(1Hamerow, H. , Ferguson, C., Naylor, J. (2013), ‘The Origins of Wessex Pilot Project‘, Oxoniensia 78: 49-69./ Hamerow, H., Ferguson, C. ,Naylor, J. , Harrison, J.,McBride, A. ‘The Origins of Wessex: uncovering the kingdom of the Gewisse‘ , University of Oxford.)ウェセックス王国は七世紀半ばまでにブリテン島南西部に基盤を築きつつあったものの、当時ブリテン島全土へ覇権を確立したノーサンブリア王国と覇権を争うペンダ王の下で強勢を誇ったマーシア王国の二大国に脅かされ続けていた。
635年、ウェセックス王キュネギリス(在位611-642年頃)はブリテン島に覇権を確立したノーサンブリアのオスワルド王を代父としてキリスト教に改宗することで従属を示した。また、キュネギリス王の子チェンワルフ王(在位641/643-645年、648-672年)は、妻のマーシア王ペンダの妹と離婚して別の女性と再婚したためペンダ王の侵攻を受け、648年まで三年間マーシア王国の直接支配下に置かれた。
672年にチェンワルフ王が亡くなって以後はウェセックス王国を統一支配した王はおらず複数の指導者たちが並び立っていたと言われている(2高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、209頁)。685年、ウェセックス王国を再統一して即位したカドワラ王(在位685/686-688年)は積極的に外征を行って二年余りの短い治世の間にサセックス王国、ワイト島、ケント王国を相次いで征服しウェセックス王国の版図を過去最大に広げた。688年、カドワラ王はワイト島での反乱鎮圧の際に負った傷が元で退位することとなり、新たにイネが即位することとなった。
治世
九世紀後半以降に作られたウェセックス王家の系図によると、イネ王は第三代ウェセックス王チェウリンの玄孫チェンレッド(Cenred)の子で、インギルド(Ingild)という名の兄弟がいたとされている。ウェセックス王家はチェウリン王の後、同王の兄弟クザ(Cutha)の子チェオル(Ceol)が継ぎ、以後クザの子孫が代々ウェセックス王位を継承していた。685年、クザの系統に代わってチェウリン王の末裔とされるカドワラ王が即位しイネ王が続いたことでチェウリン王の子孫へ王統が交替した。後にブレトワルダとしてブリテン島におけるウェセックス王国の覇権を確立するエグバート王はイネ王の兄弟インギルドの末裔とされ、エグバート王の孫アルフレッド王の直系子孫がイングランド王家となる。
イネ王初期の統治は短期で終わった前王カドワラ治世下で残された課題への対応から始まる。686年、カドワラ王はケント王国を征服して兄弟のムル(Mul)をケント王として擁立したが翌687年、ケント王国で反乱が起きてムル王らが殺害された。694年、イネ王は乱後にケント王となったウィトレッド王(在位690頃-725年)から三万ポンドの支払いを受けることと引き換えにケント王国との和平条約を結んだ。以後ケント王国はウェセックス王国に服属、後にケント王家は先述のイネ王の兄弟インギルドの子孫の血統に替わり、九世紀にウェセックス王エグバートを輩出する。
イネ王はケント王国に対しては独立を認めて安定した関係を築いたのに対し、同じくカドワラ王が征服したサセックス王国に対しては厳しい態度で望んだ。731年に書かれた「アングル人の教会史」には「……さらにカドワラのあとを継いだイネ王もその国(引用者注:サセックス王国)に長年にわたって同様のむごい圧政をしいて人民を苦しめた」(3高橋博 訳(2008)214-215頁)と、イネ王の厳しい統治が紹介されている。また、「アングロ・サクソン年代記」の722年の条にイネ王がサセックスに逃れたウェセックスの王族エアルドベルトを討つためサセックスへ侵攻、同725年の条にもイネ王がサセックスへ侵攻してエアルドベルトを殺害したとの記録がある(4大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、58頁)。
ウェセックス王国東部の統治を安定化させたイネ王はウェセックス王国の西側へ進出を開始した。710年、イネ王はサセックス軍とともにドゥムノニア半島へ侵攻、迎え撃つドゥムノニア王国軍を撃破してドゥムノニア王ゲライント(Geraint)を殺害した。この勝利で現在のサマセット州西部まで領土を拡大し、現在の州都タウトンに城塞を築いた。また、十世紀頃に編纂されたブリトン人側の歴史を記した「カンブリア年代記」によると722年、コーンウォールのブリトン人がウェセックス軍にヘヒルの戦い(Battle of Hehil)で勝利したという。「アングロ・サクソン年代記」の722年の条にもイネ王の妃エセルブルフがタウトンの城塞を破壊したとあり、この頃タウトン周辺からの撤退を余儀なくされたとみられる。
715年、マーシア王チェオルレッド(在位709-716年)率いるマーシア王国軍がウェセックス王国へ侵攻してきたがイネ王は現在のウィルトシャー州マールバラ近郊とみられるウォーデンズバラ(Wodnesbeorh)でこれを迎え撃ち、撃破した(ウォーデンズバラの戦い)。
内政
イネ王法典
イネ王はウェセックス王国で初めて法典を制定したことで知られる。五世紀から九世紀にかけてヨーロッパのゲルマン諸国家で諸部族の慣習法を元にローマ法の影響を受けて法律を制定する動きが拡大した。ブリテン島では南東部に栄えたケント王国でエセルベルフト王(在位580頃?-616年)の治世下で初めて古英語で法典が編纂され、七世紀にかけてケント王国で代々の王が法律を施行した。イネ王法典もケント王国での法典制定に続くもの(5イネ王法典もケント諸法同様に古英語で書かれたとみるのが通説だが、近年、制定時はラテン語で書かれ、後に古英語に訳されたとする説も提唱されている(Ivarsen, I. (2023). Innovation and Experimentation in Late Seventh-Century Law: the Case of Theodore, Hlothhere, Wihtræd and Ine. Anglo-Saxon England, 1–39. doi:10.1017/S0263675123000145))だが、制定目的については諸説ありはっきりしない。
イネ王法典は制定時の記録は残っておらず、九世紀にアルフレッド大王が法典を編纂した際にアルフレッド王法典に追加して掲載したことで後世に伝えられた。現存する最古のイネ王法典は十一世紀頃までに書かれた写本”Corpus Christi College, MS173″(ケンブリッジ大学コーパスクリスティカレッジ収蔵)に「アングロ・サクソン年代記」の稿本の一つパーカー写本やアルフレッド王法典などと併せて収録されている。MS173のイネ王法典は「アングロ・サクソン年代記」の924年の条の記録の後に付加されたもので、930年以前に執筆され930年から950年の間に付加されたものと考えられている(6森貴子(2012)「アングロ・サクソン期イングランドにおける王の法典の史料的性格―P. Wormald, The Making of English Lawを素材として―」(『愛媛大学教育学部紀要 59』259頁))。
イネ王法典はイネ王が即位した688年から694年の間に制定された。序文で、この法典はイネ王の父チェンレッド、ウィンチェスター司教ヘッデ、ロンドン司教エアルコンワルドとエアルドールマン、ウィタン、および聖職者たちの助言よって作られたと述べられている。同法典は幼児洗礼、教会税納入の期限、司教の管轄権など教会に関する条項を除くと、主に殺人、暴力、窃盗など犯罪への罰則とそれらの犯罪における損失や経済的取引での損害賠償、畑の管理や家族と相続、自由民と奴隷の地位などを定めている。
教会と都市
イネ王法典の教会に関する条項を精査した近藤(2011)によると、イネ王法典の条項からイネ王が教会を王権の支配下に置こうとしたことがわかるという。イネ王法典において幼児洗礼、日曜日の労働禁止違反、教会税納入義務、などキリスト教上の義務違反や代父代子間の殺人・暴力に対し罰金や身体刑を科している。これらを通じて王は経済的利益を得るとともに、世俗法を通じて信仰上の関係性に介入することで王権の拡大を図り、王を頂点とした権力の確立と社会秩序の維持に役立てようとした(7近藤佳代(2011)「アングロ・サクソン前期、ウェセックスのイネ王と教会の関係 : 『イネ王法』における王の視点」(『人間文化創成科学論叢 13巻』お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科、79-86頁))。
705年、イネ王はウェセックス王国を管轄していたウィンチェスター司教区から新たにシャーボーン司教区を分割設立し、王族のマームズベリー修道院長アルドヘルムを新設されたシャーボーン司教に任命した。イネ王は、アルドヘルム司教によるドゥムノニア半島のブリトン人に対するイースター論争を支援するなどアルドヘルム司教を重用し、彼の助言を受けてシャーボーン修道院やのちにウェルズ大聖堂となるウェルズ修道院などを建設、同時代屈指の知識人であったアルドヘルムの下、学問が花開いた。また、グラストンベリー修道院の再建や資金援助も行うなど国内のキリスト教振興に力を尽くした。
現在のブリテン島南部の都市サウサンプトンにあるハムウィク(Hamwic)というサクソン人の交易集落遺跡の発掘調査の結果、ハムウィク集落はイネ王治世下で築かれた可能性が高いとみられている。この集落は、一定の間隔で規則正しい碁盤目状の道に沿って建物の区画が整備され、当時の集落の中で最大かつ最も密集しており、50人以上の農村集落がほとんどなかった時代に5000人以上いたと推定されている。住民は、骨細工、布作り、鍛冶、金属加工、ガラス加工などの専門的な工芸活動に従事し、多くの輸入品が発見されており海外との交易が盛んに行われていた。ハムウィク設立の経緯を説明する文献はないが、このような様々な発見から王家以外に実現しうる力を持っていたとは考えられないため、イネ王によってハムウィクが築かれたとみられている(8Yorke, Barbara. (1990).Kings And Kingdoms Of Early Anglo Saxon England. Routledge, London and New York, pp.139-140/ハインズ、ジョン(2010)「第二章 社会、共同体、アイデンティティ」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、107頁)。
継承
726年、イネ王は退位してローマへ巡礼の旅に向かい、後にローマで亡くなった。ローマでの消息は定かではなくいつ頃亡くなったかも不明である。十二世紀の歴史家マームズベリーのウィリアムによる「歴代イングランド王の事績(Gesta Regum Anglorum)」では王妃とともにローマへ向かい、「そこで、改宗の栄光を公にするためではなく、神の目だけに受け入れられるように、彼はひそかに剃髪され、家庭的な衣服に身を包み、人目を避けて老いた。 (9“There, not to make the glory of his conversion public, but that he might be acceptable in the sight of God alone, he was shorn in secret; and, clad in homely garb, grew old in privacy.”Giles, J. A.(1847).William of Malmesbury’s Chronicle of the Kings of England.,LONDON:HENRY G. BOHN, YORK STREET, COVENT GARDEN.M.DCCC.XLVII.)」と描かれている。
「アングロ・サクソン年代記」によればイネ王の同族であるというエセルヘアルド(Æthelheard)が後を継いだが(10大沢一雄(2012)58-59頁)、二人の関係性は不明で、従兄弟であるともイネ王の妃エセルブルフの一族であるともいわれる。727年にはチェウリン王の末裔とされるオスワルド(11「アングロ・サクソン年代記」によるとオスワルドはチェウリン王の孫キネバルドの孫でキネバルドはイネ王の曽祖父クズウォルドの兄弟という)がエセルヘアルド王に反旗を翻して王位を争ったが敗れている。エセルヘアルド王はウェセックス王家の出身ではない可能性も示唆されているが定かではなく、エセルヘアルド以降エグバート王即位前までの歴代のウェセックス王は系図上も関係性がはっきりしない。
参考文献
- 青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社
- 大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社
- 唐澤一友(2008)「アングロ・サクソン文学史:散文編」東信堂
- 高橋博 訳(2008)『ベーダ英国民教会史』講談社、講談社学術文庫
- チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会
- 近藤佳代(2011)「アングロ・サクソン前期、ウェセックスのイネ王と教会の関係 : 『イネ王法』における王の視点」(『人間文化創成科学論叢 13巻』お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科、79-86頁)
- 森貴子(2012)「アングロ・サクソン期イングランドにおける王の法典の史料的性格―P. Wormald, The Making of English Lawを素材として―」(『愛媛大学教育学部紀要 59』255-262頁)
- Attenborough, F.L. (1922), The Laws of the Earliest English Kings (Llanerch Press Facsimile Reprint 2000 ed.), Cambridge University Press.
- Giles, J. A.(1847).William of Malmesbury’s Chronicle of the Kings of England.,LONDON:HENRY G. BOHN, YORK STREET, COVENT GARDEN.M.DCCC.XLVII.
- Ivarsen, I. (2023). Innovation and Experimentation in Late Seventh-Century Law: the Case of Theodore, Hlothhere, Wihtræd and Ine. Anglo-Saxon England, 1–39. doi:10.1017/S0263675123000145
- Yorke, Barbara. (1990).Kings And Kingdoms Of Early Anglo Saxon England. Routledge, London and New York.
- Ine. Oxford Reference.